N:貴方が歌う

翌朝、ハサミを女性に返せば、彼女は笑いながら受け取ってくれた。
「短い髪も似合っていますよ」と、嬉しくなってしまうような誉め言葉をくれた彼女に、私は満面の笑顔で「ありがとうございます!」と告げた。
驚く程に安い宿泊代を支払って、ポケモンセンターを飛び出した。リオルの入ったモンスターボールを、快晴の空に勢いよく投げ放った。

外の世界にはギラティナがいない。外の世界には怪物がいない。外の世界は、80℃ではない。

私はそれが嬉しかった。どうしようもなく嬉しくて、泣きたくなる程であったのだ。
だから、私は彼を探さなければならなかった。彼と共に喜ぶために、彼を探す必要があったのだ。
悲しくても独りでなければ生きていかれる。けれどたとえ嬉しかったとしても、独りはどうにも虚しいのだ。
喜びであれ悲しみであれ、その虚しさは変わらなかった。誰かと分かち合いたいと、願ってしまった。
そして、その相手は「彼」を置いて他にいないのだと解っていた。彼がよかった。彼が「君でなければいけない」と言ってくれたように、私も、そうだったのだ。
私も、彼でなければいけなかったのだ。

外に出て、驚いたことが幾つもあった。

人々が当然のようにモンスターボールを持ち歩いていること。そのボールが、200円から1200円という破格の値段で売られていること。
それらのボールを、人は1つや2つではなく、5つも6つも持って旅をしていること。たった1匹を連れて旅をしているトレーナーが、驚く程に少ないこと。

野生のポケモンにボールを投げて捕まえれば、そのポケモンのトレーナーになれること。ポケモンは、バトルをすることで強くなっていくこと。
捕まえたポケモンを、別のトレーナーの連れているポケモンと戦わせたりもすること。勝利した側のトレーナーは相応の賞金を手にすること。
ポケモンに乗って空を飛んだり、海を渡ったり、崖を登ったりする人がいること。
どの町にもポケモンセンターがあって、トレーナーはトレーナーカードを提示しさえすれば、誰でもポケモンセンターでの回復を受けられること。
大きな町には図書館があって、誰でも好きな本を読んで勉強することができること。自らの力を試すために、ポケモンジムという場所に挑戦するトレーナーもいること。

村にはなかったあらゆる施設、あらゆるサービス、あらゆる常識、そうしたものは私をひっきりなしに驚かせていた。
けれど私は、「村になくて、外の世界にあるもの」にではなく「村にあって、外の世界にないもの」に、実は一番、驚かされていた。

この世界には「波動」の概念がない。

見えないものを見ようと目を凝らす人の姿がない。聞こえない音を聞き取るために耳を澄ませる人もいない。
目に映る鮮やかなもの、聞こえてくる賑やかな音、そうしたものにばかり気を取られて、見えないものや聞こえないものを「ないもの」としてしまっている。
だから彼等は目を閉じない。耳を塞がない。そこから入って来る情報が全てだから、それらを断ってしまえば「独り」になるのだ。
そうではないことを彼等は知らない。彼等は「普通に生きていれば知覚することの叶わない力が、確かに存在している」という事実を、知らない。

あの村では、そうした「見えないものを操る力」こそが全てだった。その力を使いこなせない者は「落ちこぼれ」のレッテルを押される、という不遇に置かれていた。
けれどこの世界には「波動」という力の尺度がない。波動の存在が知られていないのだから、そんな力の尺度を決めたところで、その力を使いこなせたところで、何の意味もないのだ。

村の尺度、波動の尺度に当て嵌めるなら、外の世界にはあまりにも「落ちこぼれ」が多い、ということになるのだろう。
誰もが波動を使いこなせていない。波動を見ようともしない。波動を知らない。そんな「落ちこぼれ」の蔓延る世界だ。外はそうした場所なのだ。
けれど、それでも彼等はとても楽しそうに生きている。波動のない彼等の生活は、いよいよ幸福を極めている。
波動の力など使わずとも、ポケモンと心を通わせている。ポケモンの力を借りて、海を渡ったり空を飛んだりすることだってできる。
人々と楽しく交流して、行きたいところへ行って、食べたいものを食べて、したいことをして……。

アイラ、迷ってはいけませんよ。今は使いこなせないかもしれませんが、いずれ修行を積めば立派な波動使いになれます。そうすれば皆から認めてもらえるのです。
私達に訪れる救いは波動のみ、他の道などありはしないのですよ。お前を利用しそそのかした、卑怯な掟破りの男のことなど忘れてしまいなさい。』

村の男性の言葉を思い出しながら、「本当にそそのかしていたのはどちらだったのか」ということを、私は少しずつ理解していった。
長く、本当に長くあの村にいたから、私は自らの居場所を疑うことができなかったのだ。

彼等が「たゆまぬ修行の先にようやく手にすることの叶う」と説き続けた、喜び、幸せ、平安、そうした温かく優しい何もかも。
けれど村の外においては、その「温かく優しい何もかも」が当然のように存在していた。
波動の力などなくとも、血の滲むような努力を重ねずとも、彼等は独りではなかった。笑って、楽しんで、幸せで、……そしてその幸福を「優しさ」という形で私にも分けてくれた。

あの村にいては一生手に入らなかったかもしれない全てのものが、今、私の中にある。
そのことに私は驚き、戸惑い、狼狽えて、……そして時折、泣きたくなった。

『生きるためにはただ、「悲しく」なければいいんだ。生き物は悲しくさえなければ、なんとか生きていかれるものなんだ。』
あの男性の言葉と「彼」の顔が交互に思い出された。ああそうか、私は悲しいのだと、認めればいよいよ胸が締め付けられてしまった。いたたまれなくなった。

知らないポケモンの姿が沢山ある。誰もがボールにポケモンを入れて連れ歩いている。人とポケモンは助け合って生きている。人と人とも助け合って生きている。
あまりにも温かな世界だ。美しい世界、自由な世界、優しい世界だ。けれどそのことがとても、とても悲しい。悲しいから、上手く生きていかれない。
この「悲しさ」を共有してくれる相手、たった一人、この「悲しさ」を理解してくれる筈の相手が、まだ見つからない。

『君にとって楽しくはない話かもしれない。でも、聞いてほしい。あの箱の中身を君にもしっかりと見てほしいんだ。君でなければいけないんだ。』
『そうだね、間違っているのかもしれない。それでも君なんだ。間違っていたとしても、君がいいんだ。』
私も、貴方がいい。貴方でなければいけない。

『私達は80℃でなければいけないんだ。そういうレシピしかこの村にはないんだよ、アイラ。』
『すまない、君を道連れにしてしまった。一人で悲しむことが怖かった、苦しかったんだ。』
私も、一人で悲しむことが怖い。苦しい。一人で温度を変えることが、とても恐ろしい。

貴方に会いたい。

ヨスガシティから西へ向かい、テンガン山という険しい山脈を抜けた先には「発電所」と呼ばれる場所があった。
そこで本物のフワンテを見つけて、私はリオルと一緒にはしゃいだ。
モンスターボールを購入していなかったから、捕まえることはしなかったけれど、気持ちよさそうに寒空を飛ぶフワンテの群れを見上げるだけで、満たされていた。
ボールに収める必要など毛頭なかった。ただそれだけでよかったのだ。

私とリオルは共に、世界に愛されているような心地を味わっていた。
厳しくも美しいこの世界の自然は、余所者である筈の私達を、けれど決して弾くことなく受け入れてくれていた。人もポケモンも、お日様の光も、風の渦さえ優しかった。
楽しくて、穏やかで、泣きそうになりながら笑おうとしたその時、強い西風が「声」を運んできたのだ。

アイラ

弾かれたように立ち上がった。こんなにもはっきりとした幻聴などあったものではない、と思いながら、いよいよおかしくなって、笑おうとした。
けれど、笑えなかった。息を飲む音さえ邪魔に思われて、私は呼吸を禁じて続きを待った。幻でもいい、などと思えてしまったのだ。
そんな私の期待に応えるように、その幻聴は再び私の名前の形を取り、『アイラ』と私の胸を打った。

彼の声だ。彼が、波動を飛ばしているのだ。

信じられない、と思った。だってあれから1年が経っていたのだ。
彼が村を出て1年。この目まぐるしくも美しい外の世界へと飛び出して、1年。まだ15年しか生きていない私にとって、その時間はあまりにも長く感じられた。
ずっと会えなかったのだ。そんな相手のことなど、しかもこんな私のことなど、忘れているだろうと思っていた。

もし彼が私のことを覚えていたとしても、その「私」というのは、もうとっくに些末な過去の存在に成り下がってしまっている筈であった。
私は誰かに、いつまでも大切に想ってもらえるような人間ではない。私はそのことを心得ていた。
それでも一度、たった一度でいいから会いたかった。一目見れば、もうそれでいいと割り切るつもりだった。
それ以上を望む資格などありはしなかった。それが一年前、彼に付いて行けなかった私への報いであるような気がしていた。私はそんな風に弁えていた。諦めていた。
諦めたふりをしていた。

アイラ

けれど、西風が勢いよく飛ばしてきたその声は、確かに私の名前の形を取っていて、私にしか聞こえない筈のその声が、確かに何度も届いていて、
私は居ても立っても居られなくなって、黄色い地面を蹴って、走り出した。

私の心臓が揺れている。貴方の音に揺れている。

波動の力など、なくても生きていかれる筈であった。波動の存在しないこの世界を、私もリオルも愛し始めていた。
捨てられるものなら、捨ててしまった方が楽になれたのかもしれなかった。波動は本来、そうした、不気味で忌まわしいものであるのかもしれなかった。
彼はそう考えていたからこそ、耐えられなくなってあの村を出たのだろう。そういうことなのだろう。

けれどもう、私はこの、不思議な力を厭えない。嫌えない。「こんなもの」などと拒めない。
もし私にこの力がなければ、きっと貴方の声を聞くことなどできなかっただろうから。私はもっと長く、貴方に会えずにいただろうから。


2017.2.24

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