21

引っ越して数日が経過した頃、私と彼女のためだけに、あのレストランが貸し切られることになりました。
というのも、私が結婚したことを知った職場の同僚や上司たちが、「結婚式を行わないならせめて俺達に祝わせてくれ」と、私に提案してくださったのです。

私の結婚は、引っ越しの際に有給休暇を申請したことによって、あっという間に職場へと知れ渡ることとなりました。
テレパシーでも持っているかのように、同僚たちは声を揃えて「結婚したのか?」と尋ねてくるものですから、驚いてしまいました。
彼等曰く「お前が自分のために有給休暇を取るとは思えない」とのことでした。何も間違ってはいませんでしたし、誤魔化す理由もなかったので、私は苦笑しつつ、頷いたのです。

彼等は私の花嫁が、私の料理をよく食べに来ていたあの少女であることを、私が一言も口にせずとも察していたようでした。
私は彼等の厚意に甘える形で、とある秋の日に、小さな結婚式を迎えるに至りました。

彼女には、その式に参加してくれる筈の母や父がいません。そのことに配慮する形で、私も両親や兄弟を呼ぶことはしませんでした。
彼女はケーシィの「テレポート」を使って、レストランへと姿を現しました。8年間、ずっとこの店に通い続けてくれていた彼女のことを、従業員の誰もが知っていました。
私と彼女と、レストランの従業員。たったそれだけの、僅か30人程度の式でした。けれども彼等はとても盛大に、私達を祝ってくださいました。

同僚たちは、私が20代のうちに結婚してしまったことに関して、少しばかり複雑な心持ちでいたようでした。
「お前の結婚は俺達よりもずっと後だと思っていた」「立派な独身貴族になるような気がしていたのに」と、面白そうに、けれどどこか悔しそうに告げて笑っていました。
私はお喋りが得意な方ではありませんでしたが、彼等の和やかなジョークに笑いつつ、相応の言葉を返すことくらいはできました。
そうしたぎこちないコミュニケーションを、私よりも世慣れした彼等は笑って許してくれていたのだと思います。

アルミナさんもズミ先輩も、どちらも世間を知らなさすぎるから、少し心配です」

私よりも少しだけ年下の女性スタッフが、困ったように笑いながらそう問うたのが印象的でした。
そうですか、と私は肩を竦めつつ微笑みました。案外どうとでもなるものですよ、と気丈に言い返してみせました。
けれどもその女性は、私達の「結婚」という幸福に水を刺すことが目的だったのではなく、……どうやら本当に、心から私達のことを案じてくださっていたようでした。

「ズミさん、貴方はアルミナさんとお二人で、」

「大丈夫ですよ」

泣きそうに眉を下げたその女性は、おそらくその後に「お二人で、本当に生きていかれるのですか?」とでも続けるつもりだったのでしょう。
けれども私はそれを言わせませんでした。いつも彼女にそうしていたように、大丈夫ですよと笑いかけました。
そうやって私は、その女性の懸念を、そして私自身の不安を、吹き飛ばそうと努めていました。

私達は生きています。生きなければいけないのです。私はそう信じていました。勿論、今だってそう思っています。

そういった具合で、私は私の拙い配慮と、彼等の大きすぎる気遣いによって、なんとか彼女に「まっとうな幸せ」というものを、差し出すことが叶っていたように思います。
……ここから先は、あまり変化のない時間が数年、続きますので、簡潔に説明させていただきますね。

彼女は毎日、飽きる程にピアノを弾いていました。おそらく1日の大半を、彼女はあのグランドピアノと共に過ごしていたことでしょう。
楽譜などなくとも、彼女はあまりにも流暢に、白と黒の鍵盤の上を走らせていました。音の芸術を表現するためのエッセンスは、全て彼女の頭に詰め込まれているようでした。
普段はゆっくりと歩き、ゆっくりと食べ、ゆっくりと話す彼女が、けれどもピアノの前に座った時だけは、物凄いスピードで指を躍らせるのです。
その姿はただ、圧巻の一言に尽きました。気圧される程の美を、彼女はその10本の指で作り上げることが叶っていました。

ですからその音に「時」が気圧されたとして、時が緊張のあまり、動くことをやめてしまったとして、それももしかしたら、もっともなことであったのかもしれません。
ピアノを弾いて育ってきた彼女の時は、止まるべくして止まっていたのかもしれません。

けれども彼女とて、無限に曲を暗記している訳ではありませんでした。それ故に、奏でられる音楽はある程度の数に収まっていました。
新しい曲を弾くことが叶わない。それは退屈なことではないのだろうか。そう思った私は、書店で楽譜の冊子を適当に何冊か購入し、彼女に差し出すことにしました。

「こんなに沢山の楽譜、一度に貰えるなんて夢みたいだわ」

たった3冊の楽譜を抱き締めて、彼女はいよいよ幸福そうに微笑みました。それ以来、彼女はその3冊の楽譜をピアノに立てかけて、新しい曲を奏でるようになりました。
私は楽譜の読み方をまるで知らなかったのですが、彼女にとって、それは文字を読むより容易いことであったらしく、
適当に開いたページの曲を、彼女はまるで以前からずっと練習していたかのような、完璧な旋律で弾きこなしていました。

私が仕事を終えて帰宅するとき、彼女は決まってピアノの部屋にいました。
変わらない部屋の中で、昨日と同じデザインの服を着た彼女が、昨日と全く同じようにピアノを弾いていました。
その曲が、昨日とは違うものになっていることだけが、彼女の時の流れを僅かながらに示していました。
曲が途切れる頃を見計らって、私は盛大な拍手を彼女に贈りました。そこでようやく彼女は私の帰宅に気が付いて、ふわりと頬を綻ばせて「おかえりなさい」と告げてくれました。

新しいものを拒み続けてきた彼女でしたが、楽譜だけは新しいものを好みました。
変化を恐れ、服も日用品も全く同じものしか使おうとしなかった彼女でしたが、曲を変化させることだけは心から喜ぶことができていました。
その楽譜が、その、私には全く読み解くことのできない冊子が、彼女と外界とを結ぶただ一本の糸であるように思われました。

「そろそろ、全て弾き終わる頃だと思って、新しいものを買ってきました。よければ使ってください」

彼女が1冊を全て弾き終える前に、私は新しい楽譜を購入しました。「もう弾き終えてしまったわ」と告げる彼女に、いつでも、次の楽譜を差し出せるようにしていました。
糸を、絶やさないようにしていました。
そうすることでなんとか、彼女が「この世界に生きている」という実感を持つことができたのです。彼女の「時が動いている」ということを、迷いなく確信することができたのです。

……ええ、彼女のピアノは、この段階では何の経済効果も生んでいませんでした。ただ彼女に平穏をもたらすだけ、彼女を生かすためだけのものでした。
そのような生き方が、世間一般に言って「よい」かと問われれば、間違いなく「否」であったでしょう。怠慢にも程がある、生き方であったのでしょう。
けれど私はそのような世間の評価に、彼女を晒すつもりは毛頭ありませんでした。そして事実、彼女も「世間」に出て行こうとはしませんでした。
ですから、構わなかったのです。彼女の世界には、彼女自身とピアノと私しかいません。そして彼女もピアノも私も、彼女がそうあることを許しています。
彼女はあの狭すぎる世界において、完全に歓迎されていました。他に何が重要だったというのでしょう?

勿論、彼女に「まっとうな生き方」をしていただこうと試みたこともあります。料理や掃除や洗濯を教えようとしたこともあります。
彼女は最初こそ「できないわ」と涙を浮かべつつ首を振っていたのですが、説得を続けると、なんとか「取り組んでみよう」という姿勢にはなってくれました。
けれども彼女をキッチンに立たせて数日も経たないうちに、彼女は握った包丁で自らの指を切ってしまうという、体験をしたのです。
……貴方ならもう、彼女が「どうなってしまったか」想像できるのではないでしょうか。

自らの身体から「赤色」が出てくる。そのことに、ただそれだけのことに、彼女はひどく取り乱し、パニックになって泣き叫んでいました。
彼女を泣き止ませ、落ち着いた呼吸を取り戻させるまで、かなりの時間を要したことを覚えています。
止血を済ませた頃には、彼女はすっかり疲れ切っていました。私も、疲れ切っていました。当然のことでした。仕方ありませんでした。

彼女は赤色を嫌っています。自らの身体に、その白い皮膚の下に、赤色が流れていることを嫌っています。その生物学的な事実を認めることをひどく恐れています。
自らの指先から赤色が飛び出してくる。それが彼女にとってどれ程の恐怖であり絶望であったのか、私には想像することしかできません。
彼女の恐怖に共鳴することは、私にはできませんでした。けれども彼女の恐怖を、推し量らなければいけないと思いました。彼女の絶望を、尊重したいと思いました。

私はそれ以来、彼女に包丁を握らせることも、食器を洗うための冷たい水に彼女の手を浸すことも、重いものを持たせることも、
大きな音の出る掃除機を握らせることも、食洗器のスイッチを入れることさえ、何もかも忘れて、
ただ、彼女がこの空間の中で「生きやすいように生きる」ことをすっかり、許してしまうようになりました。

私は、恐ろしかったのです。
私にとっては、彼女が包丁を握れないことよりも、食器を洗えないことよりも、重いものを持てないことよりも、
掃除機を扱えないことよりも、食洗器のスイッチを入れられないことよりも、ずっと、ずっと、彼女が死んでしまうことの方が恐ろしかったのです。
少しでも接し方を間違えれば、彼女は私の手を擦り抜けて、時の止まった世界へ、彼女にとっての平穏に満ちた世界へ、二度とは戻れない場所へ、消えていってしまいそうでした。

彼女を大切に思い過ぎるがあまり、私は自らを、身動きの取れない状況に置いてしまっていたのかもしれませんね。
ですから、貴方がこの家にやって来てくれたこと、心から感謝しているのですよ。貴方は私よりもずっと勇敢でした。変えられるものを変えられる勇気を有した人でした。

……そんな顔をしないでください。本心です。私達は貴方の勇気に、救われたのですよ。


2017.6.18
(18:28)

© 2024 雨袱紗