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あたしは慌てて駆け寄って、お姉ちゃん、と震える声で叫んでその腕をぐいと掴んだ。
けれどもすぐに強い力で振り払われて、あたしはアスファルトに尻餅をつくこととなってしまった。
ブロンドを綺麗に波打たせてくるりと振り返るお姉ちゃんの目は、海の色をしてはいなかった。泣き腫らしたその目は、まるで炎のように赤く燃え上がっていたのだ。

ああ、この人は憤りに心を燃やすのではなく、悲しみに目を燃やすのだ。

「こんなもの、大嫌いよ!!」

『あなたなんか大嫌い!!』
その痛烈な音は、あたしがかつて彼女に投げつけた文句にとてもよく似ていて、
この立派で優しいお姉ちゃんの中にも、あたしにそっくりな激情が潜んでいるのだということに、あたしはただただ驚いてしまって、
茫然としているあたしの前で、お姉ちゃんは金木犀の幹に足を掛け、伸びていた太い枝にぶら下がるようにして、豪快にバキっと折ってしまった。

立ち上がろうとして手をアスファルトに付けた瞬間、何か紙のようなものに指先が触れた気がして、思わずそちらに視線を落とした。
本の切れ端が、このローズ広場へと大量に撒き散らされていたのだ。
誰がこんな酷いことを、などと考えるまでもなかった。お姉ちゃんだ。お姉ちゃんがやったのだ。
誰よりも優しい、海のような心を持っている筈のお姉ちゃんが、こんな、まるであたしみたいな粗野で残酷なことを。

お姉ちゃんはその枝をアスファルトに叩きつけて、可愛いリボンのついたパンプスで思いっきり踏みつけた。
地団駄を踏むように枝を傷付け、両手でそこに生える葉をむしり取った。
それを執拗に何度も繰り返して、枝に葉がなくなれば、地に落ちたそれを拾い上げてまた破いた。本の切れ端も一緒に破いた。どんどん細かくなっていった。

お姉ちゃんの暴力、狂気、激情、涙、全てがあたしの目の前で繰り広げられていて、けれど、ああ、あたしにはどうすることもできないのだと、分かってしまった。
あたしには止められない。お姉ちゃんを止められる人なんか、きっと何処にもいない。
だって、あたしが彼女に向けた「大嫌い」と、お姉ちゃんが金木犀に向けた「大嫌い」は、同じ激情でこそあったけれど、その中身にはきっと天と地ほどの差があったのだ。
お姉ちゃんのそれには明確な「悪意」があった。そこには悲しすぎる「殺意」があったのだ。

「弱虫!臆病者!あんたのせいで!あんたが、母さんと親友なんかになったせいで!」

お姉ちゃんは何度も何度もその枝を踏みつけていた。お姉ちゃんの周りには、破かれた本の白いページと、深緑の葉が散らばっていた。
緑と白の沼地に足をずぶずぶと沈めて、お姉ちゃんは泣いていた。悲しいくらいに綺麗で、あたしまで泣いてしまったのだった。

「燃えてしまえばいいのに。金木犀もあのカフェもこの街も、全部火の海に包まれてしまえばいいのに。あいつの呪いも、生きた証も、全部無くなってしまえばいいのに」

「……」

「そうすれば、貴方と友達にだってなれたかもしれないのに」

ならなくていい、と思った。数年前にはあれほど焦がれていたお姉ちゃんとの「友達」を、けれど今、この場で求める勇気などありはしなかった。
友達でなくともいい。仲良くなってくれずとも構わない。だから泣き止んでほしい。もうこんなことをしないでほしい。あなたの海を赤くしないでほしい。
あたしはこの街が火の海に包まれようと、あいつとやらの証が無くなろうと構いやしないけれど、でもあなたの目が燃え続けることだけは耐えられない。
あなたが泣いているところを見るのは、とても辛い。

あたしは泣きながら、もう一度お姉ちゃんに手を伸べた。硬い枝を強く掴んだり、葉をむしり取ったりしたせいで、その手には細かな切り傷が幾つもついていた。
その、力強く逞しく、一度はあたしを振り払いさえしたその腕は、けれどだらりと肩から垂れ下がるのみで、一切の抵抗を見せなかった。もうあたしは、振り払われなかった。
その弱々しさが彼女に重なって、あたしはにわかに恐ろしくなってしまった。まさか、在り得ない、などと思いながら、ローズ広場を出て行った。
散らばった葉と紙を拾い上げて片付ける余裕など、あたしにはありはしなかった。
あたしにとっては、このミアレシティが誇る美しさなんかよりも、お姉ちゃんの方がずっと大事だったからだ。

アパルトマンの3階に上がって、自宅のドアを開けて、そこへお姉ちゃんを押し込んで、ドアを閉めて、カギをかけて、あたしはなんだかとても安心した。
お姉ちゃんの痛々しい泣き顔は、あたしにも随分と堪えていた。お姉ちゃんを金木犀の香りの届かないところへ閉じ込めて、それでようやく一息つくことができたのだった。

椅子に力なく座ったお姉ちゃんがさめざめと泣いている間に、あたしは二人分のパスタを茹でて、今日買って来たばかりのレタスを千切ってサラダを作った。
あたしがそれをテーブルの上に置く頃には、もう彼女は泣き止んでいて、可愛らしいしゃっくりを繰り返すのみとなっていた。
ごめんね、と告げられてしまったけれど、あたしには何における謝罪なのかよく分からなくて、あなたが謝る必要なんか何処にもないじゃないの、と言い返して、
けれどもそうしたあたしの反論に対して、お姉ちゃんは再び泣きそうな顔をするのだった。

「今日はあいつの命日なの」

その言葉を皮切りに、お姉ちゃんは昔話を始めた。お姉ちゃんの母、マリーがおよそ20年前に喪った、親友の話だった。

とても美しい少女だったこと、けれどとても臆病で卑屈な少女であったこと。人と関わること、旅をすることを極端に恐れていたこと。泣き虫だったこと。
その少女は、けれど運命とかいうものに愛されてしまったがために、フレア団という組織の魔の手からカロスを救うという大偉業を成し遂げたこと。皆が少女を称えたこと。
けれど少女は人を恐れたまま、旅を怖がったまま、何もかもから逃げ出したくなって「緩慢な自殺」を選び取ったこと。それから5年をかけて、少女は命を燃やし尽くしたこと。

少女はマリーに手紙を託していたこと。マリーはその手紙を、少女が愛したとある男性へ、月に一度、届けていること。
それが少女との約束であり、少女の自殺を止められなかったマリーの贖罪であること。少女が託した手紙は25年分あり、故にマリーの贖罪はまだ続いていること。

マリーは少女のことを記した本を書いていたこと。マリーは少女のために、少女を象徴する木をこの街に植えたこと。
その木こそが金木犀であり、あの香りは少女の死臭そのものであったのだということ。
マリーは今でも、少女を死なせてしまったことを悔いていること。その懺悔を、お姉ちゃんは幼い頃からずっと聞いてきたこと。
マリーが語る「親友」の響きがお姉ちゃんにはとても恐ろしく思われて、友達関係というものは惨たらしい結果しか生まないのだと本気で信じていて、
そして、それ故にお姉ちゃんは今まで一度も友達を作ろうとしなかったこと。

お姉ちゃんは、まるで初めから用意していた詩歌のようにその話をした。歌うように、祈るように語っていた。
お姉ちゃんが一つ、また一つと言い終える度に、あたしはこれまでお姉ちゃんに抱いていた種々の違和感の理由が、次々と明らかになっていくのを身に染みて感じていたのだった。

お姉ちゃんが「あいつ」などという野蛮な物言いでその少女を指す理由。友達というものをひどく恐れ、忌避する理由。
カロスで働くことを選んだ理由。金木犀を睨み付ける理由。その海が時折、冷たく凍る理由。
そんなにも苦しい思いをしながら、それでも生きることを選び続けている、理由。

「母さんは自分のことを人殺しだと思っている。あいつが勝手に死んだだけなのに、あいつが弱かっただけなのに、何故だか母さんの中でそれが母さんのせいになっている。
毎年、命日には白ワインを飲んで泥酔して、ひどく泣くの。見かねたおじさんがボトルを取り上げるまで続くのよ。痛々しくて、見ていられなくて、私もつい泣いてしまう」

今日は「あいつ」の命日なのだとお姉ちゃんは言っていた。
イッシュから月に一度やって来てくれていたマリーは、今日は自宅で白ワインを飲んでいるのだろうか。飲んで、20年も前のことを悔いながら、泣いているのだろうか。

お姉ちゃんは18歳だ。そして来年には19歳、死んだあいつと同じ年になる。
けれど今までも強く逞しく生きてきたお姉ちゃんは、20歳になっても21歳になってもきっと生き続けるだろう。
けれど「あいつ」は19歳で時を止めている。自殺なんて馬鹿げたことをしでかして、それでも尚、この街に死臭を醸し続けている。

「私は母さんをそんな風にした「あいつ」を許さない。大量の手紙で母さんを縛った「あいつ」を、もし生きていたら私が殺してやりたい。
そうしたら、母さんは下らない贖罪のために、毎月、カロスにやって来なくて済んだのに。父さんやおじさんや、仕事場の楽しい人たちと一緒に、楽しく生きていられたのに」

殺す、という言葉にあたしはヒヤリとした。あたしが12歳のときに彼女と交わした約束を思い出したからだ。
『ねえ、もし生きていたくなくなったら、そのときはあたしに言ってほしい。あたしがあなたを死なせてあげるから。あなたが生きなくてもいいようにしてあげるから。』
あの約束を交わしてからも、ずっと彼女は苦しそうに生き続けていた。
生きていたって辛いだけよ。死んでしまった方がいいんだわ。そう嘆きながら、けれども彼女は今日も生きている。明日も、きっと生きている。
彼女はもしかしたらあの約束を忘れてしまっているのかもしれない。そうであればいいと思う。あんな惨たらしいこと、忘れるのが一番いいのだと思う。
もし、覚えているにもかかわらず、死にたがりの彼女に死ぬ度胸がないが故に、あたしに頼み込むことができずにいるのなら、しかしそれはそれでいいと思う。

生きている彼女が可哀想だ。でもあたしは生きていたい。そしてできることなら彼女にも、生きてほしい。
彼女が生きている限り、彼だって生きてくれる。彼女のために、生き続けてくれる。

ああ、それなのにどうして、その少女は死のうと思ったのだろう?どうして死という醜いものを選び取ってしまったのだろう?
人と関わることが恐ろしいのなら、関わらなければよかったのだ。旅が苦しいなら、やめてしまえばよかったのだ。疲れたのなら、休めばよかったのだ。
その結果、彼女のように何もできなくなったとしても、料理も掃除も洗濯も知らない人間になってしまったとしても、それでも、死ぬよりはずっと、ずっとマシだ。
あたしは本気でそう思っている。そして、これまで生きてきてくれた彼女に、そんな彼女を愛し続けてくれた彼に、感謝している。

……死ぬことは、弱虫のすることだ。自殺なんてもってのほかだ。あたしはそう思っていて、故にそんなことをした少女には、死後もそれなりの報いがある筈だと信じていた。
誰もがその少女を蔑視し、嘲笑し、そして、その少女などいなかったかのようにすっかり忘れてしまうべきだったのだ。それこそが少女に相応しい結末である筈だったのだ。

ところがどうしたことだろう。このカロスにおいて、その少女はあまりにも美しく残り続けているではないか。
逞しく生きているお姉ちゃんの方が、勝利者である筈のお姉ちゃんの方が、ずっと打ちひしがれて、傷付いて、悲しんでいるではないか!

……けれど、ああ、もしかしたら、間違っているのはあたし達の方だったのだろうか。

あたしは、彼女は、彼は、生きていてはいけないのだろうか。


2017.4.13
【14:18】

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