プリンと紅茶はお姉ちゃんが奢ってくれた。自らが稼いだお金で美味しいものを食べられて、しかもあたしに奢ってくれるお姉ちゃんは最高にかっこよかった。
けれどあたしも来月から、あのカフェで働くことになる。
最初はオーナーの手伝い、のような形だからお給金は出ないけれど、それでもいずれはあたしの、あたしだけのお金が手に入るのだ。
「そうだわ、あたしも来月から仕事をすることになったのよ。あなたが紹介してくれたあのカフェで、子供達にポケモンのことを教えたり、バトルの簡単な指導をしたりするの」
別れ際にそう告げると、お姉ちゃんは驚いたようにその海の目を見開いた。
そう、そうなんだね、と躊躇いがちに相槌を打つ、その声音には明らかな狼狽の温度があった。どうしたのだろう、と首を捻るあたしに、お姉ちゃんは続けて、
「……そうだよね、もうあと5年もないんだもの、仕方ないよね」
と、不思議なことを呟くのだった。
どういう意味?とあたしは尋ねたけれど、お姉ちゃんはその問いには答えてくれず、代わりにこれがヒントだ、とでも言うように、全く別の話題を口にしたのだった。
「貴方の家に一冊だけ本があるでしょう?あれ、母さんが書いたのよ」
……確かにあたしの家には本があった。冊子といえばあたしが買い集めたファッション雑誌か、彼女の楽譜くらいしかなかっただけに、その一冊は異彩を放っていたのだった。
あたしが物心ついたときから既にその本はあって、彼女はたまにそれを手に取り、ぱらぱらと捲っては嬉しそうに微笑むのだった。
我が家には本棚というものがなく、加えて彼女は片付けるということを知らないので、その本はリビングに、玄関に、ピアノの小部屋に、よく置き去りにされていた。
家の掃除をしていたあたしは、その本をよく手にとっては、リビングのテーブルにそっと戻したものだった。そこがあの本の定位置だった。
故にあたしも、物心ついたときからずっとその本を見てきた筈だけれど、それがマリーの書いたものであるとはついぞ考えなかった。
だってその本の表紙には、あたしの知らない人の名前が刻まれていたからだ。著者の欄に「マリー」の名前はなかった。それだけは確かだった。
「……あたしもあの本を何度も手に取ったことがあるけれど、マリーの名前なんか何処にもなかったわ。何か別の本と勘違いしているんじゃない?」
すると彼女は、今まで見たことのないような表情になった。申し訳なさ、心許なさ、恐ろしさ、そうしたものを混ぜこぜにした、複雑で悲しい表情だった。
いつも穏やかに揺蕩っていた海の目が、憤りにではなく悲しみに冷え切っていた。
「マリーは、母さんの本当の名前じゃないの」
あたしはさっと青ざめてしまって、その言葉がまるで渦潮のように頭の中をぐるぐると回って、いままで黙っていてごめんね、と謝るお姉ちゃんの声が随分と遠くに聞こえて、
そういう訳で、あたしはおやすみの挨拶を交わすのもそこそこに、くるりと踵を返してアスファルトを強く蹴り、家への夜道を駆けたのだった。
カギを乱暴に差し込んで、ドアをガシャンと開けて、靴を整えずに脱ぎ散らかしたまま、あたしはリビングに大きな歩幅でずかずかと向かった。
あたしは今日、掃除をしてから家を出たから、あれから彼女が手に取っていなかったなら、その古びた本は定位置にある筈だった。
案の定、彼女はピアノの小部屋で死の旋律を奏でるのに忙しいらしく、シンプルなタイトルのその本は、リビングのテーブルに変わらぬ形で佇んでいた。
……あたしはその本の著者がマリーであるということを知らなかった。というより、手に取った今でも信じ難い気持ちでいっぱいだった。
何故ならその本の表紙にも背表紙にも、何処にも「マリー」の名前はなかったからである。あったのは別の女性の、聞いたこともない名前のみであったからである。
「それ」こそがマリーの本名であるのだと、あたしは今までずっと、ずっと知らなかったのだ。
すとん、とあたしは冷たいフローリングに膝を折った。
そしてそのまま、力の抜けた膝の上に本を置き、色褪せかけた表紙をそっと手でなぞってから、その肌触りに苦笑しつつ、そっと開いた。
あいつとマリーのことは今日、お姉ちゃんから聞いて知っているつもりだったけれど、あの話は二人のほんの一部のエピソードに過ぎなかったのだと、読みながら、気付くに至った。
お姉ちゃんが話さなかったこと、言えなかったこと、敢えて言わなかったことが、この本には幾つも、書かれていたのだった。
あいつが元々、イッシュ地方の出身であったこと。イッシュとカロスでは使われている言語が異なるため、彼女はカロス語の勉強もしなければならなかったこと。
けれどもあいつには人の輪の中に入っていく勇気も、カロス語の勉強をするだけの根気もなかったのだということ。臆病と怠惰が故に、あいつは孤独を極めたこと。
フレア団を倒した英雄、カロスを救った救世主、そんな風にあいつが、カロス中から称えられていたこと。
けれどもその賞賛に、祝福に、英雄や救世主といった肩書きの重さに、あいつは耐えられなかったこと。皆の賞賛の視線が、祝福の言葉が、恐ろしかったこと。
イベルタルとかいう珍しいポケモンに命の半分を捧げていたこと。更にセキタイタウンの地下に残されていた兵器を自ら壊すことで、益々自らの身体を痛めつけていたこと。
そうした「緩慢な自殺」が功を奏して、あいつはカロスの地を踏んでからたった5年でその生涯を閉じたこと。
マリーは水彩画を趣味にしていたこと。マリーから貰った絵を、あいつは墓場まで持って行ったこと。
あいつが愛した、そしてあいつを愛した男性とは他でもない、あたしが来月から働こうとしているカフェのオーナーであったこと。
オーナーがよく読んでいる淡いオレンジ色の便箋こそ、あいつが生前書き留めて、まるごとマリーに託したものであること。
オーナーはフレア団のボスであったこと。あの姿は25年前からずっと変わっていないこと。
セキタイタウンの地下に埋められていた兵器、その光には生き物の命を引き延ばす力があったこと。そのせいで、オーナーは永遠の命を手にするに至ったのだということ。
オーナーの年齢は、あたしには全くそう見えなかったけれど、もう60歳近くになっているのだということ。
あいつとオーナーが「共に30年生きる」という約束をしていたこと。その約束が果たされるまで、あと5年くらい、かかること。
『××を、忘れないで。』
ああ、マリー。あなたはなんて惨たらしい文章を書く人なのだろう。
お姉ちゃんが殺したい程に憎んでいたあいつの死。それを美しいものにしたのは他でもないマリーだったのだ。マリーが犯人だったのだ。
マリーはそうしなければ、生きていかれなかったのだ。
一気にあたしの頭の中に飛び込んできた、あらゆる「真実」に眩暈がした。息苦しくて、吐き気がして、頭が痛くて、けれどもあたしはその本から指を離すことができなかった。
あたしはすっかり夢中になってページをめくっていたものだから、彼女がピアノの小部屋から出て来たことにも、あたしの方へ近付いてきたことにも気が付かなかった。
「素敵なことが書いてあるでしょう」
故に、いきなりそんなことをすぐ近くでいきなり言われてしまって、あたしは飛び上がる程に驚いたのだった。
彼女はクスクスと笑いながら、あたしの膝に置かれていたその本を取り上げた。
「大好きで、ずっと読んでいるのよ。もう諳んじられてしまうくらい」
知っている。あなたがずっとこればかり読んでいることも、この本が大好きであることも、あたしは解っている。
茫然とするあたしの前で、彼女は本当にこの本の「お気に入り」らしい部分を諳んじ始めた。
あたしは彼女のそれを子守歌のように聞きながら、目を細めた。なんだか、どうにも眠かったのだ。
「『セキタイタウンにはまだ、花の形をした美しい最終兵器が埋まっていました。あの花がある限り、人は同じ過ちを繰り返すでしょう。
そう考えた彼女は、あの花を壊すことにしました。危険だからと、誰も立ち入ったことのなかったセキタイタウンの地下へ、単身、乗り込んでいったのです。』」
あなたは「あいつ」のことが羨ましかったの?だからずっとその本を持っていたの?
いずれは「あいつ」のように死んでしまえないかしらと考えているの?自身の死を美しくしてくれる、そんな素敵な術がないかしらといつも夢見ているの?
でも見つからなくて、そんな方法はもう何処にもなくて、だからあなたは苦しんでいるの?それでも祈るようにそれを読み続けていたの?それはあなたの「聖書」なの?
「『毒の花と共に死ぬ覚悟、毒の花を道連れにするという決意がなければ、できないことでした。
結果的には毒の花の方が彼女を道連れにしたのですが、私は、逆に考えることにしています。道連れにしたのは彼女です。毒の花に勝利したのは彼女です。私の、親友です。』」
あいつはそうすることでしか生きていかれなかった。あいつは生きるために自ら命を捧げて寿命を縮め、危険を冒して命を削り、生きるために死んだ。
そしてマリーはあいつのそうした、ひどく滑稽な「緩慢な自殺」を限界まで美化して、あいつの選択をいつだって美しく在らしめて、
「××を忘れないで」と、この本の中で乞い続けて、そうやって、あいつの死を抱えて生きていくことを選んでいる。
それがあいつの願いでもあったから、「親友」であるあいつがそう願ったから、マリーは生きるために、あいつの死を背負い続けている。
けれどもお姉ちゃんはそれを良しとしない。マリーが苦しむ必要など何もないのに、とあいつを恨んでいる。けれどそれさえも、あいつの思うツボであるのかもしれなかった。
あいつのことを殺したい程に憎んでいるお姉ちゃんは、きっとカロスに引っ越してきてから一日たりとも、あいつを忘れたことなどなかったのだろうから。
この街には金木犀の木がある。あいつは金木犀と共にこの街で生き続けている。それこそミアレシティが火の海にでも飲まれない限り、あいつの生きた証は消えないのだろう。
そして彼女は、本など全く読まないにもかかわらず、あの本だけはずっと愛読してきた彼女は、もう諳んじられる程にあれを読み込んでいるのであろう、そんな彼女は、
……けれどもきっと、あの本の主旨が、あの本が伝えようとしている本当のところが、分かっていない。
マリーの「死のうなんて馬鹿なことを考えないで」という願いを、そうした趣旨の文章を、彼女が正しく読み取っているとは到底、思えない。
彼女は寧ろあいつの生き方に焦がれているのだ。美しく死んだあいつに憧れているのだ。わたしもそんな風に死ねたらどんなに素敵だろう、と、すっかり惚れ込んでしまっているのだ。
そして彼女が死んだら間違いなく、彼もその後を追うだろう。
彼は芸術と彼女のために生きているようなものだった。そんな彼が彼女のいない世界で生き続けられるとは到底、思えなかった。
彼女が死ぬ時が彼の死ぬ時なのだろうと、本当にそう思えたのだ。
あいつは死んだ。マリーは生き続ける。お姉ちゃんも生きたがっている。彼女は死にたがっている。彼は死にそうである。
……あたしは、どうしたいのだろう。
2017.4.15
【14:18】(44:-)