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彼女に、フォッコを紹介した。
小さな体を抱き上げて差し出せば、針金細工のように細い腕がそっと伸びてきた。
彼女が「生きている命」に触れている様がどうにも珍しく思われて、眩しくてあたしは目を細めた。
けれども抱きかかえたり頬をすり寄せたりすることはせず、フォッコの頭に手を置いたまま、ぽろぽろと青白い頬に涙を滑らせるのだった。
そういうところのある人だと、仕方がないのだと、もう分かっていたからあたしは困ったように笑いながら彼女を許した。あたしに倣うようにフォッコも笑顔になった。

ポケモンはトレーナーに似るのだと、お姉ちゃんが教えてくれた。現にお姉ちゃんの連れている、冷凍庫の形をしたポケモンは、お姉ちゃんに似てとても賢く、理知的なのだった。
こんなに綺麗で可愛らしいフォッコも、いずれはあたしのようになるのだろうか。ガサツで、強情で、生きることに貪欲な風になってしまうのだろうか。
少しだけ、申し訳ないと思った。そしてあたしは、フォッコのトレーナーとしてどう在るべきなのかを、真剣に考え始めるようになった。
その助けになってくれたのは、お姉ちゃんと、あのカフェだった。

あたしは毎日のようにフォッコを連れて家を出て、あのカフェへと向かった。
クリーム色の壁紙は目に優しく、家の真っ白な壁に囲まれているときよりも、幾分か気が楽になったように感じるのだった。
カフェには年の様々な子供達が集まっていた。7歳の子も、14歳の子もいた。
誰もがあたしよりもずっと詳しくポケモンのことを知っていたから、年下の子も年上の人も、等しくあたしの先輩で、先生だった。

オーナーの男性がホワイトボードの前に立って子供達を呼ぶと、皆はそれまで賑やかに遊んでいたのが嘘のように、ぱっとカフェの椅子を取り合って、席に着き始める。
あたしもカフェの隅にある椅子に座り、膝の上にノートを広げて男性の言葉を待った。
男性が教えてくれることは、もう此処に長く通っている子供達にとってはありふれた、つまらないことだったのかもしれない。
けれど、少なくともあたしはとても楽しかった。これ以上ないくらいに充実していた。
男性の語る全てがあたしの知らない新しいことばかりで、男性の言葉が意味のある「知識」としてあたしの頭に入ってくることがとても嬉しくて、
あたしは夢中でペンを動かし、男性の話をノートに書き殴って、……そうして30分の座学が終われば、すっかり疲れてしまっているという有様なのだった。

ポケモンはモンスターボールというものに入れて連れ歩けること、そのボールにも様々な種類があること。
街の外にある草むらに入ると、野生のポケモンが飛び出してくること。そのポケモンはモンスターボールで捕まえることができること。
人のポケモンにボールを投げると泥棒になってしまうから、モンスターボールは野生のポケモンにだけ投げることが許されていること。
傷付いたポケモンはポケモンセンターという施設で治療できること。ポケモンは6匹まで連れ歩けること。7匹目のポケモンは預かりボックスへと送られること。

ポケモン同士を戦わせることをポケモンバトルということ。トレーナーはポケモンと共に戦い、共に生きることで絆を深めること。
ポケモントレーナーはパートナーとなるポケモンを連れて、旅に出たりもすること。このカロス地方には、旅をする子供達のための施設が沢山あること。

僕も来年、この子と一緒にカロス地方を回るんだ。
ハリマロンという緑色をしたポケモンを連れた、あたしよりも3歳程年下に見える男の子が得意気にそう言っていた。
あたしは一人で料理や掃除や洗濯ができた。彼女にできないことがあたしにはできたし、彼の知らないことをあたしは知っていた。
けれどもそんなことは、一歩あの家の外に出れば、このカロスという広い世界においては、どうにも些末な、下らないことであるようだった。
あたしよりも小さな子供達が、あたしよりもずっと大きな世界に、ポケモンと共に飛び出そうとしている。
そのことはあたしに大きな衝撃と混乱をもたらした。あたしは今まで何をやっていたのだろうと、にわかに焦りたくなってしまったのだった。

「急がなくてもいいんだよ。旅なんていつでもできるし、しなくたっていいんだから。貴方のペースで、貴方のしたいように進めばいいんだから」

けれども他の誰でもないお姉ちゃんがそう言うものだから、あたしはそれですっかり納得してしまって、
働くことも、旅をすることも保留にして、今はこの街で懸命に生きることだけを考えていればいいのだと割り切ることができた。
そういう訳であたしはそれからも、あたしよりも少し年下の子供達に交じってカフェに通い、子供達と一緒にポケモンバトルをして、
家では相変わらず一人分の食事を作り、掃除をして洗濯をして……といった生活を送っていたのだった。

カフェに通うようになって、年下の友達が沢山出来た。
あたしよりもずっと物知りでずっとバトルの強い彼等のことを、ポケモンと共に逞しく生きる彼等のことを、あたしは心から尊敬していた。
彼等との時間は楽しかったし、お姉ちゃんと同じくらい、とまではいかずとも、彼等のことが好きだった。
けれども半年が過ぎ、1年が経つと、何人かは旅に出て行ってしまう。
一人、また一人といなくなる子供を見送るのはとても寂しかったけれど、しばらくするとまた別の子供が新しくカフェへとやって来るのだった。

それに、誰がいなくなろうとも、フォッコだけはずっとあたしと一緒にいてくれた。
この意味、ポケモンがいるというただそれだけの事実が意味するところというのは、きっとポケモントレーナーになったことのある人しか、分かるまい。

この世界で生きることは存外、簡単であるのかもしれないとあたしは思い始めていた。
だってポケモンがいるのだ。ポケモンがいてくれれば、一人になどなりようがないのだ。
逞しく一人で生きていた筈のあたしは、けれどももう一人ではなくなっていたのだ。フォッコが、そうしてくれたのだ。
ポケモンの存在、ポケモンの力、ポケモンの温もり、ポケモンの笑顔、それらがあたしに与えてくれたものは、言葉にできない程に多く、大きなものだった。
あたしはフォッコのことが大好きになってしまった。お姉ちゃんと友達になるより先に、あたしはこの小さな命を親友にしてしまっていたのだった。

そうして14歳になった頃、カフェのオーナーがあたしを呼び出した。

「君のこれからのことについて話をしたい。君の考えていることをわたしに聞かせてくれないか。
ポケモントレーナーとして度に出てみたいと思っているのか、それともこの街で働きたいと思っているのか、あるいは迷っているのか」

そのようなことを、あたしは彼や彼女にさえ尋ねられたことがなかったものだから、思わずこの男性に「父」の像を重ねたくなってしまって、
けれどそんな身勝手で失礼なことはきっと許されないのだろう、と思い直し、苦笑しながら口を開いた。

「今すぐ旅に出たいという気持ちはありません。バトルの修行をずっと続けることは、あたしとフォッコには難しすぎるような気がして」

バトルの道はとても険しいものだと、あたしはカフェの子供達やお姉ちゃんから聞いて知っていた。
ポケモンのことを知ったり、タイプ相性を探ったりすることは楽しかったけれど、あたしはどうにもフォッコを上手く勝たせてあげることができなかったのだ。
バトルに負ける度にフォッコの綺麗な毛並みがボロボロになってしまうのがどうにもいたわしくて、あたしはバトルに対して引け腰になっているようなところがあった。
そうしたあたしの姿をこの男性もずっと見てきていたから、バトルに対する後ろ向きな発言に、特に驚くことはせず、そうだねと同意を示してくれたのだった。

「それで、あたしはポケモンが好きだから、ここで教えていただいたことを活かせるようなお仕事をしてみたいんです。
けれどポケモン研究所で働くのはとても難しいと聞いているから、何処でなら働かせていただけるのかしら、と思って」

お姉ちゃんがカロスのポケモン研究所で働き始めたのは15歳の頃だった。
けれど働き始めたといっても、それは「助手」のようなもので、正式に研究所の職員として雇われたのは18歳になってからのことであるらしい。
あの聡明で努力家なお姉ちゃんでさえ、その年にならなければ正式なお給金を頂けなかったのだ。
まだ14歳であるあたしが、労働の対価としてお金を頂戴しようなんて、虫の良すぎる、とんでもない話であったのかもしれなかった。
けれどその「とんでもない話」が、目の前の男性から零れ出たのだ。

「わたしは此処で子供達にポケモンのことを教えているが、君さえよければその一部を「仕事」として任せたい。
此処には研究所とのパイプもある。君がポケモンのことをより深く知りたいと思うなら、あちらに君を紹介して、もっと難しい勉強をすることもできる」

あたしはこの人が何を言っているのか、この瞬間、まるで理解することができなかった。
あたしがこの男性に仕事を任されようとしているということも、お姉ちゃんの職場で勉強させてもらえるかもしれないということも、
すぐに「本当ですか、ありがとうございます!」と食らいつくには、あまりにも恵まれ過ぎた、とんでもないことであるように思われたのだ。
それくらい、にわかには信じ難いことであったのだ。

どういうことですか?と、あたしはその男性に3回、尋ね返した。男性はその度に苦笑しながら、全く同じ内容のことを、より丁寧な言葉に噛み砕いて話してくれた。
何度聞いても、やはりこの人はあたしに仕事をくれようとしているのだと、あたしはお姉ちゃんの研究所に行けるかもしれないのだと、
そうした言葉は変わらずあたしの耳に届き続けていて、4回目でようやく、あたしはその言葉を信じるに至ったのだ。

「でも、どうしてあたしに仕事を任せてくださるんですか?あたしはこのカフェに通っている皆の中で、とりわけ強くて優秀である、という訳ではない筈ですけれど……」

けれども彼は困ったように目を細めて、長く働いてくれる人を探していたんだ、と口にするのみであった。
成る程確かにそれならば、旅に出る意思のないあたしが適任であったのかもしれなかった。あたしはそこで納得してしまって、それ以上、その男性に尋ねることをしなかった。

あの男性は確かに「長く働いてくれる人」を探していた。
人を雇うにおいて、それは当然のように想定される条件であり、あの男性がそれをあたしに求めたとして、それは何らおかしなことではなかった。
けれども彼はもう一つの理由を隠していた。その「もう一つ」によって他の子供達が全て淘汰され、残ったあたしが、あたしだけが選ばれてしまったのだった。

あたしはその男性の思惑に気付くことなく、ただ働かせてもらえるのだと、お給金を頂けるのだと、
これからもポケモンのことについて色々と学ぶことができるのだと、そうしたあらゆる歓喜に身を任せ、笑顔でその提案を、受けた。
勿論、そのことについて、あれから長い時が流れた今となっても、後悔など全くしていないし、この男性には心から感謝しているのだけれど。

あたしはフォッコを連れて、カフェを飛び出して、そして。

「……」

お姉ちゃんが、泣きながら金木犀の葉をむしり取っている姿を、見てしまった。


2017.4.12
【14:18】

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