M:黒曜の髪

ガラス張りの扉に近付けば、それは勝手に開いてくれた。そのことに驚きながら慎重に歩みを進めた。
中はとても温かく、お風呂に浸かっているかのような軽いのぼせを覚えた。吐く息が白くないという、ただそれだけの事実にひどく安堵した。

扉が自動で開くこと。深夜であるにもかかわらず、お店が開いていること。モンスターボールを持った人物が少なからぬ頻度で訪れていること。
性別、年齢にかかわらず、誰もがモンスターボールを持っていること。3つや4つのボールが当然のように彼等のポケットやカバンから出てくること。
私はただただ息を飲み、彼等の姿を、動きを、私の目に映すことに必死になっていた。信じられないような光景ばかりであったから、何よりも今は「見て」いたかったのだ。
私は本当に、信じられないようなものばかりの漂う世界に来てしまったのだ。村の中と外ではあまりにも多くのことが違っているのだ。

そうした訳で私はポケモンセンターの入り口に立ち、どうすればいいのか解らず途方に暮れていた。
そんな私の姿は相当に目立つものであったらしく、一人の女性に「どうしました?」と声を掛けられてしまった。
ナースのような衣服を纏ったその女性の首元には、名札が提げられていた。
彼女はもしかしたらこの施設のスタッフであるのかもしれない、という推測ができる程度には、私は平静を取り戻しつつあった。

「あの、ここで泊まらせていただくことはできますか?」

「ええ、2階が宿泊スペースですよ。ですがその前にリオルを回復しておきましょうか。大きな怪我はないみたいだけれど、かなり疲れているようだから」

ありがとうございます、とリオルを抱きかかえてその女性に渡そうとしたけれど、彼女は驚いたように目を見開き、首を傾げて困ったように笑った。
何かおかしなことをしてしまったかしら、と不安に思った私に、一つ目の「洗礼」が浴びせられようとしていた。

「リオルを、ボールの中に入れていただけないでしょうか?ボールの中に入った状態でないと、回復装置にセットしてあげることができないんです。
それから、ポケモンセンターを利用していただく際には、皆さんのトレーナーカードを見せていただくことになっているんです。そちらも出していただけないかしら?」

「彼」の箱に隠されていた、大量のモンスターボールが脳裏を過ぎった。
此処は、あの大量のモンスターボールが当然のように存在する世界なのだ。モンスターボールが200円で購入できる世界なのだ。そういうことなのだ。

「……モンスターボールも、トレーナーカードも、持っていないんです」

モンスターボールもトレーナーカードも持っていない。それはあの村においては正常なことであり、そんなものがなくとも生きていかれた。
けれどこちらの世界では、違うのだ。モンスターボールやトレーナーカードを持っていないことは「異常」なことであり「恥ずかしい」ことなのだ。
彼女の驚いた顔が、返答に窮したような愕然とした表情が、それをあまりにも雄弁に示していた。私は深く俯き、「やっぱり、帰ります」と零そうとした。

「まあ!新米のトレーナーさんだったんですね。そんな方のお見送りができるなんてとても光栄だわ!」

けれどその女性はふわりと花を咲かせるように微笑み、先程の衝撃をなかったことにするかのような優しい色をその周りに纏ったのだ。
私をこの町まで連れてきてくれた、あの男性と同じ色の波動が見えた。菜の花色の、温かく美しい霧だった。
彼女は施設のカウンターから一枚の紙と小型のカメラを取り上げて、紙を私の前にそっと差し出した。私がそれを受け取れば、彼女はいよいよ安心したように笑うのだ。

「先にトレーナーカードを作りましょう。カードがなければこの先、きっと困ってしまうわ。
此処に貴方のお名前と年齢、出身地を書いてください。それから、貴方の顔写真をカードに印刷しなければいけないので、一枚だけ撮らせてくださいね」

さあ、と笑顔でカメラを構えられてしまい、私は狼狽えながらもなんとかぎこちない笑顔を作った。
軽い電子音が鳴り、彼女はカメラの画面を見ながら「うん、とっても可愛いわ」だなんて、まるで我が子を愛おしむ母親のような、柔らかな色を浮かべてみせる。
私もその写真を見せてもらった。肩を強張らせ、ぎこちなくではあるが懸命に笑みを作る自分の姿が写っていて、なんだかおかしくなって、笑ってしまった。

渡された小さな紙には、名前と年齢を正直に書いた。出身地は書かなかった。書けなかった。
「ごめんなさい」と、何に対する謝罪なのか解らないような音を紡げば、けれど彼女は「大丈夫ですよ、では出身地は空欄にしておきますね」と笑顔で許してくれた。

彼女は駆け足でカウンターの奥へと消え、そして直ぐに戻ってきた。
その手にはカードと、赤と白のモンスターボールが握られていて、彼女はその二つを私の手の平にそっと置いて、笑った。

「さあ、登録ができました。これで貴方は今日からポケモントレーナーですよ。
このボールは私からのプレゼントです。是非、リオルをこの中に入れてあげてください。」

私のような「落ちこぼれ」では、きっと一生、手にすることの叶わなかった筈のボールが手の中にある。
蛍光灯の光にかざして何度も何度も指で撫でた。滑らかな表面に、間抜けな表情の私が映っていた。
躊躇いがちにそれをリオルへと差し出せば、彼も驚いたようにその目を大きく見開いていたけれど、すぐに元気よく一鳴きして、ボールへと手を伸べた。
リオルの手がモンスターボールのボタンを押すや否や、彼の体が光に包まれ、するすると小さなボールの中に吸い込まれていった。
彼を収めたボールは3回程、私の手の中でゆらゆらと揺れ、カチッという軽い音を立てて、止まった。

あまりにも呆気ない儀式だった。時間にして10秒にも満たない出来事だった。
けれど確かに私の手の中にはモンスターボールがあって、その中にリオルが入っていて、私はトレーナーカードを作ってもらえたのであって、そして。

「私、ポケモントレーナーになっていいんですか?」

そのボールを彼女に渡しながら、そんなことを思わず尋ねてしまった。
彼女は「回復装置」なるものにリオルの入ったボールをセットしながら、「ええ、勿論ですよ」と淀みなく告げた。

「ポケモンと仲良くなりたいと思っている人なら誰でも、ポケモントレーナーになれるんですよ」

ああ、本当だったのだ。「彼」の言っていたことに、嘘など一つもなかったのだ。
未知が故に、あの頃は信じることのできなかった全てが、けれど今、こうして優しい真実の形を取り、私の目の前にある。
波動の力を使いこなせずとも、ボールを持つことができる。力を持たない私のような人間に、あの男性も、この女性も、親切にしてくれる。
この温もりを、喜びを、私はもう疑えない。「信じられない」などと、言える筈がない。私はもう、外の世界を知らなかった頃には戻れない。

リオルの回復はあっという間に終わり、先程のボールは30秒と経たずに再び私のところへ戻ってきた。
ボールの開閉ボタンをそっと押せば、元気になったリオルが勢いよく飛び出してきて、その勢いのままに私にじゃれついてくるものだから、思わずクスクスと笑ってしまった。
……ああ、私はちゃんと「ポケモントレーナー」の形をしているかしら?おかしくはないかしら?不自然ではないかしら?

私は今、何℃かしら?

「……私、人を探しているんです。ルカリオを連れた、青い服の男性です。
私はその人を見つけなきゃいけない。けれど同時に私は、私を知る人に見つかっちゃいけないんです。だから私に、ハサミを貸してくれませんか?」

ハサミ、という唐突な単語に彼女は面食らったようだけれど、直ぐに先程と同じ笑みを受かべて「いいですよ」と快諾してくれた。
鋭く光る銀のそれを握り締めて「明日の朝、返します」と告げた。彼女は何も訊かず、2階の宿泊施設へと私を案内してくれた。
去り際、彼女は「おやすみなさい」の挨拶の後で、こんなことを口にした。

「ルカリオはとても珍しいポケモンですから、きっとすぐに見つかると思いますよ」

ルカリオが珍しい。そんなおかしな言葉に私は思わず笑った。もう、笑うことができるようになっていた。
あの村ではルカリオかリオルを全ての人間が連れ歩いていて、それ以外のポケモンを捕まえたり使役したりすることは許されていなかった。
そうした規則が当然のものだと思っていたから、私は疑うことなくリオルだけを連れて、生きていた。

でも、外の世界ではそうではないのだ。あちらとこちらではあまりにも多くのことが違うのだ。
その違いに、きっと私はこれから長い時間をかけて馴染んでいくことができる筈だ。

私にとってリオルはありふれたポケモンで、傍にいてくれることが当たり前になってしまったような生き物で、そして、それ故にかけがえのない存在だった。
この子の代わりなどいる筈もなかった。その事実は、この子の存在が示してくれるところというのは、あの村でもこの外の世界でも、変わらない。

夜中、壁に掛けられた時計が3時50分を示す頃、私は長く伸ばしていた髪をばっさりと切った。
ざく、ざくという豪快なハサミの音がどうにも心地よくて、楽しくなってしまって、鼻歌を歌いたかったけれど、できなかった。あまりに楽しすぎて、泣きそうだったからだ。


2017.2.24

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