8:怪物、此処に。

こうして、ゲンと共に鋼鉄島の別荘に住むことを許された少女は、ゲンの請け負っている地質調査の仕事を手伝うために、鋼鉄島の洞窟へと入っていくことになった。
最初はハンマーの持ち方やヘルメットの被り方さえ知らなかった彼女に、ゲンは1年前の自分を重ねながら一から教えた。
かつて、トウガンが自分に教えてくれたことを思い出しながら、ゲンは一つずつ少女に教えた。
彼女は歓声を上げたり悲鳴を上げたりと忙しそうにしながら、新しいことを次々に覚えて行った。1週間もすれば、少女はこのささやかな仕事を我が物顔でこなすようになった。

勿論、その間にも毎日のように二人はパンケーキを焼いていた。3回も焼けば彼女は片面を焦がさないようになった。
上にのせるものは苺であったり、バナナであったり、パイナップルであったりした。
アイスクリームを置いたこともあったのだが、あれよあれよという間に溶けてしまい、まるで甘いミルクにパンケーキを浸して食べているかのようになった。

ゲンはその、とびきり甘くなりすぎてしまったパンケーキにすっかり懲りてしまったのだが、少女は逆にその「アイスクリーム」というものに興味を示していた。
勿論、村にもアイスクリームくらいはあったのだが、彼女はそこに苺やチョコレートを混ぜ込めないかと考え始めたのだ。
元々、料理の好きな少女だったから、冷やすも温めるも自在にできる、村の外のキッチンという場所は、彼女にとって楽園のようなものであったのだろう。

パンを焼いた。ミネストローネを作った。バニラ味のアイスクリームに、苺やチョコソースを混ぜ込んでバリエーションを増やした。
二人ではとても食べきれないような量を作ってしまい、船頭の自宅やトウガンのいるポケモンジムに差し入れに行くことも少なからずあった。

ミオシティには図書館があったので、休日は二人でそこに出かけた。
彼女は専ら料理本のコーナーのところにいて、知らないレシピを見つけては片っ端から手元のノートにメモしていた。
ゲンさん、と小さな声で呼ばれたので、何かと思い首を傾げつつ歩み寄れば、彼女はとても愉快そうにお菓子の本をこちらに差し出して、開いた。

「これで私もフィナンシェを作れますよ」

黄金色の焼き菓子に、二人して顔をほころばせた。
朝もやの中、フィナンシェのレシピの話をして彼女を泣かせてしまったあの頃から、もう1年が経過していた。
少女は笑った。ただ懐かしく優しい思い出として佇んでいるべきものであるのだと、解っていたから彼も笑うことができた。
あの村を思い出させるものであったとしても、少なくとも彼女が存在してくれている限りにおいて、その記憶は彼を苦しめなかった。

初めて彼女に与えた「給金」の大半を、彼女は食料品に費やしてしまった。
「もうこれだけしか残っていないんです。もっと計画的に買い物をするべきでしたね」と困ったように告げながら、それでも彼女は満足そうに笑っていた。
彼女にとってはバッグや靴といった、自らを着飾り美しく彩るものよりも、
自らが心から楽しめて、またその副産物により周りの人をも笑顔にできるような、そうしたことの方が遥かに重要であるようだった。

「貴方に喜んでもらおうと思って作ったものだったのに、私の方がずっと楽しんでしまったんです。ふふ、変なの!」

彼女がそう告げて差し出したフィナンシェの味は、ただひたすらに優しかった。
自らのことを「酷い人」と称した彼女は、けれど途轍もなく優しい味の焼き菓子を作ることが叶っていた。

村での「当然」をこちらの世界での「当然」に置き換えるという彼女の作業も、もう後半に差し掛かろうとしていた。

真冬にも苺が手に入ること、南国の果実や花が海を渡りこの寒い土地にもやって来ること、一枚の板チョコは小麦粉よりも安い値段で手に入ること。
スイッチ一つでお湯が沸くこと、コンロを使えばパンケーキが焼けること、電子レンジを使えばすぐにミルクが温まること。
天気予報で明日が晴れるかどうかすぐに分かること、遠く離れた人とも、電話というものを使えば簡単に会話ができること。
ミオシティやこの島で彼等に吹き付けていた、あのべたつく風は潮風であり、この家のすぐ傍にある広く青い湖こそが「海」であること。

一つ知っては驚き、また次を求めて更に驚いた。村と違い過ぎる何もかもは、けれどもう彼女の表情を曇らせることはなくなっていた。
彼女はゆっくりと、けれど確実にあの村での生活を「過去」のものとしつつあった。少なくともゲンはそう確信していた。

「薪がなくても火を起こすことができるなんて、どういう仕組みなんでしょう?この中にブーバーンがいるのかしら?」
「私達を運んでくれたあの船はどうやって動いているんですか?操縦者の方がオールを持っている様子もありませんでしたよ」
「ポケモンセンターって凄いですね!小さな機械にボールを置くだけで、ポケモン達はあっという間に元気になるんです。どうやって中のポケモンを治療しているんでしょうね?」

彼女は、自らのあずかり知らぬところで急速に発達していたあらゆる技術や技術に、至極純粋に興味を示していた。
彼女の疑問に、ゲンは適切な答えを用意できることもあったし、共に「どうしてだろうね?」と首を捻ったり、「私も知らないんだよ」と苦笑したりすることもあった。
驚愕、興味、感動、困惑、そうした何もかもを二人は饒舌に共有した。同時に驚き、同時に笑った。それは村の倉庫で一冊の本を共に眺めた、あの作業にとてもよく似ていた。

そうした彼女の傍らで、ゲンはこの世界で生きるための手本を示していた。
電化製品の使い方、船の乗り方、そうしたことも勿論教えたが、何より彼が行動として示していたのは、波動の力を「使わない」ということだった。

火を使うこと、明日の天気を見ること、地質調査をするために暗い洞窟の奥へと進むこと、彼女の名前を呼ぶこと。その全てにゲンは波動を使わなかった。
コンロを捻れば火が点く。テレビを付ければ明日の天気が分かる。LEDの懐中電灯を点ければ洞窟の中でも明るくなるし、波動など飛ばさずとも、彼女は近くにいる。
まるで本当に「波動など存在していなかったかのように」彼はこの世界に悉く染まって生きていた。その徹底ぶりは、隣の少女が息を飲む程であったのだ。

波動の力で火を操らない彼。風の気配から明日の天気を読もうとしない彼、暗闇に自身の視界を飲まれるままにしている彼、波動で少女の名前を呼ばない、彼。
彼女はそうした彼の姿を、この外の世界では悉く正常な彼の姿を、少しばかり訝しんでいるようであった。
こちらに懐疑の視線が向けられていると、解っていながらゲンは頑なに波動を拒んだ。
彼女は悲しそうな顔をしたものの、彼のそうした「波動の拒絶と放棄」を否定したりはしなかった。ただ大きく頷いて彼に同意していた。
波動などというものがなくともこの世界では悉く自由に生きられるのだということを、彼女もすっかり理解していたからだ。

「私も早く貴方のようにならなくちゃ。こちらでの呼吸の仕方を、覚えなくちゃ」

彼女のそうした悲しい誓いは、1年前のゲンと全く同じ形をしていた。薄暗い洞窟が彼女の声音を吸い込んで、何度も何度も繰り返した。
そうして彼女はゲンの示した手本に倣う形で、波動を感じ取ろうと耳を済ませたり目を凝らしたりといったことをしなくなっていった。波動の話をすることも、やめた。

暦の上では3月であったけれど、まだ冬は厳しいままで、花を道端で見かけることもまだなかった。苺が安い値段で手に入るのはもう少し、先の話であるようだった。
そうした、二人がすっかり「外の世界」の住人になってしまった頃のことだった。あの幼いチャンピオンが、再びこの島を訪れたのは。

「船頭さんの男の子が、ずっと目を覚まさないの」

女の子は不安そうに眉を下げてそう報告した。
ゲンと少女は顔を一度見合わせてから、「詳しく話を聞かせてくれ」と女の子をリビングへと通した。

母親が無理矢理起こしても、苦しそうに唸るだけで目を開く様子がないこと、数日前から町の医者に診てもらっているが一向に良くなる気配を見せないこと、
今日はコトブキシティの大きな病院で働く医者を呼びに行くので、船頭の仕事を1日休ませてもらうこと、もし仕事に余裕があるなら、ゲンにも男の子の姿を見てほしいこと。
……それら全てをすらすらと淀みない口調で告げてから、女の子は縋るようにゲンを見上げた。

あの小さな男の子を案じているのは、何も船頭やその妻に限ったことではないようだった。
チャンピオンの声音にも彼を案じる心地が現れていたし、その気持ちはゲンも少女も同じであった。
ミオシティに住んでいる5歳程の男の子のことを、ゲンも少女も知っていたからだ。
小さな男の子を襲ったその「謎の病」というものに、どうにも引っかかりを覚えずにはいられなかったのだ。

「ゲンさんは物知りだから、こういう不思議な病気に心当たりがあるかもしれないって、船頭さんが言っていたよ。何か、知らない?」

「その子の容態を見ないことには何とも言えないね。すぐミオシティに……は、行けないのか。船を出せないのだったね。
……あれ、そういえば君はどうやって此処まで来たんだい?船頭さんが休みを取っているのなら、船は出ていない筈だろう?」

その言葉に女の子は得意気に笑いながら「ポケモンに乗って、空を飛んできたんだよ」と告げる。
鋼鉄島とミオシティを阻む海は流れが強く、並大抵のポケモンでは通ることもままならないのだが、
空ならば確かにそのような心配をせずとも、鋼鉄島へと真っ直ぐ飛んでくることができるのだろう。

「……そうだ!二人も一緒に乗っていこうよ!私のポケモンは丈夫だから、三人くらいならへっちゃらだよ」

少女が「えっ」と声を上げた。そこには最早懐かしさを思わせる「驚愕」の色が映っていた。
仲良くなったポケモンの背中に乗せてもらい、海や空を渡る。
そうしたポケモントレーナーの姿を、少女もこちらの世界で飽きる程に見てきた筈なのだが、やはりそれが自らのこととしてやって来ると、思わず身構えてしまうのだろう。
少女のそうした心地をゲンはよく解っていたから、もっともなことだ、と思い、笑って彼女の驚愕を許した。

「大丈夫だよ、怖くはないからね。……ではお願いしようか、小さなチャンピオン」

大きく頷き、嬉々として外へと飛び出すチャンピオンの背中は、あっという間にドアの向こうへと消えてしまった。
ゲンと少女も身支度を整えて、最低限の荷物を持ち、ドアノブへと手を掛ける。
その瞬間、少女の手がぴたりと凍った。ドアの向こうで、おそらくはボールを取り出していたのであろう小さなチャンピオンが、とんでもない言葉を紡いだからだ。

「ギラティナ、出ておいで!」


2017.3.5

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