「貴方がとても閉鎖的な環境で育ってきたこと、貴方のご両親が危険な組織で働いていたこと、私は随分前から薄々、察しておりました」
サイコロ型のビーンズローフを静かにテーブルの上へと置いてからしばらくして、彼はそう口にしました。
わたしはビーンズローフを突き刺したフォークを持ったまま、それを口に運ぶことも忘れて唖然としてしまいました。
彼はまるで、わたしよりもずっとわたしのことを知ってくださっているような言い方をなさったのです。わたしは信じられないような心地で目を丸くしたのでした。
「貴方が暮らしていた場所は、おそらくセキタイタウンの地下でしょう。フレア団はあの町に眠る兵器を使って、カロスを火の海に変えようとしていたようです。
新しい世界を作り出すという大義名分の下、今のカロスに生きる命の数を劇的に減らす……フレア団が計画していたのは、そうした、おぞましいことでした」
お父様とお母様が、そのようなことに関わっていたという話は、わたしには直ぐには信じ難いものでした。
故に、そんなことある筈がない、と反論しようとしたのですが、心当たりがない訳ではなかったので、わたしはその声を飲み込んでしまいました。
お父様とお母様は、今の世界を良くするために働いておられるのだと、わたしは幼いころからそう聞かされてきました。そしてわたしもそう信じてきました。
だからこそ、フラダリラボという組織がフレア団という名前を名乗り始め、世界を「壊して作り直す」という不穏な信念に切り替わったことに、当時のわたしはとても驚いていました。
けれども、わたしの目には、両親の仕事が急に物騒なものに変わった、というようには見えず、地下にいる大人達にも大きな変化はなかったものですから、
わたしは、その不穏な信念への違和感を気のせいなのだと思い込んで、それからも変わらず、彼とピアノと両親との生活を、静かに、穏やかに過ごしていたのでした。
もしわたしが、もっと早くそのことに気が付けたなら、何かが変わっていたのでしょうか?
……いえ、いずれにせよ、お仕事を貰えていなかったわたしは、彼等が何をしているのか、その具体的なところを何も教えてもらっていなかったのですから、
そんなわたしが駄々を捏ねたところで、何の役にも立たなかったことでしょう。やはりわたしは悉く、無知で愚鈍な人間だったのでした。
「フレア団の目論見が一人の少女の働きにより未然に防がれ、兵器は小規模の爆発を起こすだけに留まった、ということを、私は今朝のニュースで知りました。
貴方が暮らしていた筈の場所が崩れてしまったと聞いてとても驚きましたが、貴方は昨日、予約を入れてくださっていましたよね。
あの予約のおかげで、私は貴方が生きているのだと、無事だったのだと確信することができたのです」
わたしが此処に来たのは、偶然が幸いしたが故のことでは決してありませんでした。
昨日、一人になってしまったわたしには、もう彼しか会うべき人がいなかったのです。
ケーシイはお父様やお母様の居場所を知らないようでした。他の職員さんの姿を見つけることもできませんでした。
彼に、会いに行くしかなかったのです。そうする他に、わたしはあの地下から出る方法を知らなかったのでした。
「私を頼ってくださって、ありがとうございます。一人でよく頑張りましたね」
けれどそんなわたしに、彼はこの上なく優しい言葉をかけてくださいます。まるでわたしが、多くの大人の中から彼を、彼だけを選んだような言い方をなさるのでした。
彼は少しだけ、勘違いをしていました。わたしは真に一人であったのです。会うべき人など、本当に、彼の他には誰もいなかったのです。
「アルミナさん、貴方はとても大切に育てられてきたのでしょう。貴方のご両親は貴方を愛していたからこそ、貴方を外の世界に出すことができなかったのでしょう。
ですから、貴方が何も知らずとも、貴方が外の世界で生きていく術を持っていなくとも、それは貴方のせいではありません。貴方は、何も悪くないのですよ」
わたしは、この8年間ずっと食べ続けてきた料理が5千円では到底食べられないようなものであったことさえも知らなかったのです。
一人で満足に髪をとくことも、服のしわを取ることもできなかったのです。いつも地下で食べさせてもらっている料理が何処からやって来ているのかも分かっていなかったのです。
それでも彼はわたしを悪くないと言うのでした。知らないこと、できないこと、分からないこと、それらは全てわたしのせいではないのだと、心からそう言ってくださるのでした。
それでもやはり生きることというのはわたしにとってはたいへん恐ろしいことで、
本当に何も知らないのよ、この「世界」でどうやって生きていけばいいのか、全く分からないの、と声を震わせてそう告げました。
それでも彼は大きく頷いて、私が全て教えます、と言ってくださるのでした。
わたしは彼に、生きるための全てを教わることができるのでしょうか。
わたしは教わりさえすれば、この「世界」でも生きていかれるような、そうした、出来のいい存在だったのでしょうか。
分かりません。まだ試したことのないことを、端から「できないわ」と拒める程、わたしは臆病な人間ではありませんでした。
けれど自信をもって「わたしに教えて」と乞える程、わたしは勇敢な人間でもなかったのでした。
「貴方の知りたいことを教えましょう。貴方の見たいものを見せましょう。貴方の行きたいところへ共に生きましょう。貴方の必要とする全てになってみせましょう。
……貴方はきっと驚くでしょうね。世界とは、貴方が考えている以上にとても壮大で、美しいものですから」
「あなたが暮らしている「世界」とは、美しいところなの?けれどさっき見た「世界」の天井は、青とオレンジが複雑に混ざって、とても恐ろしかったわ」
彼はわたしの言葉に、その青い目を大きく見開いて沈黙しました。
わたしはあのような禍々しい天井の下を歩くことがどうにも恐ろしくて、早く元の暗い「世界」に戻してほしくて、
……ああ、けれどフレア団は「世界」を壊すことに失敗したと言っているのに、どうして「世界」の天井はあのような恐ろしい色をしているのでしょうか。
そうしたことさえもわたしは分からないのです。何も分かっていなかったのです。
「今」なら、それがどれだけ歪なことであったか、分かります。
「今」のわたしは、客観的に自分のことを見ることができています。客観的に見る、という意味での客観を、世間を、わたしは少しばかり、知っているつもりです。
けれど18歳のわたしには、その歪みを知りようがありませんでした。誰からも教えていただけなかったし、わたしも知ろうとしていませんでした。
故に彼がどうしてそのような、驚いた表情をしているのかということについても、まるで分かっていなかったのでした。
彼は狼狽えながら、それでも口を開く直前にはやはりいつもの優しい笑顔になって、その青をすっと細めて穏やかに言葉を紡いでくださいました。
「あれは「空」というのですよ。空は色を変えるのです。朝は白く、昼は青く、夕方には赤く、夜には黒くなります。雨の日には分厚い灰色の雲がかかるのですが……。
けれど、どの色の空も貴方を傷付けたりしません。あれは恐ろしいものではないのです。空とは、美しいものなのですよ」
わたしにはあの「空」という名前の天井が、美しいものであるとはとても思えなくて、
果てのない天井はただ恐ろしいだけの、何処へ繋がっているのかも分からないような、そうした不気味なものであるように思われてならなくて、
けれども空とは美しいものなのだと、他の誰でもない彼がそう言ったのですから、わたしはそういうものなのだと、あれを「世界」の人は美しいと思うものなのだと思おうとして、
けれどそうした、わたしの本心とは全く別のところに置かれた「世界」の認識に、なんだか眩暈がしそうになるのでした。
それからもわたしは、彼の作ってくれる料理を少しずつ口へと運びながら、わたしの知らない「世界」への懸念を次々と口にしました。
彼はその度に、そんなことで不安になる必要など何もないのだと、貴方の必要とするものを全て揃えるからと、凛とした力強い声で語るのでした。
わたしは一人で髪をとくことができないの、と告げれば、彼は穏やかに笑いながら、
残念ながら私は女性の髪のことには疎いのですが、それでもよければといて差し上げますよ、と言ってくださいました。
お料理だってどのように出来ているのか知らないのよ、と口にしても、彼は寧ろ嬉しそうに微笑んで、
それなら一度、私が料理を作っているところを貴方にも見ていただきましょう、と、まるで楽しいことを待ち侘びる子供のような声音で、歌うように言ってくださいました。
わたしはお父様やお母様のように、お仕事をしてお金を手に入れたことがないの、と言っても、彼は全く困ったような様子を見せず、
貴方が稼げなくとも問題ありません、私が二人分稼げばいいだけの話ですからと、毅然とした調子で言ってくださるのです。
そうして何度も何度も、わたしの「世界」に対する懸念が彼の優しい言葉に飲み込まれていく度に、
本当に大丈夫なのではないかしらと、何も不安に思うことなどなかったのではないかしらと、そう思えるようになってきてしまったのです。
だって彼がわたしの髪をといてくださるのです。彼がわたしに、料理というものの成り立ちを教えてくださるのです。彼がわたしの分までお金を作ってくださるのです。
何も、恐れることなどなかったのではないかと思いました。恐れの全てを彼が飲み込んでくださったのだから、もう、大丈夫なのだと本当にそう思えるようになりました。
わたしは一人では生きていかれず、この時だって彼という存在を欠いてしまえば、いよいよ死んでしまうしかないような、悉く無知で愚鈍な人間であって、
それは彼が「大丈夫」と言ってくださったところで、変わることなど在り得なかった筈なのですが、
彼のそうした言葉を聞いているうちに、彼の存在にわたしが生かされているということは、とても素晴らしく素敵なことであるように思われてしまったのでした。
けれども彼が一番初めに教えてくれた「空とは、美しいものなのですよ」という言葉だけは、やはりどうしても不安なままで、
本当にそうかしらと、あの空という禍々しい色をわたしは美しいものとして見られるようになるのかしらと、
そうした迷いを頭の中に泳がせながら、少しずつジェラートを口へと運んだのでした。
随分と長くお話をしていたので、苺のジェラートは白いお皿の上で、鮮やかなスープへとその形を変えていました。
それは初めてこのレストランで彼の料理を食べた時の、あの光景にとてもよく似ていました。
丸くて可愛らしいジェラートを食べることを躊躇していたわたしは、その時も今日のように半分ほど、それを溶かしてしまったのでした。
鮮やかな美しいスープを飲んでみたいと思って、けれどはしたないことだと分かっていたから、ぐっと堪えたのでした。
……いいえ、それは8年前のあの日に限ったことではありません。今だってわたしはその苺のスープを飲むことができないままだったのです。
わたしという人間は、見た目だけが大きくなったばかりで、あの日からきっと何も変わっていなかったのでしょう。
その日以来、彼はわたしの手からお金を受け取ることをしなくなりました。
お金がなくとも会えるのだと、これからはずっとそうなのだと、そうわたしに言い聞かせるように、五千円札をわたしの手に押し戻して、とても優しく笑ったのでした。
2017.4.10
(18:28)<14>
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