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君の料理、美味しかったよ。来月も食べに行くつもりだから、その時はまたよろしく頼む。
新作が出たら教えてくださいね、必ず食べに行きますから!
結婚記念日には貴方の料理を食べると決めているんです。来年も宜しくお願いしますね。
どうしたらあんなにも美味しい料理が作れるんですか?

大通りを歩いていると、たまに、そうした声を掛けられることがありました。
私の料理は誰かを喜ばせることが叶っているのだと、そうした実感を下さる声というのは、とても有難いものでした。私の大きなやりがいでもありました。
貴方のファンだと言われたことも、一度や二度ではありませんでした。
料理の道に飛び込んで、もう15年以上が経過していましたから、料理人としても前進するべき時だと心得ていましたし、周囲もそのように私に期待していました。
彼等の期待に応えられるだけの技術と経験を夢中で磨き、その結果として今の私がいます。その成果を、その歩みを、称えてくださるのはとても有難いことでした。

……けれども、私の作る料理を「怖い」と称したのは、目の前のこの女性が初めてでした。
怖い、とは、どちらかというと批判の文句である筈です。けれどもそれを笑顔で告げる彼女の、その真意が読めずに私は狼狽えました。

にわかに不安になって、恐ろしくなって、一体私の作る料理の何が、彼女に「怖い」などという感想を抱かせるに至ってしまったのかを、考えようとしました。
けれども動揺した頭ではろくな答えを導き出すことができず、私は途方に暮れたまま、まるで迷子になった子供のような情けない声音で、正解を求めるほかになかったのです。

「私の料理は、恐ろしいですか?」

彼女は困ったように笑いながら、誤解を招く言い方をしてごめんなさいと、貴方の料理はとても美味しかったんですよと、今まで食べたどんなコース料理よりも素敵でしたと、
私にとっては馴染みのあり過ぎる、賞賛の言葉を山ほど並べてくださったあとで、「けれど」と、最後に本音の部分を正直に、語りました。

「あのお皿の上に踊る鮮やかな芸術は、とても美しくて、非の打ち所がなくて、完璧すぎて、なんだか人間が作った料理じゃないみたいなんです。生きていないみたいなんです。
もっと大きな世界の意思によって、あのお皿は彩られているのだと確信してしまうような、いっそぞっとするような威圧感、……それが、貴方の芸術にはあります」

「……」

「貴方の料理はまるで、私達とは違うところを生きているみたい」

恥ずかしいことですが、この時の私には、彼女の発言の本当に意味しているところがよく解っていませんでした。
ただ、私の料理の「ぞっとする程の」幻想性、無機質感といったものを賞賛しておられるのだと、それくらいの解釈にしか至ることができませんでした。
そして私はあろうことか、その言葉を、私が喜ぶための材料にしてしまっていたのです。

「私達とは違うところを生きている」……それは私の芸術ではなく、寧ろ彼女の芸術にこそ充てられるべき言葉でした。彼女のピアノにこそ相応しい言葉でした。
それを、この女性はあろうことか私に使っています。つまり私の料理は、彼女のピアノと同じ高みに上がれているということなのでは?私は彼女の美しさに届いているのでは?
そう解釈して、私は喜びました。愚かなことですが、心から喜んでいました。
まるで私が彼女になったかのような、彼女の凍り付いた時を共に生きていられているかのような、そうした夢のような錯覚に、私の心は確かに踊ったのです。

「ありがとうございます。そのようなことを言われたのは初めてで、少し驚いてしまいました」

「……ふふ、そんな、ぞっとする程に素敵な料理を作る凄腕シェフのズミさんが、このカフェにどんなご用事ですか?」

そして、思ったのです。この女性ならもしかしたら、と。
万に一つの可能性をかけて、駄目で元々、半ば諦めた心持ちでこのカフェを訪れたものの、私はこの女性に確かな期待を寄せかけていました。

この女性なら、彼女のピアノを恐れずにいてくださるかもしれません。
「私達とは違うところを生きている」として、私の料理を賞賛したこの女性なら、彼女の生き方を肯定してくださるかもしれません。
四六時中、ピアノを弾いてばかりの彼女を気味悪がって、一言も彼女と口を利こうとしなかった家政婦の女性達とは違って、この人なら、彼女に話しかけてくださるかもしれません。
彼女も、もしかしたら、この女性のことなら恐れずにいてくれるかもしれません。
そしてこの女性なら、私のこれまでの苦悩を「異常」なものとして糾弾したりせず、ただ静かに、献身的に、寄り添ってくださるのかもしれません。

「貴方に会うために来たのです。ある女性の友人になっていただきたいと思い、此処を訪れました」

大きすぎる期待に飲まれた私は、前置きすることさえ忘れ、いきなり本題を切り出しました。
思っていた以上に大きな声が出てしまったところからして、その時の私にはきっと余裕というものがなかったのでしょう。
その女性の海の目は大きく見開かれていて、驚きと困惑の色がその中を混沌と揺蕩っていました。
奥で掃除をしている男性は、私達の会話などまるで聞こえていないかのように、淡々と、床に落とされた消しゴムの消しカスを箒で掃き集めているのみでした。

「……誰かと知り合いたいのでしたら、その方も此処に連れて来てみてばどうですか?このカフェには沢山の子供達がやってきますから、友達作りには事欠かないと思いますよ」

「いいえ、その……少し特殊な事情のある女性でして、外に出ることができないのです。
それに彼女は26歳ですから、年端もいかない子供よりも、貴方くらいの女性の方が、落ち着いて話をすることができるのではないかと、考えています」

女性は苦笑しつつ首を捻り、今の段階では快諾しかねます、と至極もっともなことを告げました。
この女性にだって仕事があります。おそらくは家庭だってあります。この女性が自由に使える時間というのは、きっと私以上に短いのでしょう。
そんな中で、出会ってすぐの男の頼みを、容易く聞き届けることができないという彼女の事情はとてもよく解りました。無理のないことでした。

けれどもこの人の良さそうな女性は、自らに頭を下げてきた人間を邪険に扱うことができないようで、
その女性のこと、もう少し詳しく教えていただけますか?などと慈悲深く訪ねてくださるものですから、私はその好機を逃さず、随分な早口で、縋るようにまくし立てたのです。

「名前はアルミナ。私の妻で26歳です。9年前に結婚した時から、この近くのアパルトマンで共に暮らしています。
外に出られないと言いましたが、病気がある訳ではないのです。彼女は空をとても怖がっていて、……日が出ている間は、頑として外に出ようとしないものですから」

「あらあら、随分な箱入りさんですね。家では何をしているんですか?」

空を怖がる、という異常な説明にも、彼女は眉一つ動かしませんでした。
あらあら、と困ったように笑いながら、それで?と物語の続きを乞うのです。それからどうなったんですか、ということが、知りたくて堪らないといった風であるのです。
このような反応をされたことがなかったものですから、私は少し、驚きました。
この女性はもしかしたら、空を怖がっている彼女に驚くことができないくらいの、もっと凄まじい「異常」に触れたことがあるのかもしれないと、私はそんな予測を立てていました。

「ピアノを弾いています。それだけです。他には何もしていません。そうした異常な生活を送り続けることで、何とか彼女の生きる意思を繋ぎ止めている、という状況です。
これ以上悪くなることはないと思いますが、これ以上良くすることもできません。私一人では、もう手の打ちようがありません。力が必要です。私ではない誰かの、力が」

その言葉へと先に反応したのは、この女性ではありませんでした。
私と女性のやり取りを静かに聞いていた、いえ聞いている素振りさえ見せていなかった筈の、背の高い男性が、弾かれたように私の方へと振り向いたのです。
重ね過ぎて空になりかけているような空気、それくらいの薄い青の瞳を大きく見開いて、信じられないようなものを見るように私へと視線を向けていました。
そして、話を聞いていた女性に、低く落ち着いたバリトンでその言葉を放ちました。

「わたしからも頼みたい。その人に、会ってみてくれないだろうか」

女性はとても驚いていましたが、私は落ち着いていました。彼のその後押しで、私は彼が「誰」であるのかを確信するに至ったからです。

おそらく、この男性はフラダリラボ、及びフレア団の重役だったのでしょう。
あれから長い時が経ち、フレア団のことは世間から忘れ去られました。けれども忘れられた存在であったとしても、生き続けなければいけなかったのです。
世間の忘却に任せてその人を飲み込んでくれる程、世界は優しいところではないのです。だからこの男性だって今も生きているのです。解っていました。心得ていました。

きっと彼は、過去の「アルミナ」を知る人間です。彼もまた、「アルミナ」は死んでしまったものと思っていたのです。
だから「アルミナ」が生きていることに驚きを示し、彼女を生かそうとしている私に力添えをしたのです。
私に立てることのできた推測は、その程度のものでした。そしてその真偽を、私は積極的に確かめようとは思いませんでした。
何故ならそのようなことをせずとも、この女性は私の頼みを聞き入れてくれるだろうと、私はこの段階で、傲慢にも確信していたからです。

「……」

けれども女性は長く沈黙していました。あまりにも長い沈黙でした。
私はその不自然な沈黙に首を捻っていました。けれども背の高い男性は、僅かに微笑みながらそれを見ていました。彼にはどうやら、この女性の沈黙の理由が解っているようでした。
やがて女性は大きく息を吐いて、そして深い笑顔を私へと向けました。

「解りました。上手く「お友達」をやれるかどうか解りませんが、努力してみます」

そう告げて、女性はその手をこちらへと差し出しました。私はその手を取り、そして少しばかり、驚きました。
彼女の手はその細さに似合わず、あまりにも強い力を持っていたからです。
女性らしくない手の力でした。どこか必死な気配を覚える程の切実な力であるように思われました。「行かないで」と訴えているようでした。縋っているようでした。

「私はマリーといいます。貴方もそう呼んでくださいね」

ええと私は頷きましたが、その言葉に「おや」と背の高い男性が小さく笑いました。

「随分迷った割には、また同じ名前を使うのですね。一体、誰から借りたのです?」

その言葉がなければ、私はその女性が名乗った「マリー」が偽名であることに、気が付かないままだったでしょう。
女性は至極楽しそうに、誇らしそうに微笑みながら「内緒です!」と、その秘密を楽しむように告げました。

そのとき、カフェの奥から赤ん坊のぐずるような声が聞こえてきました。
ごめんね、起こしちゃったね。大丈夫だよ、怖くないよ。そう告げながら駆け寄るこの女性「マリー」は、どうやら既に一児の母であるようでした。


2017.6.28
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