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マリーは支援者として、また友人として、とても優秀でした。少なくとも、彼女を気味悪がって近付かない今までの家政婦よりずっと、彼女と仲良くなってくれました。
ピアノを弾いてばかりである彼女も、マリーがやって来るとその手を止めました。
彼女に話しかけるタイミングを早々に掴んだらしいマリーは、「アルミナさん、こんにちは」と曲の合間に話しかけ、実に上手く彼女の時を動かしてくれました。

しかし、月に数回しかやって来ないマリーが、彼女と共にできることなど限られていました。
根気良く安全に家事を教えること、陽の当たる青い空の下へ彼女を連れ出すこと、買い物をすること、そうした一切のことは、やはりできないままだったのです。

けれどマリーは他の誰もできなかったことを三つ、してくれました。
一つ目は、彼女に仕事を与えたこと。二つ目は、彼女をアパルトマンの1階にあるフラワーショップへと連れて行ってくれたこと。そして三つ目、彼女に読書の習慣を与えたこと。

先ず一つ目の仕事に関してですが、マリーは「お土産」と称して、白表紙のノートを彼女に渡していました。
五線譜と呼ばれる罫線が印刷されたそれを示し、貴方の曲を此処に書いてみませんか、と提案したのです。
彼女は、次にマリーがやって来るまでの2週間の間に、そのノートを全て埋めてしまいました。

勿論、その作業を彼女が楽しんでいたことも喜ばしい事実には違いなかったのですが、もっと重要なことが続けざまに起こりました。
彼女の頭の中に蓄えられていた「楽譜」を、第三者にも見える形に書き起こす作業は、マリーの手によって確かな経済効果を生むに至ったのです。

マリーは彼女の曲を「本」にして、出版してみようと言い出しました。
どうやら彼女は出版社と少なからず縁があるらしく、直ぐに書籍化の話を取り付けてくれました。
彼女が手書きしたノートの中身は、あっという間に美しい表紙の楽譜へと形を変え、2か月も経たぬうちに、それはピアノ教室や楽器の専門店、書店など、至る所に並ぶに至りました。

私はマリーのように音楽が殊更に好きである、という訳でもなく、「曲」と言えば彼女のピアノしか聴いたことがありませんでした。
故に彼女が奏でるピアノ、彼女が創り上げる旋律というのがどれくらいの価値を持つものなのか、まるで解っていなかったのですが、
まさか初版が完売してしまうことになるとは、私も彼女も、そしてマリーさえも全く予想していませんでした。

けれどもその楽譜には「難しすぎて弾くことができない」という声が少なからず寄せられていたらしく、
原曲を少しばかり「弾きやすい」ものへと編曲する作業は、マリーが担い、そしてまた出版しました。
第二版となったそちらは、初版の3倍の冊数を依頼していたのですが、そちらも驚くべきことに、赤字を出すことはありませんでした。

何らかの営みが経済効果を持った場合、その営みに携わった人物が利益を受け取るべきです。
故に曲を創り上げた彼女だけでなく、その曲を楽譜出版社に提供し、書籍化を依頼し、更には編曲までしたマリーも、相応の金額を受け取って然るべきだと考えていたのですが、
マリーは困ったように笑いながら、「そんなもの、要りません」と首を振りました。

「私のお金欲しさにやっていることじゃないんです。アルミナさんが毎日していることを、少しでも外の世界に沿う形で発展させたかっただけのことなんです。
重要なのはお金を手に入れることじゃなくて、アルミナさんが何らかの形で、社会に関わっているという実感を持つことです」

「……しかし、此処までしてもらっておいて、何もお返しできないというのは、」

「これをきっかけに、彼女が外の世界に目を向けてくれたなら、少しでも興味を持ってくれるといいなって、思います。その事実こそが、私の一番の報酬ですよ」

それでは私の気が収まらないのだと強調しましたが、マリーは頑として金銭の類を受け取ろうとしなかったので、
私は自身の勤めるレストランの「招待券」の束を、マリーに手渡すことにしました。
マリーは予想以上にとても喜んでくれて、何度もお礼を言いながら、「使用期限はいつまでですか?」と上擦った声で尋ねてくださいました。
「私があのレストランを辞めるまででしょうか」と返事をすれば、それじゃああと20年は余裕で使えますねと、至福を極めた笑みを湛えました。海は、細められていました。

マリーは無邪気な人でした。聡明な人でした。謙虚な人でした。物事を多面的に見ることのできる人でした。
彼女の生き方に絶望しない人でした。今の在り方に活路を見出すことのできる人でした。
彼女の平穏よりも、彼女への変化を願える人でした。その変化をもたらすことのできる勇気を有した人でした。

アルミナさん、貴方の作った曲を欲しいと言ってくださる方がいるんです。音楽を作るって、とても素敵なお仕事なんですよ」

そう告げて、利益の全額が入った封筒をマリーは彼女に手渡しました。
その時の彼女の、驚いたような、困惑したような、けれども確かに喜びを露わにしていた、あの明るい表情を、私は今でも思い出すことができます。
人を変えるとはこういうことなのだと、私は雷に打たれたような心地で、封筒を大事そうに両手で持つ彼女を見ていました。
マリーの手腕は、実に鮮やかでした。

マリーの力により、彼女はその譜面を通じて少なからず「働く」ことができるようになりました。
外に出ることのできない彼女には、仲介者の存在が不可欠で、マリーがあちこちで手を回してくれなければ何もできない状況に変わりはありませんでしたが、
それでも「誰かの献身的な力があれば、彼女は働くことができる」という確信を得たことは、私にとっても大きな希望になりました。

……二つ目ですが、私達の住んでいたアパルトマンの1階は、居住空間ではなくテナントになっていて、そこにフラワーショップが店を構えている、という状況でした。
朝早くからシャッターを開けて屋根を出し、鮮やかな季節の花を並べている女性スタッフとはよく顔を合わせました。視線が交われば、挨拶くらいはしていました。
そんな場所へ、彼女は行くことができるようになったのです。

きっかけは、マリーが何度目かの訪問の際に、そのフラワーショップで購入した白い花を持って来たことでした。
仕事に出ていた私はその現場に居合わせていなかったのですが、帰宅した際、テーブルの上に花が活けられていることに気が付いたのです。
大きめのマグカップから覗く白い花に目を奪われていた私に、トルコキキョウと言うんですって、と彼女が説明してくれました。
新しいものを恐れていた彼女の口から、私も知らないような花の名前が飛び出してきたのです。……私がどれ程驚いたか、もう想像していただけるのではないでしょうか。

それから、マリーがやって来る度に、テーブルの上の花は種類を変えました。彼女はその度に、聞いたこともないような花の名前を口にしていました。
花を「片付ける」ことを知らない彼女は、よくその花を放置させていましたので、嫌な臭いを放ち始める前に、なるべく私が片付けるようにしていました。
けれども後になって分かったことなのですが、どうやら彼女は花を片付けることを「知らない」のではなく、生きた花に触れることができないようでした。
包装紙に包まれた花を抱きかかえることはできても、その中の花弁に指を這わせることはできないのです。
花の鮮やかさやみずみずしさを愛しながら、彼女はそれに触れることを拒んでいました。

……あの頃の彼女は一体、何を恐れていたのか、当時の私には解っていませんでしたが、ええ、実に簡単なことでした。
花は、生き物ですから。生きていることは、とても恐ろしいことだったのですから。

そうしたことが数回起こった後に、また、テーブルの上の花が新しくなっていました。
それだけでなく、その花を活けるためのマグカップが片付けられ、代わりにシンプルな白い陶器製の一輪挿しが置かれていたのです。
今日は、マリーの来訪の日ではなかった筈だ。そう思い首を捻っていると、彼女が答えをくれました。

「今日は一人でお花屋さんに行ってきたの。マグカップにお花を活けていると話したら、お店の方が素敵な花瓶をプレゼントしてくださったわ。
……あ、その青い花はね、アガパンサスというのよ。葉っぱのあまりない花だから、一輪挿しに向いているんですって」

彼女が、自分で稼いだお金で初めて購入したのが、この日の青いアガパンサスでした。そういった具合でしたから、私もアガパンサスだけは、どうにも忘れることができないのです。
他にも彼女には数多くの花を教えてもらった筈なのですが、やはり何かにつけ、私はあの青いアガパンサスを思い出してしまいます。
思い出の花、と言ってしまえば随分と陳腐なものに聞こえるかもしれませんが、ええ、その解釈で間違っていませんよ。

マリーがどのようにして彼女を外へと連れ出したのか、私は知りません。……おそらく私にはできないような、強引なやり方を取ったのでしょう。
花を持ち込み、興味を抱かせ、大丈夫ですからと洗脳するように言い聞かせながら、あの細い腕に似合わぬ力で彼女の手を引いたのでしょう。
彼女は泣いていたでしょうか、恐れていたでしょうか。自らを恐ろしい空の下へと連れ出そうとするマリーのことを、もしかしたら嫌いにさえなりかけていたかもしれませんね。
けれども、連れ出してしまえばどうということはありませんでした。彼女はフラワーショップへ出かけることを日課とするようになりました。
彼女が唯一、一人ですることの叶った「外出」でした。

もっともそれは、厳密には外出ではなかったのかもしれません。
アパルトマンの階段には陽が差さず、フラワーショップにも大きな屋根がありましたから、その暗がりを「外」と呼ぶのは、もしかしたら間違っているのかもしれません。
けれども、彼女の世界は確実に広がりました。窓のない部屋でしか平穏を得られていなかった筈の彼女が、昼間のリビングでもくつろいだ様子を見せるようになってくれました。
フラワーショップの鮮やかな花を見るために、定休日以外は毎日、ドアを開けて階段を下りるようになりました。

……9年前は階段を上ることができていなかった彼女に、上り方や下り方を教えてくれたのも、マリーでした。
どれだけ根気の要る作業であったのか、私には想像することしかできませんが、おそらく並大抵のことではなかったと思います。
『だから私も、私の命を懸けて彼女を生かします。』
あの大袈裟な宣誓を、マリーは貫き通していました。私よりもずっと勇敢に、真摯に、懸命に、彼女の手を引いてくださいました。
その強引さが故に、彼女に嫌われてしまうかもしれない、というリスクは少なからずあったことでしょう。けれどもマリーは恐れず、彼女に「外」を示し続けていました。

その努力が功を奏したのでしょう。
彼女は、階段の前で「できないわ」と泣き出したりしない女性になりました。彼女は、ドアの前で「怖い」と叫びながら屈み込んだりしない女性になりました。
彼女は花の名前を覚えることができるようになりました。彼女は新しいものを見ることを拒まなくなりました。彼女は日の当たるリビングを怖がらなくなりました。

そういった具合で、彼女に仕事を与え、彼女に部屋の外へと出る勇気を与えたマリーは、このまま彼女に、良い影響ばかりを及ぼしてくれるものとばかり思っていました。
けれど、マリーがもたらした変化の3つ目については、……果たして「良い」ものであったのかどうか、私にはよく解りません。


2017.6.29
(27:37)<23>

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