18

私は努めて気丈な声音を作り、貴方がこちらで生きるための道具を買ってきたのだと、何か足りないものがあれば言ってほしいと、そう告げました。
それから袋の中身を一つずつ取り出し、彼女の、純を極めたあまりにも拙く無知な質問に、微笑みながらゆっくりと、答えました。

服はずっと着ていると汚れるから、着替えなければならないのだということ。洗濯、というものをして、初めて服は着られる状態になるのだということ。
白いワンピースも、赤い服も、紺色のズボンも等しく「衣服」であること。ユリの花が彫られていない「櫛」も存在するのだということ。
洗髪料、洗顔料、歯磨き粉の類は、「使い続けていればなくなる」ということ。その度に私達は購入しなければならないということ。そうやって生きているのだということ。

……そのようなことは全て、5歳の子供でも知っているようなことであるような気がしました。
けれど私の目の前で不安そうに首を傾げるこの女性が、18歳の女性であることも解っていました。
けれど、それが一体何だったというのでしょう?

彼女は生きています。彼女は美しいままです。彼女は私と共に在ることを選んでくれています。私は、そんな彼女を守らなければいけません。
そのためならどんなことだってするつもりでした。この危うく繊細な美の権化の純度が、他の何ものかによって下げられるようなことなど、あってはならないと思っていました。
けれども同時に、彼女を生かし続けなければいけないと思っていました。よしんば彼女の純度が落ちてしまおうとも、生きていてくれさえすればよかった。私は、それだけでよかった。
彼女が生きている。それだけで、私は彼女を「美しい」と思うことができたのですから。

貴方もそうでしょう?貴方だって、あの少女が生きてくれさえすればいいと思っていたのでしょう?そのためならどんなことだってすると、そうした、覚悟だったのでしょう?

……ただ、そうした気概にこそ満ちてはいたものの、私には性別の異なる相手を養うための知識をあまりにも欠いていました。
女性が化粧をする生き物だということ、女性に月経というものが訪れること。
お洒落を楽しんだり、甘いケーキを食べたり、何時間もお喋りをしたり、ポケモンの毛繕いをしたり、そうしたことにこの上ない楽しみを見出す生き物だということ。
些末なことから重要なことまで、何も、何も知らなかったのです。何も分からなかったのです。それ故に私は当時、随分と、途方に暮れてしまっていました。

彼女が一番に懸念を示した「お金」なら、十分にありました。一人で暮らし始めてもう10年以上が経っていましたが、お金に困ったことは一度もありませんでした。
給料もそれなりに頂けていましたし、何より私はお金の使い道を見つけることができないまま年を食っていたものですから、金銭の類は貯まるばかりだったのです。
そのため、彼女の望むものを物理的に差し出すことなど、当時の私にはいくらだってできました。
事実、自室で手持無沙汰になった彼女に、随分と立派なグランドピアノを、さも当然のように購入していたのですから。

けれども私には教養がありませんでした。女性というものがどういった存在であるのかを私は知りませんでした。
頭が悪い、という訳ではないと自負していたのですが、それでも芸術の世界に傾倒しすぎたが故に、目も当てられないような「世間知らず」として育っていたことは確かでした。
その程度はおそらく、彼女よりはまだマシ、というくらいのものであったでしょう。自信をもって彼女の手を引くには、私には何もかもが足りませんでした。

そういった具合で、私自身も地獄の夜を手探りに進んでいたような状態でしたから、そんな私に手を引かれる彼女がこの「世界」を恐れたのも無理のないことだったのでしょう。
彼女は何も悪くなかった。私も当時の私にできる最善を尽くしていたつもりです。けれども結果として、私も彼女も相応に苦しむことになりました。
犯人などいません。誰も悪くなどありません。それでも私達は苦しかった。それはやはり、私達が生きているからではありませんか?
生きている、という罪を犯し続けている限り、私達は決して、楽になどなりようがなかったのではないですか?

それでも、私は彼女に生きてほしかった。彼女と一緒に、年を取りたかった。

……話を戻しましょう。
彼女に袋の中身のことについて根気よく言い聞かせ、肌着やシャンプー、ボディソープの類を持たせて風呂場に送り込んだ頃には、もう夜の2時を回っていました。
私は疲れ切っていました。一つ屋根の下で誰かと共に暮らすということは、こんなにも手間と心労を要するものなのかと、28の頃にしてようやく思い知り、眩暈を覚えていました。
けれどその眩暈すら、この日の私には心地良いものでした。
30分後、入浴を終えた彼女の髪を丁寧にといて差し上げることができる程には、そしてその行為にこの上ない幸福を覚えられる程度には、私は満たされていました。

いよいよ就寝かと思ったときに、またしても困ったことが起こりました。彼女のためのベッドを、用意していなかったのです。
ソファは私が眠るにも彼女が眠るにも些か狭いものでした。私のベッドも当然のようにシングルベッドでしたから、二人で眠ることは困難を極めそうでした。
仮にベッドを彼女に譲ったとして、では私は何処で眠ればいいのでしょう。
枕もシーツも毛布も一人分しかないのですから、冷たいフローリングに倒れるように眠るというのは、あまりにも苦痛の伴うことでした。
少なくとも、明日も仕事である私には、それは辛すぎることであるように思われました。

……そうしたことに頭を悩ませながら首を捻っていたのですが、次の瞬間、私は息を飲みました。
すっかり髪を乾かした彼女が、突然、笑い始めたからです。

この場に似つかわしくない、楽しそうな笑い声でした。今日、両親と生き別れ、住み慣れた場所まで失った人間の喉が鳴らすにしては、あまりにも穏やかで陽気な笑い声でした。
そこには絶望や不安といったネガティブな響きの一切がありませんでした。彼女は本当に、ただ、楽しそうに笑っていたのです。

「あなたがそんな風に慌てるところ、久しぶりに見た気がする」

「……」

「なんだか楽しいわ。あなたの住まいはとても静かで、冷たい風も眩しい灯りもないから、とても息がしやすいの。連れてきてくださって、ありがとう」

間違っていなかったのではないか、と私は少しだけ思い上がりました。
私がこれ程までに頭を悩ませていることは、途方もない心労を重ねてまで彼女を自宅に招こうとしたことは、彼女と生きようとして為した全てのことは、
一つも、ただの一つも無駄になどならないのだと、その全てが彼女を笑わしめるに至っているのだと、
私のみっともない生き様は、すくなくともたった一人を笑顔にすることが叶っているのだと、そうした期待を胸に抱いてしまったのです。

「私は、このような調子ですので、貴方に迷惑と苦労を沢山、かけることになると思います。ですが、」

「あら、こんなに楽しい迷惑なら、ちっとも辛くなんかないわ」

私の言葉に被せるようにして、彼女は「大丈夫」と告げました。気丈な声音でした。可愛らしいソプラノでした。
私は思わず彼女の足元を見ました。雲の上を歩いて生きてきたかのような、あまりにも細い脚を生やした彼女は、けれどもその足をしっかりとフローリングに下ろしていたのです。
生きていかれない、と嘆いていた筈の彼女が、私と同じフローリングにスリッパの底を付けているのです。私と、同じところにいるのです。
そのことを噛み締めるように、私は強く目を閉じました。そうですか、と相槌を打てば、目蓋の向こうで彼女がええ、と頷いて微笑む気配がしました。

その時の彼女は、おそらく本気でそう言ってくださったのでしょう。彼女が嘘を吐いたことは一度もありませんでした。嘘の吐き方さえ知りませんでした。
その「辛くない」が、その一瞬だけの真実でしかなかったとしても、構いませんでした。

一度は「生きていたって辛いだけ」とまで零した彼女から、このような明るい笑顔を、このような前向きな言葉を、引き出すことが叶ったのですから。
私の醜態には、みっともない表情には、少なくとも彼女に「辛くない」と思わしめるだけの意義があったのですから。

一つのベッドで、二人で横になって眠りました。
彼女の身体は一般的な18歳の体躯と比べて、かなり小さく細い部類にあったように思います。
元々、食の細い方でしたし、何より地下での生活では、動きまわることも、それにより骨や筋肉が発達することもなかったのでしょう。
成長期、と呼ばれる時間を何処かに置き忘れてきたかのように、彼女は若く、幼かった。けれどもその小ささが、この日ばかりは幸いしました。
彼女があまりにも小さく細いものですから、シングルベッドに二人で眠っても、その狭さを感じることはなかったのです。
窮屈なまでにぴったりと寄り添ったりせずとも、私達は十分に眠ることができたのです。

先に眠ったのは彼女でした。もう何十年も前のことですが、あの初めての夜のことは今でも、はっきりと覚えています。
死んだように眠っていました。静まり返った深夜であっても尚、彼女の呼吸は耳を澄まさなければ聴こえない程に弱々しいものでした。
小さく細いのは、その身体に限ったことではなかったのです。彼女は呼吸まで小さかった。そのまま止めてしまいそうな頼りなさでした。

これから、この女性と生きていく。彼女の幼い横顔を見ながら、私はその事実を頭の中で何度も何度も、洗脳のように繰り返しました。

彼女は8年前、新米の料理人であった私に、大切なことを教えてくださいました。
料理とはどういうものであるかを、その笑顔をもってして私に伝えてくださったのです。
誰かに料理を振る舞うことの喜びを教えてくださいました。誰かを想って料理を作ることの、かけがえのない喜びを教えてくださいました。
彼女との出会いが、私を此処まで成長させてくださったのだと信じていました。

……ええ、勿論、彼女よりも美しく、理知的で、聡明な女性など、この世には大勢いることを私はよく解っていました。
けれどそれが一体何だというのです?
私が出会ったのは彼女です。私に大切なことを教えてくださったのは彼女です。私にとって彼女は唯一無二の存在であり、彼女を愛する理由など、それだけで十分でした。

彼女は私に沢山のことを教えてくださいました。ですから今度は、私の番です。生きるために必要なことを、彼女に根気よく教える番です。
彼女がしてくださったのと同じことを、私が逆にすればいいだけの話でした。

……ええ、けれど後は貴方もご存知の通りです。
たったそれだけのことさえも、私は満足にこなすことができなかったのですよ。


2017.6.16
(18:28)

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