O:いたずらごころ

コトブキシティというところにあるポケモンセンターを出た頃、私の所持金はついに底をついてしまった。
ポケモンバトルに勝利すれば賞金としていくらかお金を貰える。けれどそれは同時に、こちらが負ければ持っているお金を手放さなければならないことを意味している。
ポケモントレーナーの世界はとても自由であると同時に、とても厳しいものであるのだと、知った。

昨日、私はまたしてもポケモントレーナーの男の子に敗れていた。彼のポケモンに全く歯が立たなかったのだ。
「でんこうせっか」と「かわらわり」しか使えないリオルに、ゴースというポケモンは容赦なく技を浴びせてきた。
どちらの技もゴースの体を素通りするだけで、まるで攻撃が当たらない。これ以上戦わせるのは酷だということで、私から降参を申し出た。
賞金を支払えば、もう300円しか財布の中には残らなかった。ポケモンセンターでの宿泊により、その300円は悲しくも潰えてしまった。

もう、ポケモンセンターの宿にお世話になることさえできない。
けれど一文無しな私でも、ポケモンの回復サービスは無料で受けられる。勿論、トレーナーカードがあるおかげだ。
トバリシティでトレーナーカードを作ってくれた女性の優しさを噛み締めつつ、私は空っぽのお財布をポケットに入れて、西へと進んだ。

ゲート、と呼ばれる建物を抜ければ、そこには青い湖が広がっていた。
肌に吹き付ける秋風は少し湿っていて、妙なべたつきがあった。不思議な風だ、と思っていると、その秋風がまたしても「声」を運んできた。

アイラ

前よりもずっとはっきりと聞こえた。確実に彼へと近付いているのだという確信は、私の鼓動をとんとんと急かすように速めた。
ああ、私に波動の力があったなら、私も彼の名前を呼べるのに。遠くにいても、風が私の波動を運んでくれたのに。

「お姉さん、この向こうに行きたいの?」

背後から聞こえた声に振り向けば、10歳くらいの女の子がこちらを見上げていた。傍らには彼女よりも背の高い、凛々しい表情をした青と銀のポケモンが立っていた。
エンペルトだ、と思った。これまでシンオウ地方を広く旅してきたけれど、このポケモンに出会ったことはまだなかった。
あの「ポケモン図鑑(シンオウ)」の中でしか見ることの叶わなかった存在が、手を伸ばせば触れられる距離にいてくれている。
その事実に喜んでいると、女の子はエンペルトに向けられる視線に気が付いたのか、「かっこいいでしょう?」と嬉しそうに告げて笑った。

「お姉さんもミオシティに用事があるんだよね、一緒に行こうよ!エンペルトは強いから、二人で背中に乗っても大丈夫なんだよ」

ああ、外の世界に生きる人間というのは、こんなにも小さな子でさえ優しいのだ。そのことを噛み締めるように私は「ありがとう」と告げて頭を下げた。
エンペルトは勢いよく水に飛び込んで、その背中を私達に向けた。女の子は慣れた様子でひょいと飛び乗り、私に手を伸べてくれた。私はもう一度お礼を言ってから、握った。
私よりもずっと小さな女の子の手は、けれどとても温かく力強いものであった。これが「ポケモントレーナー」の手なのだと、認めれば益々、この女の子が眩しく思えた。

「お姉さんはミオに何をしに行くの?」

「私は、人を探しているの。ルカリオを連れていて、青い服を着ていて、私と同じ色の髪をしていて、それから、」

「あ、分かった!ゲンさんのことでしょう!」

呼吸を忘れた。瞬きを忘れた。心臓は張り裂けそうな程に大きく胸を打っていて、いよいよ泣きそうになった。
ようやく息を吸い込むことを思い出せば、嗅ぎ慣れない水の香りがした。
それこそが「海」の香りであることに、今まさに「海」を渡っていたのだということに、私はまだ気が付いていなかったのだけれど。

あっという間に陸地が見えてくる。やはり女の子の方が先に陸へと飛び移って、私に手を伸べてくれる。けれど私はその手を握らず、女の子の真似をして勢いよく飛び移る。
躊躇っている暇すら惜しかった。だってこの子は彼を知っている。私はもうすぐ彼に会える。
女の子は首を傾げて「お姉さんの名前は?」と尋ねた。私が自分の名前を告げるや否や、彼女はとても楽しそうに笑い始めた。
何の笑みなのかはよく解らなかったけれど、彼女の笑顔があまりにも眩しくて綺麗だったから、私も釣られて、笑ってしまった。

女の子は、彼が今、鋼鉄島と呼ばれる場所に住んでいること、その島へはミオシティから出ている連絡船に乗って向かうのだということを教えてくれた。
連絡船の値段はとても良心的なものだったのだけれど、財布の中に10円玉と1円玉しか残っていない私が利用できる筈もなかった。
操縦者の男性は「1回くらい構わねえよ」と言って私を船へと乗せてくれようとしたのだけれど、私が遠慮するより先に、女の子が「駄目だよ!」と船頭さんを制止した。
その時の彼女の言葉を、私は今でも覚えている。

「だってこの人、アイラさんなんだよ。ゲンさんがずっと話していたお姉さんだよ。船頭さんも知っているよね?ゲンさんの驚いた顔、船頭さんも見たいよね?
だからアイラさんには、船頭さんの家で待っていてもらおうと思うの。その間に私がゲンさんを呼んでくるから。ね、いいでしょう?」

ゲンさん、貴方はどんな顔で私の話をしていたんですか?
そんなことを考えながら私は笑った。まだ泣くときではなかったのだ。

男性の自宅には、5歳くらいの男の子とその母親らしき人物がいて、私にココアという温かい飲み物を出してくれた。
まるでチョコレートを溶かしたミルクを飲んでいるようで、とても美味しかった。お金がなかったので、最近はろくに食事も摂れていなかったのだ。
少しずつそのココアを飲みながら、ああ、これは何℃かしらと考えた。80℃であればいいと思ったけれど、もう、何℃でも構わなかった。

ココアを飲み終えて、マグカップをそっとテーブルの上に置いた。再びソファに身体を沈めるのと、ドアが勢いよくノックされるのとが同時だった。
現れたその姿を見るなり、ぼろぼろと溢れ出した透明の涙は、まるで私よりも彼の訪れを心待ちにしていたかのようだった。
安堵の感情は涙と同じように、ずっと透明なままであるのだと、知った。

**

「ギラティナなんてあの森にはいなかったんです。村からの脱走者を手酷く傷付けていたのは、ギラティナではなく、もっとおぞましい怪物でした。
その怪物が村の大人達であることを知っているのは、ごく一部の人間だけでした」

小さなコーヒーカップに真っ黒の液体が注がれる。差し出されたそれをぐいと覗き込めば、眉をひそめたままの私が映りこんだ。

バスケットゴールに刺さったままの電車のおもちゃが脳裏を掠めた。
あの世界が「あいつ」にとっての正常であり、ポケモンと人が共存する私達の世界は彼にとって異常であった。
『それじゃあ、今までのボクは間違っていたというのかい!?』
彼の悲痛な言葉を私は今でも覚えていた。だから、この二人の過去がどれだけ苦く凄惨なものであったかということを、私は十分に推し測ることができてしまった。

「モンスターボールを授けられ、一人前とみなされた「大人」は、お酒の席で初めてその真実を知らされるんだ。
お酒に溺れた大人は怪物になり、ギラティナとして脱走者を監視することになる。
村の風習を厳格に守ってさえいれば、一人前である自分達は村で「いい思い」ができる。だから力のある者は誰も、その風習に異議を唱えなかったんだ」

「……何処の土地にも、稀有な力を悪用しようとする人間はいるものなのね」

彼女の話を聞いた今なら、この男性が何故、波動の力を頑なに拒絶したのか、何故「忘れよう」などということを言ったのか、とてもよく解る。解ってしまう。
私が彼であったとしても、きっと同じことを言った筈だ。忘れられるものなら「あいつ」にだって「忘れてしまえ」と説いた筈だ。
けれど彼女がゲンさんのことを忘れることができなかったことからも解るように、人の記憶は、心は、そう都合よく出来てはいない。
人は忘れたいものを忘れることなどできない。忘れなさいと説くことに何の意味もない。

「波動の力を扱える、という稀有な遺伝子は、80℃のお湯のようなものなんだ。冷たい外気にさらしていたり、ぬるま湯を入れたりすると失われてしまう。
だから一族は村を閉ざして、「余所の温度」が入ってこないように、「80℃」が出て行かないようにしていたんだ。
波動なんていう力は、そうして強引に隔離しないと次の世代に残していけないような、そうした、劣っている遺伝子だったんだよ」

「村に住む人の髪が皆、同じ色をしているのもそうした理由です。80℃同士であれば、波動の血が絶えることはまずありません」

だからこそ彼は今、その「忘れられないこと」を飲み込んで、その苦い記憶と共存しながら、未だに波動の力を使い続けているのだろう。
人とは往々にして惨いものだ。けれどその惨さにこそ希望があるのだ。
この二人はそうした、人の闇と光の両方を見てきた人間であるのだと、そう察してしまったから、私は彼等の今後に何の心配も抱かなかった。

「そんなに惨い場所だったのに、あの村をぶっ壊してやりたい、とは思わなかったのね」

「そんなことをしては私も、波動の血を残すために村を悉く閉鎖した、あの大人達と同じになってしまうよ。
私は誰かの生き方をコントロールしようとは思わない。私は私と、私の大事な人の平安が守られていればいい。そのために波動の力なんて、きっと要らなかったんだ」

「……でも、また波動を使うことにしたのよね?」

ほら、この話にはまだ続きがあるんでしょう?
ニヤリと笑ってそう尋ねれば、ゲンさんは困ったように笑いながら「まったく、敵わないな」と告げて、肩を竦めた。
コーヒーカップを掲げて、そっと口を付ける。当然のことだけれど、やはり苦かった。少しだけ飲んでから、シュガーポットの砂糖を5つ、どかどかと無遠慮に落とす。
楽しそうに笑った友人も、負けじと3杯のガムシロップをコーヒーに注いだ。


2017.3.2

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