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私がコンビニで購入していた、冷製パスタとメロンパンは、どちらも僅かばかり手を付けた状態で、その殆どが冷蔵庫の中に残されていました。
美味しくなかったのですか、と尋ねると、彼女は困ったように笑って頷きました。

「こんなに甘いパンがあるなんて知らなかったわ。一口食べただけで、なんだか頭がくらくらしてしまったの。
ごめんなさい。残してしまうなんてとても失礼なことだわ、ちゃんと解っていた筈なのだけれど、どうしても食べられなくて……」

18歳の少女は、これからずっと共に暮らしてくださるこの女性は、私の妻は、申し訳なさそうにそう告げて、その大きな目をそっと伏せました。
料理を残すというその所業に、8年前の私なら「この痴れ者が!!」と憤ったでしょう。
けれどもその時の私には、しおらしく謝る彼女を叱責することなどできませんでした。
私は叱られることを待っているかのように身を固くしている彼女の肩にそっと触れて、微笑みました。

「今日は私も、まだ夕食を食べていないのです。……もう夜食と呼ぶ方が相応しい時間になってしまいましたが、今からでもよければ、何か作りますよ。
貴方も、あれだけしか食べていないのであれば、お腹が空いているのでは?」

彼女は驚いたように勢いよく顔を上げて「いいの?」と縋るように零しました。
トマトソースのパスタときのこクリームのパスタ、どちらがよろしいですかと尋ねれば、彼女は少し迷ってから、赤いものが食べたいわ、と楽しそうに告げてくださいました。

それからというもの、私は仕事を終えて帰宅した11時頃から、私と彼女の夕食を作って二人で食べるようになりました。
翌日の朝にも、彼女の分の食事を作ってから仕事に出掛けるようになりました。
料理は楽しく喜ばしいものです。それが彼女のためであるなら、尚更、その作業は心地良いものでした。

そして、更に私の心を浮つかせた事象が、この中には潜んでいました。
私は彼女と共に暮らすことで、彼女が食べているものと全く同じものを、同じ席で、同じ時間帯に、食べることができたのです。
彼女が「美味しい」と言ってくださったものを、彼女にのみ「振る舞われて」いた筈の料理を、私も自身の夕食として食べることができていたのです。

……残念ながら私は語彙に堪能な方ではありませんから、その喜びを的確に言い表す術を持ちません。
けれども私にとって、彼女と同じ席で同じ食事をすることが叶うというのは、他のどんな幸福にも代え難いものでした。
彼女が私のプロポーズを受けてくれた時よりも、彼女の指に婚約指輪を嵌めて、それを見た彼女がとても嬉しそうに微笑んだ時よりも、
「彼女と一緒に、対等な立場で食事をしている」という現象の方が、ずっと、ずっと幸せであるように思われていたのです。

彼女と暮らし始めて1週間が経った頃、私達はより部屋数の多い、広い住まいへと引っ越しました。
引っ越し先として、1階にフラワーショップを構えるそのアパルトマンを選んだのは、3つの理由がありました。
一つ目はキッチンが広かったこと、二つ目はそのアパルトマンが、私の職場であるレストランから程近い場所にあったこと、三つ目は、そこに窓のない部屋が2つあったことです。

一つ目の理由、キッチンについては、私が料理をするにあたり、快適に行えそうな場所を見繕いました。
二つ目に関しては、少しでも早く帰宅するために、今までよりも更に近い場所を探した結果、ゆっくり歩いても5分しかかからないような、最適な場所を見つけることができました。
一人で暮らしていた頃は、どれだけ片付けが遅くなろうとも構いやしなかったのですが、流石に日付が変わるまで、彼女に私の帰宅を待っていただく訳にはいかないと思ったのです。

「私が帰るのを待っていなくてもいいのですよ、先に眠っていてください。夕食なら、私が朝に作り置きしておくことだってできるのですから」

そう告げたことはあるのですが、彼女は困ったように笑いながら首を振るのでした。
「ピアノを弾いていれば時間なんてあっという間に過ぎるから、辛くなんかないわ」と、彼女にとっての捻れた時間の真実を語ってから、「それに」と付け足しました。

「わたしは毎日、貴方に「おかえりなさい」を言いたいの。貴方の帰る場所になるって、きっとそういうことだと思うから」

そう言われてしまえば、私は何も言えなくなってしまうのでした。
私自身、彼女がその言葉を紡いでくださること、その言葉により迎え入れられることを、非常に好ましく思っていたのです。
誰かが私の帰りを待っていてくれる、そしてその「誰か」が他の誰でもない彼女である、ということが、どうしようもない程に嬉しかったのです。
彼女にとってもそうであったのだと、そう噛み締めてしまえばもう、どうしようもありませんでした。
それに私も、彼女に先に眠られてしまうのは、とても寂しいことだとさえ感じていました。
彼女と一緒に同じ料理を食べることができるという至福は、やはり手放し難いものでしたから。

そういった具合でしたから、彼女を早めに寝かせることを諦め、私が一秒でも早く帰宅できるよう、工夫する必要がありました。
新しい住まいは、そうした私の強欲を見事に叶えてくださいました。

三つ目の理由ですが、彼女が窓のない部屋を好んでいたという話はしましたよね。
そのため、2部屋あるうちの、1つを彼女と私の寝室に、もう1つをグランドピアノの場所にしようと考えていました。
私も、特別日差しが好きである、という訳ではなかったので、窓のない部屋で眠ることに、何の抵抗もなかったのです。
グランドピアノについては、彼女が生きていくために必ず必要となるものであると確信していましたから、購入することに何の迷いもありませんでした。

引っ越し業者は、荷造りから搬送まで、全てを手早くやってくださいました。
私は日が完全に沈んだ頃を見計らって彼女を連れ出し、新しいアパルトマンまでの道を歩くだけでよかったのです。
「だけ」としましたが、その当時の私には、ただそれだけが大仕事であるように思われました。
彼女の歩幅はとても小さかったので、随分と長い時間をかけて、新居への道を歩かなければいけなかったのです。

加えて彼女は、外の何もかもを恐れているようなところがありましたから、いつ、何を見て取り乱してしまわれるか、私にも全く予想が付かない状態でした。
大人しく私に手を引かれるまま、新居への道を歩く彼女は、深く俯いていました。
薄暗いアスファルトに責められているかのように、彼女は肩を強張らせて、ぎこちない歩みを続けていました。

いつどこで、彼女の中にある爆弾が、派手な音を立てて弾け飛んでしまうのだろうと、私はそればかり考えていました。
たとえばそれは、戯れに強く吹き付けてきた風の音であるかもしれません。あるいは通りの向こう側から歩いてくる親子の、調子外れの鼻歌であるかもしれません。
もしくはカフェの扉から出てきた老紳士の連れているシシコ、その甲高い鳴き声であるかもしれません。……そのどれでもないし、その全てであるかもしれません。
心臓を、氷に撫でられているような心地でした。ひどく恐ろしかったことを覚えています。

結果として、彼女は全く取り乱すことなく新居へと辿り着きましたが、取り乱したとしても取り乱さなかったとしても、同じことであったのかもしれません。
外を歩く。彼女を連れて歩く。ただそれだけのことに、私も彼女も疲れ切っていたのですから、外が「本当に恐ろしいところであるか否か」は、きっと問題ではなかったのです。
ただ、外というものは彼女の肩を強張らせる場所であり、私もそんな彼女を連れて外を歩くことをいよいよ恐れているという、その主観的な真実だけあれば、事足りたのでしょう。
私達が「世間」から隠れるように生きている理由など、それだけで十分だったのでしょう。

新しいアパルトマンに、家具や洋服、日用品の類まで、何もかもが搬入された頃には、すっかり陽が落ちていました。
彼女も私も疲弊していました。けれども顔を見合わせれば、なんとか笑えたのです。それが全てであるように思われました。他には何も要りませんでした。

引っ越したその翌日、注文していたグランドピアノはやってきました。
大きな音を立てて入ってくる業者の方に、彼女はひどく怯えた様子を見せていましたが、
指定した部屋に防音素材の壁紙が貼られ、中にグランドピアノが運び込まれると、彼女は子供のような歓声を上げ、両手を合わせて微笑んでいました。
黒檀の滑らかな板を指でなぞり、とても懐かしそうな笑顔で目を細めていました。私もそれを見て、思わず目を細めていました。
グランドピアノというのは、楽器であると同時に、それ自体がとても素晴らしい「芸術品」でもあるようでした。

黒く輝くグランドピアノと、白いワンピース姿の彼女。
あまりにも対照的な輝きを呈したその二者は、けれどもすぐ傍に存在することを喜ぶように、類稀なる輝きを放っていました。

実はそのグランドピアノ、彼女に差し上げた婚約指輪よりも高価なものだったのですよ。
私はピアノの相場など全く分からなかったのですが、その値段を誰かにお話しする度に、私は驚かれてしまっていました。
どうやら私はピアノというものの価値も解らないままに、グランドピアノの中でも相当、高価なものを買ってしまったようです。
けれど、高いものを買うことはそれ程おかしなことでしょうか?彼女が使うものなのですから、できるだけいいものを用意してあげたいと思っていただけなのですが。

値段ですか?これくらいです。……おや、貴方は驚かないのですね。ありがとうございます。
私も、高すぎるものを彼女に買い与えてしまったという感覚は全くありませんでした。
寧ろそのような値段で、彼女の時を動かせるのなら、彼女を生かし続けることができるのなら、安すぎるくらいでした。

もっとも、ピアノだけで生きていかれる程、人というものは易しい生き物ではありませんでしたから、その他のことだって整えていたのですよ。
たとえば、彼女のために、白い服や白い家具、白い日用品を購入しました。
白いワンピースや、白いパジャマしか着たことのなかった彼女にとっては、灰色のルームウェアさえ恐ろしいものに見えてしまうということを、私はもう分かっていましたから、
ルームウェアも、ワンピースも、靴下も、スリッパも、彼女が手に取る櫛や歯ブラシの類まで、全て白に統一していました。
穢れを許さないその色に、まるで守られているような心地で、彼女はひどく安心していました。
私も、白が嫌いである、という訳ではありませんでしたし、その色こそ、この美しい女性には似合っているのだと信じていましたので、他の色を勧めることはしませんでした。

必要なものの購入は専ら、仕事終わりに二人で通販の冊子を覗き込んで行いました。
彼女を外に連れ出さずとも、私が書店でそのカタログを購入し、持ち帰れば、私達は二人で買い物をすることができたのです。
このカタログの存在を、私は職場の女性スタッフから聞いて知りました。
どうやら、28歳にもなって「通販」を知らないというのは、随分とおかしなことであったようですね。彼女は狼狽えつつ、呆れたように笑いながら教えてくださいました。

……ああ、そうでした。結婚式の話をしておかなければいけませんね。


2017.6.18
(18:28)

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