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そんな重苦しい話を、何十分にもわたって続けていたものだから、
もう夜の9時をとっくに過ぎているというのに、あたしもお姉ちゃんも、すっかり眼が冴えてしまっていた。
このままではどうにも寝付けなさそうだったから、夕食の後片付けもそこそこに、二人でこっそり家を抜け出した。
彼女はピアノの小部屋で死の旋律を奏でている。彼はまだ帰ってこない。だから構わなかった。夜がすっかり更けてしまってからの外出に、あたしは少し、わくわくしていた。

美味しいプリンを出してくれるカフェがあるんだよ、と、お姉ちゃんは無邪気にあたしの手を引いた。貴方の手は冷たいね、と続けざまに口にしてクスクスと笑った。
変なの、と思った。これじゃあまるで友達みたいだ。笑いながら隣を歩いているところなど、本当に友達のようだったのだ。
もしかしたらお姉ちゃんが恐れているのは、友達や親友という関係であるというよりはむしろ、この関係にそうした「名前」が付いてしまうことにあるのではないかと思った。
お姉ちゃんはあたしを「友達」とすることが怖いのだ。近しい間柄に「親友」などという大層な名前を付けることが怖いのだ。
その名前が、呪いに変わってしまいやしないかと、そうしたことが不安でたまらないのだ。

カフェに入り、苺のフレーバーティーを2杯とプリンを1つ注文した。どうやらかなり大きなプリンらしく、一人ではとても食べきれないだろうから、とのことだった。
運ばれてきたプリンは確かに大きかったけれど、無理をすれば食べられなくもない量であるように思えたので、あたしならこれくらい食べられそうだわ、と正直に告げてしまった。
すると彼女は至極楽しそうに笑いながら、実は私も、仕事の帰りに此処に来て、何度か一人で食べちゃったことがあるんだよ、と照れたように話してくれたのだった。
年相応に甘いものが好きなあたしとお姉ちゃんは、けれども今だけは慎ましやかなふりをして1つのプリンを二人でつついて食べるのだった。

お姉ちゃんは紅茶をストレートで飲んだ。あたしも真似をしてみたけれど、その甘い香りに反してその紅茶はちっとも甘くなかったから、思わず顔をしかめてしまった。
お姉ちゃんはクスクスと笑いながら、それじゃあ魔法をかけてあげる、などという大仰な言葉と共に、傍にあったシュガースティックの中身をさっと紅茶に注いだ。
すると途端に、ただ苺の香りがするだけのお湯が、あっという間に苺のホットジュースになってしまったのだから、それはまさしく「魔法」と呼ぶべき代物であったのだろう。
私が12の頃、父さんが同じようにしてくれたことがあってね。そう告げてお姉ちゃんはまたしても昔話をする。
今日のお姉ちゃんはいつもよりずっと饒舌だ。けれどあたしはそれを不快だとは思わなかった。

「苺の紅茶は父さんと母さんの思い出の品なの。これを飲むといつでも、二人が出会った頃に、「あいつ」を知らなかった頃に戻れるらしいわ。
苺に限った話じゃないけれど、香りと記憶は密接に関連していて、香りを嗅ぐとそれに関連した記憶が呼び起こされやすいの。これ、プルースト現象っていうのよ」

お姉ちゃんの父には未だかつて会ったことがない。聞けばこの20年間、その人はカロスの土地を踏んだことがないという。
マリーは今も月に一度は必ず訪れているのに、お姉ちゃんに至っては此処を住まいとしているのに、どうしてだろうと首を捻りかけたけれど、
「あいつ」の話を聞いてしまった今となっては、ああ、成る程、と思ってしまえるのだった。
あいつのせいでマリーが苦しんでいるのだから、そのことにお姉ちゃんでさえこんなにも憤り、心を乱しているのだから、
お姉ちゃんの父、すなわちマリーの夫があいつを憎んだとして、あいつが死んだ土地であるカロスを忌み嫌ったとして、それはきっと当然のことだったのだろう。

けれどもそうした恨み言を吐き出すお姉ちゃんの声音は、家にいた頃よりもずっと明るい。
あの重く悲しい昔話を、美しく惨たらしい詩歌を、けれどお姉ちゃんはいつの間にか「愚痴」という、ありふれたものへと格下げして、笑いながら喋ることができている。
そのことにあたしはどうしようもなく安心して、うん、うんと相槌を打つ。プリンは凄まじいスピードで減っていく。

「そういう訳で、母さんの下らない贖罪や、この街に漂う金木犀の香りには、私もほとほとうんざりしているところだったの」

時が流れるとはこういうことなのかもしれない。すっかり元気になったお姉ちゃんの姿を見ながら、声を聞きながら、あたしは少しだけそう思ったのだ。
人は大きすぎる絶望を抱えて生きていくことなどできない。できないから何処かで下ろしたり、その一部ないし全部を忘れたりするしかない。
今のお姉ちゃんには、あの木の枝を折っていたときの荒々しさも、あんたのせいで、と喚きながら葉をむしっていたときの狂気もなかった。
あれは、ずっと抱えておくには無理のあり過ぎる代物だったのだ。あの瞬間に、爆発させるのがやっとであったのだ。お姉ちゃんにあのような悪意と殺意はやはり、似合わない。

「だって20年よ?20年。法に触れるような罪を犯した人だって、懲役20年もすれば十分じゃないの。そんなに長く一つの罪を振り返り続けることなんか、できないわ。
それなのに母さんは自分から、無期懲役の檻に飛び込んでいるのよ。おかしな話だと思わない?」

無期懲役の檻、という言い回しがどうにもおかしくて、あたしは声を上げて笑ってしまった。
お姉ちゃんもクスクスと笑いながら、けれど空いた手でスプーンを動かし、せっせとプリンを掬い取るのだった。お姉ちゃんは本当にこのプリンが好きなようだ。

……もしかしたら、マリーがあたしの家を訪れて、せっせと彼女の世話を焼いていたのも、あたしを外へ連れ出してくれたのも、マリーの贖罪の一環であったのかもしれない。
死にたがっている彼女の「友人」を自ら名乗ったマリーは、その「友人」という名の呪いに甘んじ続けているのかもしれない。

マリーの罪など何処にもない。彼女の罪は裁けない。だからマリーは自ら檻の中に飛び込んだのだ。裁かれなかったからこそ、自ら刑に服することを選んだのだ。
裁けない罪。それを引き取ってくれる相手がマリーにはいない。お姉ちゃんも、お姉ちゃんの父も、その荷物を奪い取ることができていない。
お姉ちゃんが、お姉ちゃんの父が、無力だと言っているのでは決してない。「あいつ」だ。「あいつ」の呪いが強すぎるのだ。そういうことなのだ。

「でも、一つだけ幸いなことがあったの」

幸いなこと?とあたしは首を傾げる。もうプリンの大皿は空っぽだった。
唯一残っていた苺をひょいと摘まんでから、彼女はその赤い先をあたしの方へと向けて楽しそうにその海を細めた。
貴方のことよ、と歌うように語った彼女は、そのすぐ後にとんでもないことを口にした。

「あいつが死んだから、私は母さんに連れられてこの土地を踏むことができた。そして貴方に会えた。貴方とこんなにも仲良くなれた!」

……お姉ちゃんの言っていることは、おかしくなんかない。
その通りだった。あいつがこの地で死ななければ、マリーは月に一度、この街にやって来ることなどなかった。
マリーと彼女が知り合ったから、マリーがこの地を定期的に訪れていたから、あいつが死んだから、あたしとお姉ちゃんは会うことが叶ったのだ。
分かる、それは事実として理解できる。けれどもお姉ちゃんは何と言った?「貴方とこんなにも仲良くなれた」と、そう言ったのだ。
友達を呪いの言葉であるとして、忌避し続けてきた彼女が、仲良くなれた、だなんて、その近しい距離を喜ぶかのような、そんな言葉を。

「私は友達を作りたくなんかなかった。友達になって、親友になって、そうして誰かをあいつのように呪ってしまうかもしれないってことが、どうしようもなく、怖かった。
でも、……ふふ、もう戻れないね。だって私達、ずっと一緒だったんだもの。ずっと近くで生きてきちゃったんだもの」

ねえ、とお姉ちゃんはあたしの名前を呼ぶ。凛としたメゾソプラノは相変わらず綺麗で、すっかり泣き止んだ目には、もう炎の色など何処にも見当たらなかった。
ただ、あたしの焦がれた海が凪ぐばかりであったのだ。
お姉ちゃんはこれ以上ないくらいに落ち着いていた。ある種の覚悟を決めているようであった。
けれどあたしは落ち着けなかった。フォークを握る手が汗ばんでいて、心臓が煩く跳ねていて、泣きそうだった。
いつの間にこうなっていたのだろう。頑なに「友達」を拒み続けていたお姉ちゃんは、ずっと「友達とは、苦しいもの」だと言い続けてきたお姉ちゃんは、いつから。

「あたしはあなたを友達と呼んでもいいの?」

高揚と期待と不安と恐怖の混ぜこぜになった声音で尋ねた。
テーブルの向かいでパスタを巻き取りかけていたお姉ちゃんは、まるでプリンのように甘く優しく笑って頷き、そして言った。


「貴方を呪ってしまうかもしれない私を、許さないでね」


構うものか、と思ったことは、あたしだけの秘密だ。
友達という言葉を呪いだと信じて疑わないお姉ちゃんを、これ以上恐れさせたくなかったのだ。
けれどあたしは、怖くなどなかった。この優しくて悲しい人に呪われたって構わなかった。だってやっと、やっと。

ぽろぽろと泣き出したあたしに、お姉ちゃんは苦笑しながら手を伸べてきた。あたしの頬に触れるお姉ちゃんの手はとても温かかった。
生きている人は温かいものなのだ。あたしの手はお姉ちゃんのそれより温かくないけれど、それでも確かな温度があるのだ。
死ぬとはどういうことであるのかをあたしは知っている。あたしはちゃんと、解っている。

死ぬとは冷たいことだ。死ぬとは臭いことだ。死ぬとはプリンを食べられないということだ。死ぬとは、この優しい人と友達でいられなくなるということだ。
あたしはそんなもの、要らない。あたしはそんなものに甘んじない。あたしは、あたしは!

ああ、でも本当の平穏とは何処にあるものなのだろう。

あたしやお姉ちゃんやマリーの平穏は「生」にこそある。彼女や彼や「あいつ」の平穏は「死」にこそある。
あたしやお姉ちゃんやマリーは生きたがっている。彼女や彼や「あいつ」は死にたがっている。
あたし達は、生きてさえいれば幸福なのだと思っている。彼女達は、死ぬことさえできれば幸福なのだと思っている。
「あいつ」の死は誰も幸せにすることができていない。彼女の生は誰も幸せにすることができていない。
そういう意味で、あたし達はあまりにも対極なところに在り過ぎていた。あたし達は、どう足掻いても相容れない場所で息をしていたのだった。

生きるとは幸福なことだったのか、それとも不幸なことであったのか。楽しいことであったのか、それとも苦しいことであったのか。
あたしはそうした全てのことが、いよいよ解らなくなっていたのだった。
……否、そんなこと、これまでだって一度も理解できたことなどなかったのだけれど。


2017.4.14
【14:18】

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