(ミアレシティに住む、年若くあどけない淑女の話)
懐かしい夢を見た。髪に煙草の吸い殻を絡めた彼は困ったように笑っていた。
『ローラースケートができる男性って、かっこいいと思わないかい?』
心臓に手を触れられるような、強烈な震えで目が覚めた。人は過去の郷愁を極めると不安を抱くようになるのだと、泣きたくさえなるのだと、そう気付いてベッドから飛びおきた。
冷たい水で顔を洗い、オフの日に相応しい薄いお化粧をして、お気に入りのブラウスとスカートを履いて、外に出る。
行き先はもう決まっている。思い出の溶けた空気を吸い込みたい時に歩く場所など、あの人と出会ってからずっと同じだ。迷う必要など全くなかった。
朝の6時、ヤヤコマの群れがミアレの上空を通り過ぎる時間。空は明るいけれど、まだ影は落ちない、そうした絶妙な「眩しくない朝」が好きだった。
一人暮らしのアパートに鍵を掛けて、小さな鞄を肩に下げ、カンカンと古びた鉄の階段を駆け下りる。
どんなに古ぼけた建造物でも、ミアレシティの手に掛かれば、それは「古びたもの」ではなく「アンティーク」であり「伝統」なのだ。
美しくないものさえも努めて美しく見せるカロスの色眼鏡に、少年よろしく反抗していた時期は、残念ながらもうとっくに通り過ぎてしまった。
子供達が通り過ぎていく。……ああ、そういえば今日から夏休みだったっけ。夏の眩しい日差しが、あの小さな背中に降り注ぐまで、あと何分くらいかしら。
おそらくもっと東のエイセツシティやレンリタウンでは、もう強い日差しがアスファルトを叩いているのだろう。眩しい、と道行く人が目を細めているのだろう。
けれどミアレシティはカロス随一の大都会だ。まるで城壁のようにぐるりと町を囲むビルが、低い空に輝く日の光を遮っている。
大きな影が朝もやに揺蕩うのみで、まだ、暑い日差しはミアレのアスファルトに訪れない。
ミアレは町の周りを囲むこの城壁のような建物の関係で、何処よりも遅く日が昇り、どこよりも早く陽が沈む。
けれどこの町の人間は、陽が差さない間も、キラキラとした笑顔を湛えてアスファルトを蹴るのだ。そんな少し、眩しすぎる町なのだ。この「ミアレシティ」というのは。
この町に思い出を刻んだとして、かけがえのない時間をこの町で過ごしたとして、けれどそんな個人の小さな煌めきは、町の大きな流れにあっという間に飲まれてしまう。
お気に入りだった公園は数年前に取り壊され、カフェになった。毎日通っていた細い道の焼き菓子屋さんは、集客をよくするためにと大通りに店構えを移した。
変わらないものなど何一つないように思われるこの眩しい場所に、個人のささやかな思い出を残すのはとても難しい。
だから私は眩しくない場所を目指して大通りを曲がる。眩しい場所は目まぐるしく変わるけれど、眩しくない場所が変わることは滅多にない。
少なくとも私の知る限り、この路地裏に人の手が加えられたことはただの一度だってない。
履き古したパンプスの乾いた靴音が響く。カツ、カツと人の訪れを歓迎するように木霊する。
大通りでは周りのざわめきに掻き消されて聞こえない筈の音が、私の歩みを示す音がこんなにも鮮やかに聞こえる。
コンクリートとレンガの暗い色ばかりが周りを飾る、幅にして3mにも満たない裏路地。此処を私は愛していた。此処が思い出の場所でよかったと心から思えるのだ。
彼が頭から突っ込んだゴミ箱、それにそっと手を触れてクスクスと微笑む。中を一瞥すれば、底に煙草の吸い殻を3本見つけることができた。
今でも此処に来れば鮮明に思い出せる。路地裏でこっそりとローラースケートの練習をしていた彼が、盛大に足を取られてこの鉄網製のゴミ箱に突っ込んだ、あの日のことを。
呆気に取られた私の前で、空笑いをしながらゴミ箱から這いずり出た彼が、駆け寄った私を見上げて放った第一声を。
『すまないね、朝から、こんな見苦しいものを見せてしまって。』
申し訳なさそうにくたりと眉を下げた彼の、ふわふわとした癖のある髪には、ゴミ箱に入っていたであろう煙草の吸い殻が絡まっていた。
手を伸ばしてそれを取り払えば、彼は益々泣きそうな顔になって頭を抱えた。まるで世界が終わってしまうかのような悲壮な顔に、私は少しだけ歪な色を見た。
つい先程まで誰かが此処にいたことを示すように、その吸い殻はまだ温かかった。
『誰かにみっともない姿を見せることは、いけないことなの?』
最初の出会いがこのようなものであったから、私はそれから当分の間、「彼」を思い浮かべる時、同時に煙草の香りを連想してしまっていた。
彼は煙草を吸わない。彼の中毒の対象はニコチンではなくカフェインだ。浴びるようにコーヒーを飲む。その香りを消すために、彼は数か月前から別の香りを身に纏い始めた。
ライラックの、強く優しい香りだ。
この町にも沢山生えているその木の名前を弾き出すことは驚く程に簡単だった。彼は長い時間をかけて、この町を象徴する香りを纏うことを選んだのだ。
『私は嬉しいわ。何処の誰だか知らない人の、こんなに頑張っている姿を朝から見られて、私はとても嬉しい。』
私がそう告げた途端、彼は驚いたような目で真っ直ぐにこちらを射た。長い沈黙を破ったのは彼の嗚咽だった。両目を両手で乱暴に拭いながら蹲り、子供のように泣きじゃくっていた。
あの日の彼に、果たして私の言葉はどんな風に響いてしまったのだろう。
カロスはとても、とても美しい町だ。その美しさに耐えきれなくなって、心を折る人物の姿を、私は少なからず見てきた。
「私はこの町に相応しくない」「私は美しく生きることなどできない」そんな風に零してこの地を後にする友人を、私は何人か知っていた。
颯爽とこの地を忘れる彼等を、羨ましいと思っていた時期だって確かにあった。
だから、この人もそうなのだろうかと思ってしまったのだ。
苦しいなら出ていけばいいのに。こんな窮屈な町にずっといなくたって、貴方の居場所は他にもある筈でしょう?
世界は、こんなビルに囲まれたアスファルト造りの町よりもずっと広いのよ。貴方だって知っているでしょう?
けれどその後、彼が涙声で為した自己紹介により、私は彼の「逃げられない理由」を否応なしに知ることとなった。
彼の顔や声、ローラースケートが下手なこと、泣き虫なこと、臆病なこと、そうしたことを知らずとも、私はその名前を知っていた。その名前が意味するところを知っていた。
私だけではない。カロスに生きるポケモントレーナーならば誰でもその名を知っている。カロスのポケモン研究の権威である彼のことを、きっと誰もが知っている。
彼が「かっこよく」いなければいけない理由も、彼が「みっともなく」してはいけない理由も、全て、全てその名前の中に入っている。
『プラターヌ、というんだ。……ボクの名前だよ。』
ハンカチを差し出した私の手をぴたりと止めた、あの瞬間の強烈な寒気を、私は今でも覚えている。
彼の涙はきっと、みっともなく転んだことに対する悔しさや、それを私のような女性に見られてしまったことへの恥ずかしさから零れたものではなかったのだろう。
ローラースケートでの転倒は契機に過ぎなかった。彼はもっと、ずっと前から何かに追い詰められていた。この路地裏でそうした、溜め込んでいた何もかもが決壊したのだ。
彼は逃げられなかったのだ。カロスで確固たるポストに就く彼には、しかし悉く居場所がなかったのだ。
そんな貴方の居場所になってみせると、宣言してから数年が経った。
私は未だに彼が、あの時と同じように泣きじゃくる姿を見たことがない。
あれがイレギュラーなことだったのだと、あの時の彼は異常だったのだと、解っていながらどうしても私は彼のことを「泣き虫な人」として見てしまう。
彼は煙草など吸わないのに、彼を想うとあの煙たい香りが呼び起こされる。彼は素敵な人なのに、私は彼の「みっともない」ところを愛する覚悟さえしている。
「やあ、君も来ていたんだね!」
「!」
その幻聴が幻聴でないのだと、気付いてしまったから私は慌てて振り返る。表通りに続く明るい道から、彼が手を振っている。
ああ、もう日が昇ったのだと、明るい日差しがカロスのアスファルトにも差したのだと、私はそこでようやく時の流れを思い出す。
目が眩む程に眩しい通りから、彼は影しか落ちないこの裏路地へと歩を進める。一歩、二歩と歩み、そこから駆け出して来る。
私も手を振り返し、歩幅を大きくして歩み寄る。
彼はもうローラースケートを履かない。子供のように泣きじゃくったりしない。とても素敵な人。優しくて立派な人、悉く平凡な私を好きでいてくれる人。
実のところ、私達がこの場所で偶然に顔を合わせたのは一度や二度では決してない。
懐かしさが心臓を鷲掴みにしてどうにも平静ではいられなくなった時、無性に一人が虚しくなった時、彼の名残を追いたくなった時、私は家を出てこの、眩しくない道に向かう。
特に示し合わせた訳ではないにもかかわらず、この道には3回に1回程の確率で彼がいる。彼もまた懐かしいのだと、寂しいのだと、言葉にするまでもなく解ってしまう。
同じ町に住んでいるのに、3日に一度は必ず声を聞いているのに、それでも私と彼は此処へ来る。思い出の塗り潰されない場所を求めて暗い路地裏を歩く。
彼が「何」を恐れていたのかを私は知らない。
博士という責任のあるポスト以上に、彼は「何か」に怯えていたようだけれど、その正体を私は知らない。彼は饒舌だったけれど、あまり自分のことについて多くを語らない。
それでも彼は私のような「何も知らない」私を拠り所にしてくれた。「何も知らない」私は彼の居場所になることが叶った。
「あ!」
駆けてきた彼が割れたアスファルトに足を引っかけて、盛大に躓く。咄嗟に手を伸ばして受け身の体制を取った彼だが、べしゃりと潰れるように転んでしまった。
貴方があの時のようにみっともなく転ぶなんて珍しい。そんなことを考えながら手を伸べようとしたところで、思わず「え?」と声を上げる。
白衣のポケットから転がり出た小さな箱は、私の履き古したパンプスに当たり、止まった。
路地裏の薄闇でも判る程に彼は顔を赤くする。私の顔も赤くなる。その箱が意味するところに気付けない筈がない。その箱を落とした彼を茶化せる余裕なんかある筈がない。
アスファルトに伸びた彼は、謝罪をすることも言い訳を紡ぐことも簡単にできた筈なのに、そうした言葉の代わりに、真っ直ぐに私を見上げて別の言葉をくれる。
「受け取ってください、ボクが幸せにします」
笑いながら小さな箱を拾い上げた。そっと開けて、世界一美しい宝石を彼の前に差し出した。
「違うわ、私が貴方を幸せにするの」などとうそぶけば彼も笑い出す。どちらからともなくその笑い声が揺れ始める。
彼は起き上がってから膝を折り、濡れた手でリングを箱から取り出し私に差し出す。私も濡れた冷たい指をそのままに、左手をそっと伸ばす。
私はまだ彼の全てを知らない。彼は全てを語らない。それでもよかった。焦らなくてもよかった。だって私達にはこれから、飽きる程に永い時間がある。
その永さを証明するように、8号のリングが薬指で眩しく煌めく。
2016.8.31
(金木犀の頃、あれから10年)
遅くなってしまい申し訳ありません。ポプリさん、ハッピーバースデー!