K:凍える稲穂

それから後のことは、あまり記憶にない。

殴られたのか、気を失っていた私は、目が覚めてからも大人達に根掘り葉掘り、いろんな形での尋問を受けた。
お酒を飲んだ大人達は、まさに怪物と呼ぶに相応しい禍々しさをしているのだということを知った。
大人の手の力は、その大きな体格に相応しく、とても強いものであることを知った。
一度ついたアザは、1週間経っても消えないということを知った。その上から更に叩かれると、まるで絵画のように肌が複数の青で彩られていくことを知った。

知ることはやはり、痛いことだった。ただそれだけを覚えていた。

10匹を超えるルカリオの猛攻を受け、倒れてしまったボーマンダは、十分な治療を施されないまま、あの青いボールの中に閉じ込められている。
鉄の輪で何重にも封をされている彼を見る度、私は自分の心臓が握り潰されているような苦痛を味わうこととなった。

悲しい。あまりにも悲しい。そして苦しい。
どうなっているのだろう、何が起こっているのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。誰が悪かったのだろう。何が間違っていたのだろう。

そうしたことを考えながら、私はただひたすらに「何も知りません」「分かりません」という言葉ばかりを紡いできた。
アルコールの臭いの充満する部屋の中で、数人の怪物に囲まれながら、私は馬鹿になったようにそればかりを繰り返した。
怪物達は憤り、苛立ち、呆れ、……けれど私の態度が3日経っても4日経っても変わらないことに、徐々に狼狽の色を見せ始めていた。

「この子供は本当に何も知らないのではないか」「ただ見知らぬポケモンを、あの夜に押し付けられてしまっただけなのではないか」
「彼女の発した「逃げて」は、神聖な生き物である「翼を持つポケモン」を守るための言葉だったのではないか」「彼の脱走に、この子供は無関係であったのではないか」
「あの男がこの落ちこぼれに格別目を掛けていたとは思えない」「寧ろ落ちこぼれであるからこそ、ポケモンを押し付けるのに都合が良かったのかも」

そうした疑念が結論へと変わった頃、私はようやく自宅へと戻ることができた。
食事を作ってくれていた優しい女性は私を抱き締めて、私の疑いが晴れたことを心から喜んでくれた。
「私がボールのことを口にしたせいで貴方が疑われてしまった、本当にごめんなさい」と、涙を流しながら彼女は告げた。私は何度も首を振って、大丈夫ですと答えて、笑った。
お腹が空いていたから、大きなパンを怪物みたいにばくばくと食べた。「ゆっくり食べないと喉に詰まるわよ」という彼女の声を聞きながら、何度も頷いた。
傷だらけの体でお風呂に入ることは殊の外、苦痛だった。けれどどうということはなかった。乱暴に腕を擦れば血が滲んだ。
ボーマンダの翼の色だ、と思うと、なんだかおかしくなって、笑ってしまった。

赤い血、青いアザ、痩せた身体、お腹が空くこと、大人達全てが怪物に見えること、「彼」がいないこと。
それらは全て、そのまま私の「勝利」の証となった。
私は怪物を騙し通せた、私は秘密を守り抜いたのだと、痛む口で小さく呟けばどうしようもない歓喜に心臓が震えた。
心臓が大きく鳴りすぎて、震えすぎて、止まってしまうのではないかと思った。
大きすぎる歓喜は息を苦しくさせるのだと、私はまた、新しいことを知った。ほらやっぱり、知ることはまた、痛いのだ。……けれど。

私にとって波動は「力」ではなく「精神」だった。
精神は表情によって容易に隠され、力によって呆気なく捻じ伏せられるものなのだ。つい最近まで本当にそう、思っていたのだ。
けれど私は初めて勝利した。私の「精神」という波動は、彼等の「力」という波動に屈さなかった。私はそれがどうしようもなく嬉しかった。

この時初めて、私は「ゲンさんが此処にいない」という事実を思い出して、ぬるくなったお風呂の中で声を上げて泣いた。
今の、波動の「力」に勝利した私を見てほしい相手が、此処にいない。そのことがどうしようもなく悲しかった。寂しかったのだ。
誰にも見えていないであろう私の「霧」は、見たことのない海の色をしていた。涙は、相変わらず透明であった。

『私達は80℃でいなければいけないんだ。』

ゲンさん、貴方は今、何℃ですか?
私は貴方の温度を守れましたか?

つい数週間前まで、村の栄光を一身に受けていた筈の「彼」は、あっという間に「裏切り者」「背信者」のレッテルを押され、
子供達の「反面教師」として、頻繁にその名を奏でられることとなった。

「ゲンのようになってはいけないよ。自らの力を過信して、大きなことができると思い上がっていては、いつか痛い目を見るよ」
「いつも謙虚でいなければいけないよ。そうでなければゲンのように、ギラティナに食べられてしまうからね」
「ルールを守りなさい。力に驕らず慎みなさい。ギラティナに傷付けられたくなければ、村で生きていきたければ、そのこと、覚えておきなさい」

私と同じくらいの子供達、あるいは私よりもずっと幼い子供達は、そうした大人の手の平を返したような発言に、驚愕、落胆、絶望、そうしたあらゆる感情を見せ、
……けれど1か月もすれば、皆は「ゲン」という「波動の勇者の生まれ変わり」のことを、すっかり忘れてしまっていた。
毎日のように聞いていた「ゲン」という音を、この村で拾い上げることはもう、叶わない。

「……」

でも私は覚えている。彼と過ごした朝の30分を、彼が私にくれた言葉の全てを覚えている。
彼と顔を突き合わせて眺めたポケモン図鑑を覚えている。その中で自由に暮らす、フワンテやチェリンボやハガネールの姿を覚えている。
カラフルな色のモンスターボールを覚えている。彼の波動の色を覚えている。
ルカリオの猛攻にも怯まず、見えない「何か」と戦い続けた、勇敢なボーマンダの背中を、鋭く優しい目を、覚えている。

「貴方達はどうしてボーマンダを攻撃したんですか?翼を持つポケモンは、神聖な生き物ではなかったんですか?」

「……急にどうしたのですか、アイラ

「だって貴方達は、稲を食い荒らすムックルにだって、ルカリオの攻撃を浴びせたことはなかったのに」

優秀な波動使いの中には、私のそうした心の迷いを見抜く人もいた。
優しい目をした怪物はそんな私に微笑みかけて、とても優しい悪魔の囁きを、子守歌のように、洗脳のように、浴びせた。

アイラ、迷ってはいけませんよ。今は使いこなせないかもしれませんが、いずれ修行を積めば立派な波動使いになれます。そうすれば皆から認めてもらえるのです。
私達に訪れる救いは波動のみ、他の道などありはしないのですよ。お前を利用しそそのかした、卑怯な掟破りの男のことなど忘れてしまいなさい」

私は「分かりました」と神妙な面持ちで頷いて、怪物の言葉に従順な振りをして、笑顔を振りまいて、ちっとも上達の気配を見せない波動の修行を怠けず毎日こなして、
……そうやって、悉く怪物の望む姿を取りながら、けれど私自身は決して、彼のことを忘れなかった。忘れたことなど一度もなかった。

怪物は私の体を傷付けることができる。私の力を奪い取ることができる。私の動きをルールで縛り、破れば罰を与えることができる。彼等は私の体を支配している。
けれど怪物は私の心に触れることなどできない。私の心は誰にも奪われない。誰も、私からあの幸せだった記憶を消し去ることなどできない。私の心は支配されていない。

私の、悉く深められた村への懐疑は、誰にも侵されることのないままに着々と育っていった。
私はもう、怪物を、ギラティナを、外の世界を恐れる理由を持たなかった。
未知の世界でどうなろうとも、生きる術を持たずに行き倒れようとも、構わない、と思えた。
「此処」よりはずっとマシであることを確信していたからだ。


知ることは痛いことだった。けれどその痛みは私の、この上ない希望になった。


私はその寂しい希望を握り締め、努めて静かに過ごしていた。
私はもう「彼」のことをすっかり忘れてしまったのだと、きっと村中の人がそう信じていた。私への警戒はすっかり説かれて、怪物は大人しくなり、油断した。

そうして雪が解け、春が過ぎ、短い夏が過ぎた。黄金色の海がすっかり刈り取られてしまった初雪の頃、ついに「その日」はやって来た。
ギラティナがお酒を飲んだのた。

私の荷物など、掻き集めたところでリュックサック一つ分にもならなかった。
子供達の食料や衣類を奪い取れる程、私は薄情な人間ではなかった。子供達は怪物ではなかったのだから、当然のことだった。
アルコールの臭いが外にいても家屋のあちこちから漂ってきていて、私はいよいよ「大丈夫だ」と確信した。
ギラティナは目覚めない。お酒を飲んだ怪物は、脱走者に牙を剥くことを忘れている。

私が何も説明せずとも、リオルは真っ直ぐに村の出口へ駆けて行った。頼もしいその小さな背中を追いかけて、私は夢中で走った。
希望は確かにあったのだ。けれどこの閉じられた村にはなかった。それだけのことだったのだ。そのことに私は「彼」よりも9か月遅れて、ようやく、気が付いた。

森の中をひたすらに走った。そこまで運動神経が良い訳ではなかったけれど、持久力には自信があったから、足を止めることなく走り続けていた。
あまりにも静かな空間の中に、私が草をかき分ける音と、先の欠けた靴が小枝を踏む音がひっきりなしにざわざわと聞こえていた。
それに交じって、ポケモンの鳴き声だけが気紛れにぽつぽつと落とされていた。不穏で不気味な、けれど心地よい静けさだった。

小高い丘の上まで来たところで、私は一度だけ振り返った。
村の明かりは全て落とされていたけれど、月明かりのおかげで村が「ある」ことは私の目にも理解できた。私が村の外に「いる」ということも、理解できた。
強く吹き付けた夜風が、私の肌を急速に冷やしていった。私はああ、と思って、笑った。
この瞬間、私の温度は80℃ではなくなってしまったのだと気が付いたからだ。

ゲンさん、貴方は今、何℃ですか?
私も貴方の温度になれますか?


2017.2.24

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