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そういった具合で、彼女は無事、妊娠しました。
陽の当たる道を歩くことができない彼女のために、訪問医に依頼をして、定期的に彼女の身体の状態を見ていただくようになりました。
医師への依頼には当然のようにお金が掛かります。故に私は働き続けていました。
彼女の生活も、妊娠する前と後で特に何が変わったということでもなく、いつものようにピアノを弾いたり、マリーが子供を連れてやって来たときには一緒にお茶を飲んだり、
毎日のようにフラワーショップへと訪問して花を一輪ずつ購入したり、新しい曲を作ったり……といった生活を送っていました。

「どうぞ、お裾分けです」

マリーはそう言って、「カフェイン」という成分が入っていないという特殊な茶葉を大量に持って来てくれました。
妊娠時にはカフェインを控えるようにというのは、訪問医にも言われていたところでしたので、成る程これなら彼女でも飲める筈だと、私は喜んで受け取りました。
それらはマリーが妊娠していたときに愛飲していたものらしく、幾つかは開封された状態で紙袋の中に入っていました。

そういえばこの頃から、マリーの娘を見かけることがなくなりましたね。
訳をマリーに尋ねたのですが、困ったように笑いながら「あの子はカロスが嫌いみたいだから」と告げるのみでした。
……あの子は随分と聡明なようでしたから、母親であるマリーがカロスに「縛られている」ことを、僅か3歳にして感じ取ることに成功していたのかもしれません。

……妊娠したことは、パキラにも告げました。
パキラから掛かってくる電話は、マリーを紹介した辺りからぐっと程度を減らし、この頃には半年に1回ほど連絡があればいい方、といった具合にまでなっていました。
おそらく、パキラの中では私にマリーを紹介した時点で、もう「贖罪」は終わっていたのでしょう。
もしくは「贖罪」という重すぎる荷物を、マリーに押し付けさえしていたのかもしれません。

いい気なものだと思いました。私の知るパキラという女性は、どこまでも利己的で臆病で飽きっぽい、低俗な生き物の形をしていました。
……いえ、本当はとても立派な女性だと思うのですよ。ただ、私はマリーのように、誰もを想うことなどできなかったものですから、パキラに向ける情など殆ど存在しなかったのです。
私がパキラに感謝できることがあるとすれば、マリーを紹介してくれたこと、それから彼女の両親に連絡を取ってくれたこと、この2点のみでした。

「そういった具合ですから、私達はもう大丈夫ですよ。今まで、どうもありがとうございました」

電話口でそう告げたのを最後に、パキラからの連絡は途絶えました。それでいいと思っていました。
終わりを告げるような冷たい言い方になってしまったことに関しては、今でこそ申し訳ないことをしたと考えることができるのですが、
当時の私には、パキラの気紛れな贖罪に付き合う余裕などまるでなく、寧ろ「これくらい言わせてくれ」という気持ちだったものですから、ええ、私も随分、利己的だったのですね。

そういった具合で、特に何事もなく、赤ちゃんが生まれてくるまでの10か月は平穏に過ぎていくものと思われました。けれども、そうはなりませんでした。
妊娠3か月を過ぎた頃からだったでしょうか。彼女が、食べ物の類を全く受け付けなくなったことがあったのです。

「ごめんなさい。何も食べられそうにないの。匂いを嗅いだだけで辛くなってしまうから、貴方がお食事をしている間、ピアノの部屋にいてもいいかしら?」

私はその日初めて、彼女に料理を「拒まれる」という経験をしました。

勿論、レストランで働いていれば、お口に合わない方が料理を残されることなど頻繁に起こります。その残飯にいちいち肩を落としていては話になりません。
けれども、その相手が他ならぬ彼女であるということ、ただそれだけの事実が私を絶望せしめていました。
その時私は、私の料理を毎日食べてくれる彼女の存在に、それまでの私がどれだけ救われてきたかということを、改めて思い知るに至ったのです。

客人にどれほど料理を酷評されようとも、レストランで酷い罵倒を受けようとも、彼女だけはいつでも、どんな料理でも、全て食べてくれていました。
私とて人間ですから、時には美味しくないものを出してしまったことだってあったでしょう。そうした事故めいたことだって、起きていた筈です。
それでも彼女は微笑みながら食べてくれました。いつでも「美味しい」と、飽きることなくそう告げてくれていました。
彼女の「無条件の肯定」が、料理人としての私に与えた力は計り知れないものがありました。

……故に、そんな彼女が私の作る料理の一切を受け付けなくなったという事実に、私はこの上ない衝撃を受け、絶望しました。
私からの連絡を受けて、マリーはすぐにやって来てくれたのですが、マリーは「大丈夫ですか?」という問いを、彼女にではなく私に、掛けたのです。
おそらく私は、悲惨な程に絶望的な表情をしていたのでしょうね。

「この時期、妊婦さんは口にするものにとても過敏になっているんです。でもこれは病気なんかじゃなくて、赤ちゃんを守ろうとしているが故の自然な反応なんです。
……決して、貴方の料理を嫌っている訳ではないんですよ」

最後を強調するように、マリーは気丈な声音でそう教えてくれました。
これは自然なことなのだと、お腹の中の赤ちゃんが元気に育っている証拠なのだと、マリーは私と彼女に何度も根気よく言って聞かせてくれました。

彼女に訪れた謎の嘔気には「つわり」という名前が付いていたようです。
どのようなものなら比較的食べやすいのか、どれくらいで収まるものなのか、という情報は、書店に行けばとても簡単に手に入りました。
油ものを避けること、薄味にすること、なるべく冷たい状態で提供し、食べ物の匂いを弱めること……。
私はそれらを忠実に守りながら、日ごとに違う料理を作りました。
青白い顔を更に白くしていた彼女は、困ったように笑いながら、その、冷たく柔らかくあっさりした味付けの料理を、一口か二口だけ、食べました。

「ごめんなさい」

ぽろぽろと涙を零しながら、彼女は毎晩のようにそう告げました。

「大丈夫ですよ」

そんな彼女の小さすぎる肩を抱き、私は洗脳めいたその言葉を繰り返しました。

まだお腹は大きくなっていない頃だったのですが、私はどうにも、恐ろしい気持ちになったことを覚えています。
彼女の腹の中に芽吹いてしまった命が、彼女の食べる力を、生きる力を、搾取しているように思われたのです。
彼女を生かすために宿した筈の命が、彼女を食い潰しているように思われてならなかったのです。

あれ程に苦しい時期は、後にも先にもありませんでした。
私は自らの選択を何度も何度も、悔いました。まるでマリーが書いた本の中に生きる、あの「親友」のようでした。
いくら嘆いても、どんなに悔いても、それでも、もうどうしようもないことでした。
そういう意味で、私も、あの少女も、何処か似ていたのだと思います。誰の制止も聞かずに、愚かしい暴挙を、取り返しのつかないことをしてしまうところなど、そっくりでしょう?

けれどもマリーが説明してくれた通り、彼女のその状態はある程度の時が経てば自然と収まりました。
それまで殆ど食べていなかった筈なのに、お腹の子は彼女の生命力を搾取する形で、大きく立派に成長していたようでした。
その成長の有様は、彼女の腹部にも表れ始めました。お腹が少し、膨らんできたのです。

「つわり」が収まってからは、それまでの食べられなかった時期を埋め合わせるかのように、彼女はとてもよく食べるようになりました。
小食であった筈の彼女が、大の男である私と同じくらい、食べていたような気がします。
彼女の食べる量が増えるに従って、彼女の中にいる命は大きくなりました。
やはり自らの身体の中で生き物を育てるというのは、私達のような男が想像している以上に、とても多くのエネルギーを要するものなのですね。

そうして10か月が経った頃、予定日よりも1日早く、彼女は女の子を出産しました。
身長49.0cm、体重は……2809gだったでしょうか。少し小さめでしたが、とても元気な子でした。
赤ちゃんは空気を割るように激しく泣いていて、その命を抱き上げた彼女もまた、泣いていました。

あの子が生まれてきてくれたとき、……それがおそらく、彼女の最も健康な時であったように思います。
少しだけふっくらとした頬に私は手を伸べました。赤ちゃんを抱き上げるのではなく、彼女を抱き締めました。
この10か月の間、彼女は生き延びてくれました。それだけで十分でした。赤ちゃんのことなど、私はまだ、考えることができなかったのです。
彼女はこの元気の過ぎる命に食い潰されることなく、その小さな体で、更に小さな赤ちゃんを身体から外へと吐き出すことに成功したのです。

私は、嬉しかった。赤ちゃんが元気に生まれてきてくれたことではなく、彼女が生き延びてくれたことが、どうしようもなく、嬉しかった。

その日の天気もまた、私にとって忘れ難いものでした。
とても綺麗な青空でした。雲一つ見当たりませんでした。大きすぎる仕事を終えた彼女を祝福するような、とても高くとても眩しい青色でした。
もっとも、その青色を、彼女はやはり恐れていたようですが。

そういった具合で、私達に新しい家族が加わりました。このとき私は40、彼女は30です。
私が彼女と共に暮らし始めてから、12年の時が流れていました。私が彼女と出会った頃から考えれば、私は実に20年間、彼女のことを知っていたことになります。
この、キリのいいところで終わってしまうのもいいかと思ったのですが、まだ少し、私にしか語れないことがあると思いますので、もう暫く、お付き合いいただけないでしょうか。


2017.6.30
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