19

そういった具合で、その日から、私と彼女の同棲が始まりました。
いつもの私は、朝食を摂らないままに家を出て、厨房で昨夜取っておいた残りものを食べてから、仕事に取り掛かる、といった生活をしていました。
故に自宅の狭いキッチンを使ったことなど殆どなく、冷蔵庫にも生鮮食品の一切がありませんでした。
困り果ててしまった私は、目を擦りながら起きてきた彼女に「何か外へ食べに行きましょうか」と告げたのですが、彼女は驚いたように目を見開いて、首を振りました。

「だって、こんなにも眩しいのに」

私は弾かれたようにリビングの窓へと歩み寄り、カーテンを開きました。
途端、彼女が悲鳴を上げて蹲るものですから、私は慌ててそれを閉めて、申し訳ありません、という謝罪と共に、震える彼女の肩を抱いて慰めなければいけませんでした。
その日は確かに晴天で、明るい日の光がリビングにも差し込んでいました。所謂「いい天気」と呼べそうな青空が広がっていました。
けれども、彼女にとって「いい天気」は「恐ろしい天気」であり、「空」は「高すぎる青い天井」であり、「明るい日差し」は「こんなにも眩しい」ものなのです。
そのことを私は失念していました。昨日、覚悟を決めたばかりだというのに、早くも私は忘れていたのです。

万人が笑顔で享受できる筈の天気を、けれど彼女は受け入れることができない。明るい道を歩くことも、空を見上げることも叶わない。
万人が窮屈だと感じるような閉鎖的な場所にこそ、彼女は平穏を見出している。窓のない部屋を好み、カーテンを閉め切った状態のままでいることを望んでいる。
それは異常なことでした。けれども彼女にとっては当然のことでした。これから彼女と生きるのであれば、必ず覚えておかなければいけないことでした。
それなのに、忘れていた。私はそんな自分を責めながら、何度も彼女に謝りました。

結局、その日は私がコンビニへと走り、朝食と昼食を購入してきました。
軽いプラスチック製の容器に入った冷製パスタとメロンパンを、彼女は不思議そうに眺めていました。
冷蔵庫に入れておきますから、と告げて、私は逃げるように家を出て行きました。何処へ行くの、と不安そうな声音で尋ねた彼女の顔を、私は振り返って見ることができませんでした。

「仕事に行くのですよ。貴方の分も私が二人分、稼いでくる、と言ったでしょう?」

「わたしは、何をしていればいいかしら?」

「……今日は、何も。ゆっくり休んでください。私もなるべく早く戻りますから、これからのことは少しずつ、一緒に考えましょう」

大丈夫ですよ、と私はドアに向かって微笑みました。無骨な重いドアは私の声を跳ね返すことさえしませんでした。
バウンドしない、覇気のない音はただ、その冷たい扉をするすると滑り落ちて、私の足元に転がってきました。
見えない筈の「大丈夫ですよ」という言葉を蹴飛ばすように、私は勢いよく扉を開けて、一歩を踏み出しました。

「行ってらっしゃい」

けれど私の動揺を飲み込むような、あまりにも穏やかで優しい声音が私の背中に投げかけられたのです。
私は驚いて、振り返ろうとして、けれどもそれより先に扉が派手な音を立てて閉まりました。
疲れ果てていた私は、その重すぎる扉を再び開いて「行ってきます」と返事をすることさえできなかったのです。
ですから私はそのまま、レストランへと赴き、いつものように仕事をこなしました。
これだって彼女を支えるための行為の一つなのだと、私は彼女を生かすために稼がなければいけないのだと、そう言い聞かせながら、フライパンを持つ手に力を込めました。
料理をしているとき、働いているとき、私は彼女のことを忘れていました。忘れてしまっていました。そのことに少し、ほんの少しだけ安心していたのです。

……ええ、薄情な男だと、思ってくれて構いません。
それまで、一人で気ままに、自分の事だけを考えて生きてきた私には、彼女という愛しい存在と共に生きることは、とても、とても骨の折れる、苦痛な、難しいことだったのです。
それでも彼女と生きたいと思っていたので、それだけは何としてでも譲れなかったので、彼女に生きていてほしかったので、
……そのために、私はその難しいことを、これから何年も、何十年も、続けていく覚悟を決めなければいけなかったのです。

陽の光を恐れるが故に、外へと出て行くことができない彼女のために、家を住みやすく整えたいと思いました。
彼女のための家具や服は、彼女の好みに即したものを彼女に選んでもらうつもりだったのですが、
どうにもそれが難しそうなので、そもそも外に買いに行くこと自体、彼女はできなさそうでしたので、私が仕事帰りにミアレの店で少しずつ、買い足していく必要がありました。
女性に何が必要なのかということが私にはさっぱり分からなかったので、仕事場の女性スタッフに一度、尋ねなければいけないように思われました。

地下ではいつもピアノを弾いて過ごしていた彼女のために、グランドピアノを購入しようと思いました。
そのピアノを置くことができる程度の部屋を用意したいと思いました。そのためにはもう少し広いアパルトマンへと、引っ越す必要があるように思われました。
そうでなくとも、当時の私が借りていたあのアパルトマンは独身世帯向けのものでしたので、ピアノを購入する予定がなくとも、引っ越さなくてはいけなかったのです。
そのために、私はまた彼女を、彼女の恐れた日の下に連れ出さなければなりませんでした。解っていました。覚悟していました。

彼女が掃除や料理や洗濯の一切ができないのであるならば、せめて料理くらいは私が行おうと思いました。
掃除や洗濯にも少しずつ慣れていってくれるかもしれない、と期待しながら、けれどもできなければ家政婦を週に4回くらいの頻度で雇えばいいだけの話だ、とも思いました。

そうしたあらゆることを考えながら、私は家への道を歩きました。
彼女のためにしてあげたいこと、しなければいけないことは山のようにありました。
誰かと生きるということはこんなにも難儀なことなのかと、その惨たらしい真実に悪態づくように、私は夜の冷たいアスファルトを強く踏みつけて歩きました。

帰りにあるものを購入して、その足で食料品店へと赴き、生鮮食品の類を大量に購入しました。
下積み時代には、食材の入った段ボール箱を持ち上げて、食品庫と食材搬入庫の間を何往復もしていましたから、私は「食材の重さ」というものをとてもよく知っていました。
故に、野菜や乾麺、調味料の類を詰め込んだビニール袋が重かったとして、そのことに驚き、落胆し、辟易する必要などまるでなかった筈でした。
食材は重い。それは私にとって当然のことでした。そのような些末な事象に心を乱されることなど、ないと思っていました。

その日、私は左手に、指輪の入った軽いバッグを提げていました。
そして右手に、食料品の詰め込まれた大きなビニール袋を2つ、提げていました。

左手に理想を、右手に現実を提げて、私は家への道を急ぎました。理想はあまりにも軽く、現実はあまりにも重いものでした。
左手に「彼女と共に生きることができる」という至福が、右手に「彼女を生かし続けなければならない」という絶望が、べっとりと貼り付いていました。
左手は温かく、まるで陽だまりのようでした。彼女の笑顔のようでした。右手は冷たく、まるで氷河のようでした。私の笑顔のようでした。


生きることはやさしかったのでしょうか?それともやさしくなどなかったのでしょうか?


……ドアの鍵を差し入れて、重い扉を、その時の私にはとても重く思われていた扉を、実際は全く重くなどない扉を、そっと開きました。
中は真っ暗でした。昨日までならそれも当然のことだったのですが、今日は彼女がいます。彼女がこの中にいた筈なのです。
にもかかわらず、中は静まり返っており、本当に「誰もいない」かのようでしたので、私は慌てて靴を脱ぎ、電気を付けてリビングへと飛び込みました。
けれどもそこに彼女はいました。彼女はソファに身体を沈めて、その細い腕で細い膝を抱き、あまりにも小さく丸まって沈黙していたのです。

「……」

ただ眠かっただけなのだろうか、何処か具合が悪いのだろうか、帰りが遅かったことを責めているのだろうか、ご両親のことが恋しくなったのだろうか。
あらゆる可能性が私の頭の中に、凄まじい勢いで吹き込んできました。予想される最悪の事態に備えようと、私は身を固くして沈黙し、彼女の言葉を待ちました。

「おかえりなさい」

けれども彼女はふわりと笑い、私を迎える言葉を紡ぐものですから、
私は右手に提げた現実と絶望の重さなどすっかり忘れて、そのビニール袋をフローリングへと乱暴に下ろして、
出掛ける際には言うことのできなかった「ただいま」という返事を、今度こそ紡ぐに至ったのです。

「どうして電気を付けなかったのです?先程のような暗がりでは不便だったでしょう?」

「ええ、でもどうすれば明るくなるのかよく解らなかったから、あなたが戻って来るまで待っていようと思ったの」

「……」

「いつもならピアノを弾いていれば、6時間くらいすぐに過ぎてしまうのだけれど、今日は一日がとても長かったわ。もう何日も、ずっと此処であなたを待っているみたいだった」

歌うようにそう告げた彼女はとても美しかった。地上での呼吸の仕方を覚えきれていない人魚のような、とてもぎこちない生き様でしたが、それでも美しかった。
美しい、などというのは個人の主観に過ぎませんから、私にとって彼女が「そう」であったというだけで、他の人にとっては全く「そう」ではなかったのかもしれませんね。
構いません。私は芸術の中に生きてきた人間です。私は自らの感性を信じています。私が美しいと思えた存在のかけがえのなさは、私が一番よく解っています。

明日も、食料品店へ寄ろうと思いました。明日も、ビニール袋に食材を詰め込もうと思いました。明日も、現実という名の絶望を提げて帰ろうと思いました。
明日こそは「行ってきます」と彼女に言おうと思いました。明日こそは彼女の方へと振り返って、笑いかけてから扉を閉めようと思いました。

「大丈夫ですよ、私は必ず帰ってきます。貴方のところへ戻ります」

その明日を約束するためのリングを、理想と至福を詰め込んだその宝石を、私は彼女の薬指に嵌めました。一般的に言うところの「婚約指輪」というものでした。
大きく目を見開いた彼女は、やはりどうしようもなく美しかったのです。

「私の、帰る場所になってくださいますか?」


2017.6.17
(18:28)

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