7:コロイドステップ

パンケーキを2枚平らげて、食器の片付けを終えた頃、風呂が沸いたことを告げる電子音がリビングに鳴り響いた。
「先に入っておいで」と告げると、彼女は困ったように笑いながら「私が一番初めにお風呂に入れるなんて、変だわ」と、本当に驚愕したような声音で口にする。
そんな、ひどく痩せた少女の背中をやや強引に風呂場へと押し込み、その間に彼女のための部屋を整えた。

「びっくりしました!湧いたばかりのお風呂ってあんなに温かいものなんですね!」

お風呂から上がってきた彼女はほかほかと湯気を立てながら、至極楽しそうに「一番風呂」の感想を口にした。
ゲンが相槌を打つことを止めなければ、彼女はいつまででもそうやって歓喜と高揚に任せるまま、喉を震わせ続けるのだろうと思われた。
ああ、焦る必要など何もないのに。そんな話は明日でも明後日でも、いつまででもできるのに。私達はそうしたところに来たというのに。
もう私達の時間は「朝の30分」ではなくなったというのに。

「さあ、まだ話し足りないだろうけれど、続きは明日にしようか。君も疲れているだろうから、今日はもう寝なさい」

そうして予め整えておいた部屋へと彼女を案内し、電気の位置を説明すれば、彼女は不思議そうに辺りを見渡し、
先程の歓喜と高揚は何処へやら、至極不安そうな表情になって、縋るようにゲンを見上げるのだ。

「……あの、私は此処に住んでもいいんですか?」

「おや、出て行きたいのかい?」

少女は慌てたように首を力強く横に振る。十分に拭かれていなかったのだろう、髪から冷たい水滴が2滴、3滴と散らばった。
乾かさないままに眠っては風邪を引いてしまう。そう思ったゲンはタオルを少女の頭に被せた。
女性の髪を乾かしたことなどなかったため、力加減が解らず、取り敢えずわしゃわしゃとぎこちなく動かしてみる。
おかしいのか心地いいのかあるいはそのどちらもであったのかは分からないが、タオルの下でクスクスと笑い声が聞こえたので、ゲンは一先ず安心したのだった。

「私も同じだ、やっと会えた君を追い出したくなんかない。いや、君が出て行きたいと言っても引き留めてしまうだろう。もしかしたら、閉じ込めてしまうかもしれない」

「あの村のように?」と楽しそうに尋ねるので、「そうだよ」と相槌を打った。
「私はあの酷い村で育った、酷い男だからね」と、ゲンも楽しそうに告げるので、少女も一層楽しそうに笑いながら「ああ、貴方も私も、酷い人!」と歌うように口にした。
髪の水気を拭き取り終えた彼女をベッドに座らせれば、困ったように笑いながら体を横たえてくれた。
それじゃあ、と立ち去ろうとするゲンの服の裾を、少女はくいと引っ張って「もし私が眠れなくても、私を叱らないでくださいね」などと、面白いことを奏でてみせるのだ。

「心臓が今も煩いんです。眩暈が止まないんです。叫び出したくなるんです。悲しいことなんて何一つないのに、泣きたくなるんです。
……だってまた、パンケーキが食べられるなんて。それだけじゃなく、私にもパンケーキを焼かせてくれるなんて、火を使うお料理をさせてくれるなんて!」

あの村で禁じられていた何もかも、こちらでできるようになった何もかもに、彼女は心を躍らせていた。
爪先の欠けた靴では十分にステップも踏めないだろうに、彼女はベッドの中に潜っても尚、その心を躍らせることを止めない。
いつまでも踊り続ける彼女の心とは対照的に、身体は限界を訴え始めていた。黒曜石の瞳は既にゲンを映しておらず、薄暗い照明の下でゆっくりと閉じ始めていた。

「あんなに熱いお風呂に入れるなんて、私だけの部屋があるなんて、貴方と一緒に食事をしたり、出かけたり、話をしたりできるなんて。貴方と、これからずっと……」

「そうだね、私も君も酷い人だから、お互い、一緒にいるしかないだろうね」

その瞬間、ゲンの胸を突き上げてくるものがあった。
眩暈のようにそれは彼の頭を掻き乱した。無性に叫び出したくなった。そしてどうにも、泣きたくなったのだ。
けれどそんなことをすれば、彼の違和感をこの少女は拾い上げてしまうだろう。折角、寝息を立て始めるところまで来ているのだから、このまま眠り続けてほしかった。
ゲンは彼女の傍からそっと離れて、薄暗い照明に灯された静かな部屋を抜け出した。そうして扉を閉めるや否や、肺を潰さんとするかのように全ての空気を喉の外へと押し出した。
長く、長く吐き出し続けた息は次第に震え始め、再び吸い込めばそれは嗚咽の音へと変わった。

彼女を見つけたときも、抱き締めたときも、こんな風にはならなかったのに、どうしたことだろう。
自らのみっともない嗚咽を、他人事のように遠くで聞きながらゲンは自嘲した。
軟弱なことだ、と思った。お前は寂しかったのか、と問いたくなった。脳内で暴れる言葉の全てに「そうだ」と示すように力強く頷いた。

少女がいる。明日からずっと少女がいる。一人ではない。明日からもう独りではない。
彼の心もまた、この1年間の孤独に押し潰されそうになっていた。自由とは寂しいものであるのだと、彼はいよいよ確信し始めていたのだ。
けれどこれからは違う。その事実に彼の心臓もまた、張り裂けそうになっていた。

あの村を、酒の臭いを思い出し、ゲンは笑った。笑わなければ泣くことになると解っていたから、敢えて悪意に満ちた笑みを零したのだ。
もう私達はお前に傷付けられない。もう波動の力など使うものか。これは私達の自由だ、私達の幸福だ。二度と誰にも渡すまい。ざまあみろ。
乾いた笑いで嗚咽を掻き消し息を吐く。喉の震えはもう止んでいる。けれど笑うにせよ泣くにせよ、どのみち眠れないのは彼の方であったのだからどうしようもなかった。

アイラ、君はこんな私に呆れるだろうか?

翌日の少女が初めて焼いたパンケーキは、片面だけが焼けすぎて真っ黒になっていた。ハチミツをたっぷりかけたところで、その苦さは最早どうしようもなかった。
けれど彼女は至極楽しそうにそれを口に運んでいたため、ゲンも何故だか救われたような気分になって、苦いパンケーキを完食した。

短針が10を過ぎた頃、二人は船に乗ってミオシティに向かい、ポケモンジムを訪問した。
あの別荘の持ち主であるトウガンに、彼女を滞在させてもいいだろうかと頼み込むためであった。

一人で村の外へと飛び出したゲンが、この1年間、人並みの生活をすることができていたのは、ミオシティのジムリーダーであるトウガンの助力のおかげであった。
彼はジムリーダーを務める傍ら、鋼鉄島の地質調査を行っていたのだが、その調査の手伝いを、職のないゲンに依頼していたのだ。
住むところがないゲンに別荘を貸し与えてくれているのも、地質調査の報酬として毎月、一人で暮らすには十分な額を渡してくれているのも、彼であった。
ゲンは彼に並々ならぬ恩を感じていた。どんなに礼を尽くしても足りないであろうと思っていた。
外の世界に生きる大人は、彼の知っていた「怪物」とは似ても似つかぬ姿をしている。初めにそう教えてくれたのは他でもない、このジムリーダーであった。

トウガンは、ゲンが女性を連れて現れたことにとても驚いていたが、すぐにその人物が「アイラ」であることを察したらしく、
豪快に笑いながらゲンの背中を叩き「なんだ、やっと会えたのか!よかったじゃないか!」と告げた。

自らのあずかり知らぬところで自らの存在が知られていることに、彼女は驚き、狼狽えてもいい筈だった。
けれど彼女は嬉しそうに笑いながら「貴方も私のことを知ってくださっているんですね、ありがとうございます」と告げるのみであった。

「ゲンさんがいろんな方に私の話をしていたことは、昨日の女の子から聞いて知っているんですよ」

照れたように顔を赤らめながらそう告げたが、おそらくゲンの顔は彼女のそれ以上に赤くなっていたことだろう。
ふいと顔を背けてその赤を隠すようにしてみても、彼の心中など、トウガンにも少女にも解りきっていたから、二人は顔を見合わせて、この幼い大人を笑って許していた。

「トウガンさん、とても優しい方でしたね」

スーパーで食料品を購入してから、ゲンはいつものように連絡船へと乗り込んだ。その「いつも」の動作の傍にこの少女がいることへの幸福を彼は噛み締めていた。
もう彼は独りではない。そして、その孤独を埋めてくれたのが、よりにもよってこの少女なのだ。
きっと他の誰であっても、このような心持ちにはならなかったことだろう。それくらい、幼いゲンにだってよくよく解っていた。替えなど、利く筈がなかったのだ。

「私も、村の外に出てから、外の世界の優しさにいつも助けてもらっていました」

身寄りのないゲンが、この1年、トウガンや船頭の助けを借りてなんとか生きてこられていたように、
先立つものを殆ど持たないままに村を飛び出した彼女もまた、この広い世界であらゆる人の助けを受けることで、なんとか生活することができていたようであった。

「村から逃げ出した私を、小柄な男性が町まで案内してくれました。
トバリシティのポケモンセンターでは、女性の方が私のトレーナーカードを作ってくれました。リオルを入れるためのモンスターボールも、彼女に頂いたんです。
私をミオシティに連れてきてくれたのはあの女の子でした。船頭さんは私を、彼の家で休ませてくれました。彼の奥さんは、熱いココアを淹れてくれました」

人とポケモンは助け合って生きている。人と人とも助け合って生きている。名前さえ知らないような相手に、彼等は自らの幸福を「優しさ」という形で分け与える。
外に生きる人間には、そうした不思議な絆の力があった。それは波動などというものよりも、ずっと柔らかく温かい力であったのだ。

「君も、いろんな人に助けられて此処まで来たんだね」

「はい。……私も、皆さんのような優しい人になれるかしら」

君が優しくなかったことなど、一度もなかったように記憶しているよ。
そう告げようとしたけれど、やめた。彼女が目蓋を柔らかく下ろしていたからだ。
潮風を楽しんでいるように見えた。旅先で助けてもらったという記憶に思いを馳せているようにも見えた。優しい人になりたい、と祈っているようにも見えた。
あるいはその全てであったのかもしれない。もしくはそのどれでもなかったのかもしれない。
いずれにせよ、その横顔を自らの言葉で遮りたくはなかった。そうした配慮ができる程度には、彼も「優しく」なってみたいと思っていたのだ。

ゲンも少女も酷い人であったから、もしかしたら、そんなことは不可能であったのかもしれないけれど。


2017.3.3

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