私は村に背を向けて、さあ、どちらに進めばいいのだろうと迷いかけて、
「えっ……？」
けれどその瞬間、とても懐かしい咆哮が空に轟いたので、私はもう一度振り返り、村の方ではなく夜空を見上げることとなった。
月を隠すように、大きな翼が夜を裂いていた。丘に落とされた大きな影は紛うことなき「ボーマンダ」のもので、私は思わず彼の名前を呼んでいた。
10匹を超えるルカリオに痛めつけられていたボーマンダは、長くボールの中に閉じ込められていたあのポケモンは、けれど無事だったのだ。元気にしていた。生きていたのだ！
夜空を元気よく駆けるその姿が、私の、限りない希望であった。
ボーマンダはそのまま私に目配せをして、物凄いスピードで丘を滑空していった。
道案内をしてくれようとしているのかもしれない。そう思い、リオルと私は夢中でその大きな体躯を追いかけた。急ぎ過ぎて2回転んだ。構わなかった。
この丘を1年前、きっと彼とルカリオも下ったのだ。無力で臆病だった私にもようやく、彼と同じことができたのだ。
彼はどんな気持ちでこの丘を下ったのかしら。転ばなかったかしら。痛くはなかったかしら。そうしたことを考えるだけでどうにも嬉しかった。涙は出なかった。
ボーマンダは私達が丘を下りきったのを見届けると、一度だけ、地面に足を着けてくれた。
私を庇ってくれてありがとう。助けてあげられなくてごめんなさい。道案内をしてくれてありがとう。何もお返しができなくてごめんなさい。
感謝と謝罪を交互に繰り返しながら、その大きなポケモンの頭を何度も撫でた。
ボーマンダは暫く、私の手に撫でられるままにしていたけれど、やがてもう一度大きく鳴き、ばさりと大きな翼を広げ、飛び立った。赤い翼は丘の方角へと消えていった。
ボーマンダはきっと、あの森の近くを住処にしているのだろう。
あの強く優しいポケモンは、あの深い森で「何」を守ろうとしているのだろう。「何」と戦おうとしているのだろう。考えてもやはり、解らなかった。
けれど解らないことの中にだって、確かな真実が隠れているのだと、私は「彼」との一件でとてもよく心得てしまっていたから、もう、ボーマンダの生き方を悲しいとは思えなかった。
＊
少しだけ開けた道に出てからは、人を探して歩いた。
やっと見つけた小柄な男性の顔は、全く見覚えのないもので、向こうも私のことを知らないようだった。
ああ、村を出ることができたのだと、やはりギラティナが現れる筈がなかったのだと、私は確信して、泣きそうになって、
「この近くに町はありますか？」
けれどまだ安心する時ではないと思ったから、私は上擦った早口の声音で食いつくようにそう尋ねた。
彼は驚いたように目を見開き、「地図を持っていないのか？」と尋ねてから、背中の大きなリュックサックから大きな紙を取り出して、勢いよく開いてくれた。
「此処は212道路だ。北に真っ直ぐ進めばヨスガシティという町に着く」
「ヨスガシティ……そこに宿を取れるようなところはありますか？」
「ポケモントレーナーなら誰でもポケモンセンターの宿を利用できるが……もしかして君、ポケモンセンターで泊まったことがないのか？」
ポケモンセンター！
私はその単語を知っていた。ポケモンを回復させてくれるという、外の世界の施設だった。
大丈夫、私は覚えている。彼から貰った言葉を、その音が確かに持っていた、未知なる希望の調べを覚えている。
他の誰が忘れてしまっても、誰に「忘れなさい」と説かれたとしても、私だけは忘れなかった。覚えておくことこそが希望だった。
「そういった施設があることは知っているのですが、実際に利用したことはないんです。私でも、入れてくれるでしょうか？」
「はは、勿論だ。私もヨスガシティへ行くところだから、よければ案内しよう」
「いいんですか？ありがとうございます……！」
強烈な安堵と歓喜に、感謝の言葉の末尾が思わず震えてしまった。
彼は困ったように笑いながら、リュックサックからペットボトルを取り出して私に差し出してくれた。お礼の言葉と共にそれを受け取り、一気に半分ほど飲み干した。
喉が潤ったことで幾分か気持ちが落ち着き、今度は声を震わせずにきちんとお礼を告げることができた。
水の入ったペットボトルを大事に抱きかかえて、小柄な男性の隣を歩いた。
彼は饒舌な人ではないようだったけれど、それでも「寒くないか？」「何か食べるものは持っているか？」と、沈黙が長くなり過ぎないように言葉を尽くしてくれた。
私は彼の気遣いに何度も頷きながら、彼の少し大きな歩幅に必死で付いていった。
歩きながら耳を澄ませば、聞き慣れないあらゆるポケモンの音が鼓膜をくすぐった。
あの鳴き声は何というポケモンのものかしら。夜に活動するポケモンだから、ムウマージやユキメノコかもしれない。
ああ、でもユキメノコは雪の降る場所にしか現れないのだったかしら。
ではヤミカラスかもしれない。それとも案外、太陽の光を好むポケモンも、夜、なかなか寝付けなくて散歩をしているのかもしれない。
外の世界の命はそうやって、とても気ままに自由に生きているのかもしれない。
そうした「外の世界の命」の一つに、私がいる。私はもう、自由に私の温度を変えられる。
「私……此処で生きていけるでしょうか」
途方もなく壮大な「自由」という戯曲は、けれどあの小さな村で影絵ばかり見てきた私にはどうにも眩しすぎた。
『私にそんな自由は似合わない。』
『この村でただ必死に生きていただけの私に、外の世界は広すぎるんです。広すぎて、途方もなくて、信じられないことばかりで、怖いんです。』
一度はそうした冷たい言葉で拒んだ世界だった。あの言葉は、彼を送り出すためのものであると同時に、私の真実でもあったのだ。
だから私は、この世界の広さをまだ受け入れることができない。ポケモンセンター、フワンテ、海。それらが私と同じ世界に存在しているのだと、まだ上手く信じることができない。
海は眺めて楽しむものであって、放り込まれてしまえば人は生きてはいかれない。無力な私はこの大海での泳ぎ方を知らない。
塩辛い「自由」という水は、私の80℃の肌に悉く馴染まない。
不自然な沈黙を落として俯く私の隣で、男性は不思議そうに首を捻っていたけれど、やがて優しい声音で私の不器用な沈黙を破ってくれた。
「君、知り合いはいるのか？」
「え？……は、はい！1年くらい前に、私より先にこちらに来た人がいるんです」
上擦った声音でそう告げれば、彼は「それを聞いて安心したよ」と告げて穏やかに笑った。
満月に少しだけ足りないアーモンド状の月が、彼の静かに細められた目元をそっと照らしていた。
「どうすればいいか解らなくなったら、とにかくその知り合いを探しなさい。君が悲しくならないようにしてくれる誰かを、見つけなさい」
「……」
「不安は尽きないだろうが、大丈夫だ。手に職がなくたって、強くなくたって、役に立たなくたって、構わない。そんなものは大した問題にはならない。
生きるためにはただ、「悲しく」なければいいんだ。生き物は悲しくさえなければ、なんとか生きていかれるものなんだ」
『すまない、君を道連れにしてしまった。一人で悲しむことが怖かった、苦しかったんだ。』
彼の言葉が、まるで昨日のことのように鮮明に思い出された。この男性がかけてくれた温かい言葉を、更に温かいものにしたくて、私は首を振った。
「いいえ、……悲しくても、独りでさえなければ生きていけます」
息を飲んだ彼を真っ直ぐに見つめた。
彼の背は思いのほか低く、この頼もしい男性は、もしかしたら私が想像しているよりもずっと若い人物であるのかもしれなかった。
声を上げて笑い始めた彼は、「そうだな、その通りだ！」と月に向かって吠えるように告げた。月は彼のそうした理解をただ明るく静かに受け止めた。
「実のところ、君に知り合いがいないのであれば、我々の組織に誘おうと思っていた」
「組織……ですか？」
「そうだ。一人で悲しむことに耐えられなくなった連中が集まって出来た、おかしな組織だ。けれど君はそんなものを必要としていないのだと、分かった。だから、此処でお別れだ」
そう告げて彼は私の背中をぽん、と押した。真夜中なのにその村には赤や黄色の眩しい明かりが灯されていて、その眩しさに私は思わず目を細めた。
じゃあな、と軽く手を振る彼の髪は、露草のように綺麗な青であった。
草むらを歩いているときの月明かりでは気が付かなかったその色の周りには、淡い黄色の波動がふわふわと漂っていた。この人もまた、優しい人だったのだ。
けれど「黄色い波動」など見えずとも、この人は優しかった。この男性の言葉で、私がこれから、何をしなければいけないのかがはっきりと見えたのだ。
「ありがとうございました！」
「ああ、気を付けて行くといい。……見つかるといいな」
私は深く深くお辞儀をして、その親切な男性に感謝の意を示した。
パンとリンゴ、2枚の千円札と僅かな硬貨、女性ものの衣類、雨具……そんなものしか持っていなかった私が、彼に差し出せるものなどありはしなかった。
だから、言葉を尽くすほかになかったのだ。けれど彼はそうした言葉さえも「要らない」とでも言うかのように、苦笑しながら私に背を向けた。
彼の足音が曲がり角に消えてから、私は「ポケモンセンター」を探すために辺りを見渡した。
けれど探す必要などなかった。目の前の煌々と照る明かりを宿した、赤と白の建物がまさに「ポケモンセンター」だったからだ。
この施設の前まで案内してくれたのだと、そう理解して胸の奥がかっと熱くなった。
人の心は決して悪意では砕けない。どんな怪物のどんな牙にも私の心は屈さない。
人の心は、寧ろ善意に砕けるのだ。優しい人の優しい言葉に、あっけらかんと溶けてしまうものなのだ。
少なくとも私の人生においては、それが真理だった。名前も知らないあの男性に砕かれた胸の辺りにそっと手を当てて私は笑った。笑っていたかったのだ。
2017.2.24