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私の生活といえば、専ら、あのレストランとポケモンリーグを基盤として回っていました。
家というのは、ただ睡眠を取り、入浴や洗顔の類をして身体を清潔に保つための場所でしかなく、それ故に私のための空間など、洗面所と寝室があれば十分、といった具合でした。
ダイニングで食事をしたことも、狭いキッチンを使ったこともありませんでした。
家事らしいことの殆どを怠ってきた私には、掃除の仕方もアイロンのかけ方も、まるで解っていませんでした。

けれども一人で暮らしている分には、それで、事足りたのです。
掃除などということをせずに、部屋の隅に埃が大きすぎる毛玉を作っていたとしても、アイロンなどというものをかけずに、シャツがしわを作っていたとしても、
そうした不精な暮らしぶりに関して、私が妥協するだけでよかったのですから。私が、この散らかった、生活感の欠片もない空間に満足していればよかったのですから。

申し訳程度にぽつんと佇むソファが、がらんどうのリビングの中で異彩を放っていました。
最後にこのソファへと腰掛けたのはいつのことだったろう。思い出せない程に昔のこととなってしまっていました。
その程度の存在だったのです。私にとっては、その程度の価値しかない場所だったのです。
けれども今日から此処に彼女が住むのですから、なるべく住みやすいように、あらゆることを整えなければいけませんでした。
閉鎖的な地下の、穏やかで満たされた場所で過ごしてきた、この危うく美しい女性を、このような荒んだ部屋に住まわせる訳にはいかないと、私はその時強く思ったのです。

あのアパルトマンは独身世帯を対象に貸し出されていたものであり、故にそこまで多くの部屋の余裕がある訳ではありませんでした。
リビングと私の寝室を除けば、使える部屋は1つしかなかったように思います。
私の寝室よりも一回り狭いそこを、私はほぼ倉庫のように使っており、段ボールや不用品を手あたり次第にそこへと押し込んでいたような状態でした。
窓も付いていないような日当たりの悪い場所を、彼女のための空間としてあてがってもいいものか、と少し悩んだのですが、
けれども地下に暮らしていた彼女にとっては、空というものが見えない方が寧ろ安心できるのだろうと思い、私はこの部屋を、彼女のために整えることに決めたのでした。

「あのソファに座って、少し待っていてください。部屋を片付けてきますので」

彼女は不安そうに眉を下げていましたが、ややあってからその細い脚をゆっくりと、リビングに佇むソファの方へと動かしました。
その華奢な肩がソファに沈んだのを見届けてから、私は彼女のための空間を整えるため、散らかった暗い部屋に向かって腕まくりをしたのでした。

引っ越してきたときのままになっている、段ボールの山を片付けました。不要なものを全てゴミ袋に放り込み、きつく縛って玄関に積み上げました。
空になった段ボール箱を潰す作業や、ゴミ袋に不用品を詰め込む行為は、レストランの下積み時代に嫌という程に経験していたので、慣れたものでした。
段ボール箱の擦れる音が気になったのでしょう、数分も経たないうちに、彼女はドアの隙間から顔を出して、何をしているの、と尋ねるように首を傾げました。

「要らなくなった段ボールを潰しているのですよ。ゴミで溢れ返った場所に貴方を住まわせる訳にはいきませんから」

そう説明すれば、彼女は驚いたように私の手元を見つめました。
先程まで、ピラミッドのように積み上げられていた段ボールの空箱が、薄っぺらい形状のものに「畳まれている」ということに、とても純粋な驚きを示していました。
けれど、この「段ボールを潰す」という未知の行為は、少なくとも彼女を恐れさせるものではなかったようです。
彼女は薄く開けたドアの隙間にするりと身体を押し込めてこちらへとやって来て、大きな目を零れ落ちそうな程に見開きつつ、お手伝いをしてもいい?と、尋ねてくれました。

「……そうですね、では明日からお願いしてもよろしいですか?今日は疲れているでしょうから、私に任せてください」

そう告げれば、彼女はあどけない笑顔のままに頷いて、まるで大仕事をこなすかのような、妙に気取った足取りでソファへと歩を進めたのでした。
住まいを失い、お金を失い、両親と離れ離れになってしまった、そうした壮絶なあの日においても、彼女はやはり、美しかったのです。
その髪の先はほつれていましたし、服だってしわだらけだったので、そうした彼女の姿を一般には「美しい」とは称さないのかもしれません。
ですが確かに美しかった。悲しむ彼女も、泣く彼女も、笑う彼女も、ただ呼吸をしている姿でさえ、得も言われぬ美しさがあったものでした。
そういう意味でも、私は彼女が、生きていてくれるだけでよかったのです。時を止めるように生きている彼女が、私の傍でその時をぎこちなく動かしてくれるだけでよかったのです。

それ程多くを求めたつもりなどなかった私は、けれどもきっと、ずっと強欲だったのでしょうね。

数十分程、片付けに勤しむことで、なんとか部屋を綺麗な状態にすることはできたのですが、此処には女性が暮らすための何もかもが足りませんでした。
女性のことなど何も分かっていなかった私でしたが、それでも私の使っているシャンプー、歯ブラシ、肌着の類を、そのまま彼女に貸し与える訳にはいきませんでした。
それが途轍もなく非常識なことであることくらいは、当時の私にだって理解できていたのですよ。

ソファに身体を沈めて、眠そうに目を擦っている彼女の目線に膝を折り、すぐ戻って来るから、と何度も言い聞かせて、彼女が頷くのを確認してから、外へと出ました。
歯ブラシや洗髪料の類をいつも購入しているスーパーは、もう既に閉まっているような時間帯でしたから、私は駆け足でコンビニへと向かいました。
そこでは旅をするトレーナーのために、タオルや櫛、ヘアワックス、肌着なども取り揃えてありました。
しかし女性の暮らしに何が必要であるのかなど、私には全く想像がつきませんでした。そのため目に入ったものを1種類ずつ、片っ端から買い物カゴに放り込んでいたのです。

カゴ2つ分に山ほど盛られた商品に、店員の男は随分と驚いていました。
……お恥ずかしい話ですが、私には、あの店員が何故驚いているのか、ということにさえ思い至らなかったのです。
此処はコンビニだろう。これは商品だろう。店でものを買って何が悪い。そんな風に、いきがっていたのです。ええ、私にだってそうした、若い頃というのは確かにあったのですよ。

ビニール袋4つが、どれもはち切れそうな程に大きく膨らんでいました。持てばそれは鉛のように重く、仕事を終えた私の肩には少々、堪えました。
ああ、生きるというのは重いことなのだと、私はそうしたおかしなことを考えていたような気がします。
人という難儀な生き物は、あのような膨大なガラクタを日々消費しなければ、
いえどれだけ消費したとしても、……いや、これも違いますね、消費するからこそ、真に美しく生きることなど、できる筈がなかったのでしょう。

その、鉛のように重いビニール袋を両手に提げて、私はアパルトマンの自室へと戻ってきました。
彼女は大量の荷物を持ってきた私にひどく驚いたような表情をしていましたが、すぐに駆け寄ってきてくださいました。
そして、袋からはみ出している灰色のルームウェアを好奇心のままに手に取って、これは何?と尋ねたのです。
私は、驚かない振りをすることができませんでした。

彼女は出会った当初から随分と、人間離れしているようなところがありましたが、それでも彼女は人間です。
彼女とて、髪をとき、顔を洗い、歯を磨き、ものを食べ、服を着て、過ごしていた筈です。人間という業の深い生き物は、そうやっていなければ生きていかれない筈です。
私が購入してきたものは、そうした彼女の、人間である彼女の生活に悉く馴染むものばかりであった筈です。
にもかかわらず、この袋の中身の全てを「要らない」とするかのような、いえ寧ろこの中身が「何」なのか解っていないような、そうした目で、声で、表情であったものですから、
私は、もしかしたら間違っているのは寧ろ私の方だったのではないかと、この美しすぎる女性に、このようなガラクタは不要だったのではないかと、
そうした、ひどく常識外れの馬鹿げたことにまで、思いを巡らせ始めていたのです。

「見たことがないものばかりだわ」

「そんなことはない筈ですよ。貴方も今、白いワンピースを着ているじゃありませんか」

「でも、これは白じゃないわ。それになんだか肌触りも違うみたい」

後で知ったのですが、彼女はシャンプー、洗顔料、櫛、その他日用品の諸々に至るまで、全て物心ついたときから、全く同じ形、同じ色のものを使っていたようです。
肌着や洋服、靴の類も、同じデザインのものをずっと買い与えられていたようでした。

私が、白いワンピース姿の彼女しか見たことがなかったのは、それが彼女のお気に入りのワンピースだったからではなかった。
それしか持っていなかったから、それを着るほかになかったのです。
彼女にとって「服」と言われれば当然のように「白いワンピース」であり、「櫛」と言われれば「茶色の、ユリの花が持ち手のところに彫られたブラシ」を指すのでした。
それ以外の、たとえばピンクのニットワンピースやケロマツの描かれた櫛などは、彼女にとって「服」でも「櫛」でもなく、もっと別の、得体の知れないものだったのです。

……彼女は、あの地下で不自由なく生活できていました。けれどその生活が本当に「自由」であったかと問われれば、間違いなく「否」であったでしょう。
けれど、彼女は自らが不自由であったということさえ理解していないようでした。
着る服を選べないこと、食べるものを選べないこと、与えられたものだけを手に取って毎日を過ごすこと。そうした、変化のない、至上の平穏の中に彼女はいたのです。
「世界」に放り出された彼女にとっては、何の変哲もない灰色のルームウェアでさえも、未知のものであり、恐ろしいものだったのです。

私は焦りました。私の家には、彼女の知っているものが何もなかったのです。
部屋着として使えそうな薄手のカットソーも、女性用の、華やかな模様がボトルに描かれたシャンプーも、色の違う靴下でさえも、彼女にとっては「知らない」ものでした。
此処はフレア団の地下基地ではありません。私は、彼女にとって馴染みのある何物をも用意して差し上げることができません。

私は、これから自分が紡がなければならなくなりそうな言葉の、その膨大な量を思いました。

分厚い氷の塊を背中に押し付けられた瞬間のような、そうした苦悶の表情を隠すように私は深く、俯きました。
大きく息を吸い込んで、顔を上げて、……そうすれば、ほら、私は笑うことができたのです。彼女のために、笑えたのです。

難儀なことだと、実に愚かしいと、他の方は私をそう嗤うかもしれませんね。
構いません。他の誰が、私と彼女の生き様を地獄と嗤おうとも、私はあの日、彼女を引き留めたことを悔いたりしません。
苦しいままでもよかったのです。彼女となら、それも悪くなかった。

おや、どうしました?そんなに驚いた顔をして。
……ああ、もしかして貴方も、同じように言われたことがあるのですか?


2017.5.28
(18:28)

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