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アルミナさんの好きなもの、ピアノの他に何かありますか?」

男性が運んできたのは、エスプレッソではなくカプチーノでした。私はそのことに少しばかり安心していました。
鋭いコーヒー豆の香りも、ミルクと砂糖が入ることで幾分か和らいだからです。あの日、パキラへ向けてしまった激情を、私はまだ忘れることができていなかったからです。
けれども、テーブルの向かいに座った女性、マリーは、「私の分は要りませんから、貴方が飲んでいいですよ」と笑い、
カプチーノを運んできた男性に、自らの分であった筈のカップをそっと差し出しました。

「いえ、あのグランドピアノ以外に執心しているものはありません。彼女は「欲しがる」ことを知らないのです。変化が訪れることをこの上なく恐れています。
ただ、私の料理を食べてくださるときは、とても楽しそうです。あと、楽譜を見ながらピアノを弾くだけでなく、自分で旋律を組み立てて演奏してみることもよくあるようでした」

いずれも、誇張ではなく事実だけを告げたつもりだったのですが、マリーは最後の言葉にとても驚いた様子で「作曲ができるんですか?」と、その海をいっぱいに見開き尋ねました。
旋律を組み立てること、オリジナルのメロディを編み出すこと、その作業を「作曲」と呼ぶことくらいは私も知っていましたから、ええそうだと思います、と頷きました。

「素敵な才能ですね、譜面に落としたりはしていないんですか?」

「譜面に落とす、とは?」

「えっと、真っ白の五線譜に音符や休符、速度記号を書き込んでいくんです。
……そうだ!アルミナさんへのお近づきのしるしに、私が一冊、可愛いものを見繕っておきます!」

名案だ、と満足そうに微笑んでいるマリーに、出来れば表紙は白いものをお願いしたいと訴えれば、
少しばかり驚いたような表情になったものの、白がお好きなんですね、と笑いながら快く了承してくれました。
グランドピアノが家にあるなんて羨ましいなあ、と歌うように続けたマリーもまた、音楽に造詣が深いのかもしれません。
そう思い、尋ねてみたのですが、笑いながら「まさか!」と即答で鮮やかに否定されてしまいました。

「私の歌はいつもテンポが出鱈目だし、楽譜を読むのだってとても時間がかかるんです。
でも、好きなんです。曲を奏でること、歌うこと、言葉を旋律に乗せること。好きなものは、ほら、知りたいって思うでしょう?」

その言葉に、私はあまりにも大きく頷きました。その強すぎる同意が面白かったのか、その女性、マリーはすっと海を細めて、クスクスと波を打つように笑いました。

好きなものは知りたいと思うことができます。それがどんなに苦しい道でも、触れていたいと思うものなのです。
すなわち好きでないものを知ろうなどという殊勝なことは、余程知識に貪欲な人でないとできないのです。
……そういう意味で、私もマリーも何ら「欲張り」ではなかったのだと思います。
私達はそれ程多くを望んだ覚えはありません。それ程多くを愛した覚えも、ありません。

そういった具合で、2週間後に再びカロスへと訪れたマリーに会うため、私は有休を使ってそっと家を抜け出しました。
ピアノを弾いている彼女が、私の不在に気付くことはまずありません。
私もそれが解っていましたから、時を止めている彼女に声をかけて、その凍り付いた時を動かしてしまうような無粋な真似は、ここ数年の間に殆どしなくなっていました。

けれども今日、マリーの力を借りて、その凍り付いた時を動かすのです。
彼女の時がどのように動き出すのか、私はとても期待していました。これ以上悪くなりようなどなかったのですから、恐れることはありませんでした。

「私も、かけがえのない人に生かされているようなところがあるんです」

私と彼女の住まいである、アパルトマンの3階へと続く階段へと足を掛けながら、マリーは肩を竦めつつそう零しました。
少し長めのスカートをたくし上げ、一段飛ばしでひょいひょいと駆け上がる、少女のような若さを持つこの女性は、けれども既に結婚し、一児の母になっています。
次からはあの子も一緒に連れてきてもいいかしら、という問いに、勿論ですと頷き返せば、マリーは本当に嬉しそうに笑いました。

「だから私も、私の命を懸けて彼女を生かします」

それはおそらく、私に聞かせるための言葉ではなかったのでしょう。それはマリー自身に向けた宣誓であり、私が相槌を打つ必要のない言葉だったのでしょう。
けれども私はありがとうございますと告げました。マリーは照れたように微笑みながら、何故かごめんなさいと口にして、私がドアを開けるのを待つように、一歩、後ずさりました。

ドアに鍵を差し込み、中へと入りました。グランドピアノの部屋から、僅かですがいつもの旋律が聞こえてきました。
どうやらピアノを弾いているようです、とマリーに説明し、リビングに面したそのドアを開けました。
華奢な指をいっぱいに使って、彼女は夢中でピアノを弾いていました。こんなにも懸命に動いているのに、彼女の時は今まさに止まっているのでした。
私とマリーが入ってきたことにも、曲を終えなければ気が付くことができないのです。いつものことでした。

何処かの言語で「鐘」を意味するその曲を、彼女はいたく気に入っていました。彼女が何度も何度もそれを弾くので、私もその曲をすっかり覚えてしまいました。
どうやらその曲を、音楽が好きなマリーも知っていたようで、「ラ・カンパネラですね」と、すぐに曲名を言い当てて、とても驚いたような表情をしていました。

「超絶技巧と言われる、とても難しい曲です。アルミナさん、本当にピアノがお上手なんですね。それに……」

「それに?」

「貴方の料理と同じ魅力があります。美しすぎて、完璧すぎて、怖い。彼女の指はまるで、この世界とは違う何処かを踊っているみたい」

曲を終えると、私より先にマリーが拍手をしました。割れんばかりの拍手でした。
そんなに大きく強く叩いては、手が痛くなってしまうのではないかと思われる程の盛大な音に、彼女もはっと顔を上げました。
そして、私ではない誰かがこの部屋へと入ってきていることに驚き、さっとその顔色を、元からあまり良くない顔色を更に青ざめさせました。

「誰?」

ぽろりと真珠が落ちるように零れたそのソプラノボイスに、けれどマリーはとても驚いていました。海の目をいっぱいに見開いて、沈黙していました。
その無言があまりにも長かったので、私は思わず「マリー」と名前を呼びました。そこではっと我に返ったらしく、マリーはすぐに笑顔を作りました。

「驚かせてしまってごめんなさい。初めまして、アルミナさん。私はマリーといいます」

「マリー?」

「ええ、普段はイッシュ地方という場所にいるんですが、たまにこの町に来て仕事をしているんです。
絵を描いたり、本を書いたり、研究をしたり、子供達に授業をしたり、お祭りごとを開いたり、パンを焼くお手伝いをしたり、……とにかく色々、しています」

マリーはそっと一歩を踏み出しました。
彼女は怯えたようにその薄い肩を強張らせましたが、来ないでと拒絶することも、恐怖にわっと泣き出すこともしませんでした。

「ピアノ、とても上手ですね!ラ・カンパネラをこんなにもハイテンポで弾ける人に、初めて会いました。
私も音楽が好きなんです。ズミさんに、貴方がとても上手にピアノを弾くんだって教えてもらって、それで今日、お邪魔させていただいたんです」

彼女の怯えはその瞬間、ふっと霧のように消えました。
嬉しそうに微笑みながらありがとうと紡ぎ、首を小さく傾げつつ、あなたもピアノが好きなのと尋ねました。
私以外の人物と、会話らしい会話を為している彼女を見るのは随分と久し振りでした。最後に見たのは、9年前の、レストランで行われた小さな結婚式であったように思います。
あれ以来、彼女の世界は安定という檻に閉じていました。時を止めている彼女の世界に、入ろうとする人間は誰も現れませんでした。
彼女もまた、外の世界と歩みを揃えようとしなかったのですから、同じことでした。

けれどもその閉じた世界の扉を、マリーはあまりにも勇敢に叩いています。
数多の家政婦達がこの8年間、誰も口を利こうとしなかったその相手に、彼女達に言わせれば「不気味」な女性に、眩しい笑顔で話しかけています。
マリーという女性は本当に「特別」なのだろうと、私はこの段階でいよいよ確信し始めていました。マリーの在り方は、生き方は、私が今までに出会った誰とも違っていました。

「私の、友達になっていただけませんか?」

彼女の友人になってほしいと懇願したのは私の方である筈なのに、マリーはそのような懇願などすっかり忘れたかのように、そう紡ぐのです。
その「友達になってほしい」が、私に頼まれたが故の言葉ではなく、マリーの本心から来る言葉であるかのように、あまりにも誠実な海の瞳で訴えるのです。

マリーは嘘を真実へと変える力を有した人でした。変えられるものを変えようとする勇気を有した人でした。
それはこの日から、いえおそらくはずっと前から変わらない、彼女の本質だったのでしょう。

「友達?」と首を捻る彼女に、マリーは「一緒に話をしたり、ご飯を食べたり、お出掛けしたりする人のことですよ」と説明しました。
「よく解らないわ、わたしのお友達はピアノくらいで、そうした「人」は今まで誰もいなかったの」という彼女の言葉にもマリーは全く怯まず、
寧ろ喜びに満ちた様子で、ぱっと顔に花を咲かせるように微笑みました。

「わあ、嬉しい!それじゃあ私が、貴方の初めてのお友達になれるんですね!」

本当に喜ばしい様子で、マリーは右手を彼女の方へと伸べました。
「握手」を知らない彼女はその手をじっと見つめているだけであったので、マリーは穏やかに笑いながら「貴方の手を此処に、どうぞ」と告げました。
そっと伸ばした彼女の手を、マリーは両手で包んで微笑みました。仲良くなるための挨拶ですよと告げれば、彼女も嬉しくなったのでしょう、花のように微笑んで握り返しました。

「ズミさん、私をアルミナさんに会わせてくれてありがとうございます」

マリーは誠実な人でした。危うい程の献身と、真実に変えるための嘘がとても上手な人でした。
そんな彼女が「マリー」という偽名を使い続けていたとして、きっとそれだって、誰かへの「誠意」を示すためのものであるのだと、この段階から私は既に信じていました。
ですから私は、マリーの本名を知ってからも、彼女をそちらの名前で呼んだことはただの一度もありません。


2017.6.29
(26:36)<22>

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