灰を溶かす泡

※50万ヒット感謝企画、参考曲「CANDY」(平井堅)
(フエンシティに住むポケモントレーナーの話)

煙突山からデコボコ山道を下りたところにある小さな丘、風向きによっては火山灰が此処まで飛んで来ることがある。
今日は比較的少ないらしく、目を凝らさなければ見つけることができない程だ。
私は一緒に数多のコンテストを挑んできたパートナーを連れて、フエンシティの外れにあるこの場所にやって来ていた。
別にここでひっそりとアピールの特訓をしようという訳ではない。ただの散歩だ。
1日は24時間もあるのだから、そのたった1時間くらい、コンテストのことを忘れてのんびりしたところで罰など当たらない筈だ。

北からの風が強くなった時にだけ、煙突山の火山灰がデコボコ山道を越えてこの丘にまでやって来る。
ふわふわと舞うようにやって来るそれは、名残雪のようにも、霧雨のようにも見える。
今日は雲一つない晴天であったため、陽の光が火山灰を反射してキラキラと、ガラスのように煌めいていた。

その中に煌めく、火山灰よりも遥かに大きな透き通った煌めきを見つけて私は首を捻る。
火山灰は煌めきながら私達の足元へと落ちてくるにもかかわらず、その大きな煌めきは上へ上へと昇り、どんどん小さくなっていってしまう。
そのふわふわとした昇り方は私の、ずっと昔の幼い記憶を心地良くくすぐり、一つの単語を弾き出した。

「シャボン玉……」

誰かが近くで遊んでいるのかしら?
そう思ったけれどこの丘はいつものように静かで、たまに山の方からポケモンの声が聞こえてくることはあれど、
子供達のはしゃぐ声というものはいくら耳を澄ましたところで拾い上げることはできなかった。
けれど雲一つない空の青に目を凝らせば、シャボン玉は一つどころではなく、ずっと遠くの空ではあるけれど、火山灰とは異なる方向から、次から次へと飛んできていた。

何処から来たの?
そう尋ねるように私は足をそちらへと向けたけれど、私の動きよりもロゼリアのそれの方がずっと早く、
その不思議な泡を追い掛けるようにぴょこぴょこと駆けていってしまったため、思わず笑みが零れた。
空にふわふわと浮かぶものに心を奪われるのは、人もポケモンも同じであるらしい。
そうした、人の心の揺らぎ、衝撃や感動というものを人にもポケモンにも提供する「ポケモンコンテスト」という場に幾度も出場してきた私が、
今更、このようなことに気が付くのもおかしな話かもしれないけれど。

段差を飛び降り、東へ進んだ。シャボン玉の数は少しずつ多くなっていった。
草むらの近くにある大きな木の影で、一匹のグラエナが居眠りをしていた。
その向こうでシャボン玉を飛ばす人物、その頭に深く被られたフードが暗い赤色をしていると気付いた瞬間、
私の足は先程までの期待に満ちた歩みをなかったことにするかのようにぴたりと止まった。幼い心地を揺蕩っていた私のささやかな高揚は、黄色い地面に吸い込まれて、消えた。
マグマ団だ。

煙突山にアジトを構えるこの組織がどんなことを目論み、どんなことをしているのか、一介のポケモントレーナーである私は何も知らない。
風が運んでくる身勝手で気紛れな噂は、彼等のことを時に恐れ、時に糾弾し、時に忌避していた。いい噂など一つもなかったことだけは確かだった。

フエンシティは田舎町だ。噂など直ぐに広まる。
そうした噂の溶けた空気を吸い込んで生きてきた私だって同じように、マグマ団という組織を恐れる、つまらない、些末な民衆の一人にすぎなかった。
そうした自分の位置を疑ったことなどこれまでただの一度もなかった。
こんなに近くの土地にアジトを構える彼等と、しかし面と向かって顔を合わせる機会などある筈がないとたかを括っていたのだ。
彼等のことは、噂でしか耳にすることのない組織だと、彼等はそうした遠い存在だと思っていた。思い上がっていたのだ。

しかしその「ある筈がない」と思っていた機会が今、こうして私の目の前にある。

そうして、必要のない先入観を持っている私の足は、火山灰の混ざった黄色い地面に縫い付けられてしまったのだ。
けれどロゼリアはコンテストの世界しかしらない。フエンシティの田舎町にある、のどかで穏やかな暮らししか知らない。
故に彼女はその赤いフードを恐れることなく、そのままぴょこぴょことその人物に駆け寄ってしまったのだ。
私は驚愕と恐怖に息を飲んだけれど、彼女を引き止めるための声を上げることすらできなかった。

背の高さからしておそらく男性であるその人は、ロゼリアを見下ろして直ぐに屈み、シャボン玉のストローを持っていない方の手でロゼリアの頭をそっと撫でた。
嬉しそうに両腕の大きなバラを瞬かせた直後、しかし彼はストローを彼女に向け、シャボン玉をふーっとロゼリアの顔に吹き付けた。
目の前でぱちぱちと弾けるシャボン玉に驚き、わたわたと慌てふためいたロゼリアを見て、彼は肩を小刻みに揺らしながら、ウヒョヒョという特徴的な高い笑い声を上げた。

羨ましい、と思った。別にシャボン玉を顔に浴びせられたかった訳ではない。
何の先入観も持たずに駆けていくことの叶うロゼリアが、その軽い足取りがあまりにも眩しかったのだ。
シャボン玉の泡に濡れたロゼリアの薔薇は、キラキラと宝石のように輝いているように見えた。
彼は少しつり上がった眼をすっと細めて、私と同じようにロゼリアの薔薇を眩しいと思っているかのようにすっと目を細めた。
それから立ち上がり、その視線を、未だ地面に縫い付けられている私の顔に、向けた。

「あんたもやってみるか?」

先程の笑い声の高さとは対照的に、その声はまったくもって「男性」の、私の奏でることのできない低い響きで私の鼓膜をトン、と叩いた。
射るような目だと思った。

噂に従うなら、私の肺の中に満たされた、その噂の溶けた空気に従うなら、私はその視線に突き殺されて然るべきだったのだろう。
けれど彼の声は、目は、私を射殺さなかった。私は息をしていて、しっかりと二本の足で立っていて、彼を見つめていた。
ああ、なんてことはなかったのだと、そう認めれば私の足はようやく動いた。
だって彼の視線は私の心臓を突き殺して止めるどころか、益々強く大きな音を立てさせるに至っているのだから。
私の心臓が止まっていないのであるならば、私が足を止める必要など、きっとない筈なのだから。

「……」

ざく、ざくと、黄色い土と火山灰を踏みしめて歩いた。数メートルあった彼との距離は一歩ずつ縮まっていった。
彼がストローの吹き口をこちらに向けて差し出してくれていた。私はそれにそっと、恐る恐る、手を伸べた。
けれど正にそれを掴もうとした瞬間、彼はにっと笑ってそれを素早く引っ込め、先程、ロゼリアにしていたように私の顔へとシャボン玉を勢いよく、吹き付けた。

そんなことをされて驚かない人などいないだろう。
わっ、と声を上げて尻餅をついた私に、彼は再び先程の奇妙な甲高い声で、楽しそうに、……そう、至極楽しそうに笑った。

……ああ、やはりマグマ団なんてろくなものではなかったのだ!
そんなことを思いながら、しかし私はこの歩みを悔いなかった。
マグマ団、という形のない、もやもやした霧のようなイメージが、この人に出会ったことではっきりとした形を取ったのだ。
少なくとも今、目の前で笑うこの人は、「マグマ団の男性」ではなく、「赤いフードを被った、悪戯とシャボン玉が好きな青年」へと変わっていた。
それでいい気がした。少なくとも私はこうして一歩を踏み出すことの叶った自分に満足していた。

「……悪かったよ、ほら」

呆然とした顔でそうしたことを考えていた私を見て、しかし彼は私が気分を害したと思ったらしい。そう告げて私に手を伸べてきた。
躊躇いがちに掴めば、まるでボールを拾うような、なんてことのないような淀みなさで、けれど確かな力強さで引っ張り上げられた。

「シャボン玉が珍しいのか、お嬢さん?」

そう言って差し出されたストローを今度こそ手に取った。彼はもう手を引っ込めなかった。
少し迷った後で彼の顔に向かって勢いよく吹き付ければ、彼は私と同じように驚き、むせ返り、そして笑いながら困ったように肩を竦めた。

「おいおい、あんたはこんなオレみたいな遊び方をしちゃいけない。これは空に吹いて遊ぶもんだ」

何か勘違いをしているらしい彼に、私は肩を竦めて悪戯っぽく、……そう、丁度、目の前の彼のように笑ってみせた。
私はお嬢様などではないし、シャボン玉がどういった類のものであるかもよくよく解っている。
これは私の無知がはたらいた愚行ではなく、ただの戯れだ。貴方と同じ、悪戯なのだ。

「知っているわ」

「!」

「……知っているの」

知っていて、貴方に吹き付けたの。言外にそう滲ませて私は笑った。
割れることを忘れたシャボン玉は空高く昇り、天に煌めく火山灰ともう見分けがつかない。
きっとどこまでも昇っていくのだろう。下らない噂の溶けていない、ずっと高くまで飛んでいくのだろう。
そんな遠くまできっと、私と彼の息を包んだ泡は旅に出るのだ。これはそうした旅路を送り出す儀式だったのだ。

「貴方の名前は?」

彼は照れたようにフードの上から頭を掻いた。笑うと彼は少しだけ、子供っぽい。

2016.4.12
usagiさん、素敵な曲のご紹介、並びに企画へのご参加、ありがとうございました!

© 2024 雨袱紗