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その時、わたしの持っていたメニューの本が、横から伸びてきた手によってさっと取り上げられました。
顔を上げれば少しだけいつもより顔色の悪い彼が、窺うようにわたしを見ていました。

「……アルミナさん、お久しぶりです」

わたしが「世界」に出て来なくなってから、ひと月余りが経とうとしていました。
それまで、月に2回は必ず彼と会っていたものですから、確かに彼とわたしが会うのは「久しぶり」のことであったのでしょう。
けれどわたしは、彼のそうした挨拶に快く返事をすることができませんでした。ただ愕然とした表情で、彼の青い目を見上げるだけの生き物に成り下がってしまっていたのです。

彼はそんなわたしの手を取って、いつもの個室に案内してくださいました。
そこへ入って、彼が後ろ手でドアを閉めるや否や、わたしはくるりと振り返り、彼に笑いかけました。
彼はそんなわたしの笑顔を、ひどい裏切りでも受けたかのような目で見ていたのでした。

笑顔とは、嬉しいときに零れるものです。楽しいときに溢れるものです。
このような悲しく、苦しく、虚しいときに、それを誤魔化すために使う「笑顔」など、わたしは生まれてこのかた使ったことがありませんでした。
わたしは嘘を吐けない人間でした。自らの心を誤魔化すことを知らない人間でした。だからわたしは今このとき、わっと泣き出して然るべきであった筈なのに、そうしませんでした。
何故ならわたしは彼のことが好きだったからです。大好きだったからです。わたしが微笑む理由など、心を偽る理由など、彼の他にある筈もなかったのでした。

「わたし、今日はあなたの料理を食べられない。だって5千円しか持っていないんだもの。あんなに多くのお金、今のわたしには出せないわ」

アルミナさん、」

「ねえ、どうして嘘を吐いていたの?わたし、とても恥ずかしかったわ。それにとても恐ろしかった。わたしはもう、あなたに会わせてもらえないんじゃないかと思って……」

そんなこと、在り得ませんと、優しい彼は大きく首を振ってくださいましたが、わたしは益々笑う他になかったのでした。
だって「お金がないと、彼に会うことも、彼の料理を食べることもできない」のです。わたしは毎月、お母様が下さるお金で彼に会うことができていたのです。
そして彼に会うために必要なお金は、本当は5千円などではなく、もっと多くであった筈なのです。
わたしがこれまで食べていた料理は、とても「高い」ものであったのだと、わたしはこの日、ようやく気が付いてしまったのでした。

「でもどちらにせよ、もうあなたに会えないわ。だってお金がないの。お金って、この「世界」というところではとても、とても大事なものなんでしょう?
これがないと、わたしはあなたに会うことも、あなたの料理を食べることもできないんでしょう?」

わたしは五千円札をテーブルの上に置きました。強く握り締めすぎたその紙は、いつかのように大きなしわを残していました。
何も言ってくださらない彼に、わたしは続きを言おうと口を開きました。
ちゃんと笑えているかしら、と不安になりましたが、そのおかしな不安によりわたしは益々笑うことができてしまったのでした。

「わたしはもうこれだけしか持っていない。お父様もお母様も、誰もいなくなってしまった。わたしはもう一人きりよ、一人じゃ、生きていかれないの。
もうわたしにはお金がない。お金がないとあなたに会えない。あなたに会えないなら、生きていたって辛いだけ。辛いだけだから、生きなければいいの」

「……」

「わたし、お別れを言うために来たのよ、ズミさん」

わたしは、わたしの「世界」にさようならを言わなければいけなかったのでした。
お金を持たないわたしには、この「世界」で生きていくことさえもできないのですから、仕方のないことでした。
お父様も、お母様もいない今となっては、ピアノと彼がわたしの全てであるように思われました。彼という存在を欠いてしまったわたしは、きっともう長くは生きられないでしょう。
けれど、それでもいいと思いました。
この「世界」で生きること、生きていることは、両親が目指していたような「住みやすく、幸福な」ものではなかったのだと、わたしは気が付き始めていたからです。

彼の隣をそっと通り抜けて、ドアノブに手を掛けようとしました。次に振り返ったら、あと一度でも彼の顔を見てしまえば、わたしは泣き出してしまいそうでした。
そして、本当にそうなってしまいました。ずっと、固まっていた彼が勢いよく振り返り、わたしの腕を強い力で掴んだからです。
やめて、と大きく首を振りながらわたしは泣きました。けれど彼は離してくれませんでした。
彼の、男の人の力のなんと強いことでしょう。わたしは、彼の腕から逃れることがどうにもできず、彼に掴まったまま、嗚咽を零し続けていたのでした。

アルミナさん、このズミを甘く見ないでいただきたい。お金を持っているのは、何も貴方だけではないのですよ」

「でも、わたしは持っていないわ。あなたに会うためには、わたしがお金を出さなければいけないんでしょう?」

「……先程のメニューに書かれた値段を見ましたね?あれが、貴方に出していた本来の料理の値段です。足りない分は私のポケットマネーから出していました。
私はわざと、実際よりも少ない値段を貴方に申し上げていたのです。私が貴方に会いたかったから、今までずっと嘘を吐いていたのです」

あなたが、わたしに会いたがっていた。
信じられないような言葉でした。わたしはひどく驚いてしまって、泣くことさえも忘れて彼を見上げました。
彼の目はいつもと同じように青くて、とても綺麗でした。「世界」の天井を染めるあの青よりも、少しだけ深い色であるように思われました。

わたしは彼のことが好きでした。そして彼も、わたしのことを好きでいてくださっていました。それくらいは、愚鈍なわたしにだって分かっていました。
けれども、そこまでしてくださっていたなんて、全く想定していなかったのです。

わたしがお母様に初めてお金を頂いたのは、もう6年も前のことでした。わたしは月に一度、彼に会えるだけで十分だと思っていました。
そのためにあの一万円札が必要であるのなら、喜んで差し出そうと思っていたのでした。
けれど彼は嘘を吐いて、あの料理と手土産を5千円分だと誤魔化して、そうしてわたしと月に2回、会ってくれるようになったのでした。
わたしは月に一度で十分でした。与えられるものだけで生きてきたわたしは「もっと」を望むことを知りませんでした。
けれど彼はそうではなかったのです。彼は倍の頻度でわたしに会いたいと思ってくださっていたのです。そのために、決して少なくない額を毎回、出してくださっていたのです。

「あなたがお金を使ってわたしに美味しい料理を食べさせてくださっていたことはとても嬉しい。もっとわたしに会いたいと思ってくださっていたことも、嬉しい。
でもわたしは、美しくないの。あなたの大好きな芸術の世界には相応しくない。お金がないと、誰かがいないと、わたしは何もできないの。生きていくことなんて、とても、」

「差し上げます」

彼が何を言っているのかよく分からなくて、もう何もかもが理解できなくて、わたしは忘れかけていた涙をまたしてもぽろぽろと落とすに至ったのでした。
どうして、お父様とお母様はわたしを一緒に連れて行ってくださらなかったのでしょう。どうして、あの地下には誰もいなくなってしまったのでしょう。
どうしてわたしは一人で満足に髪をとくこともできないのでしょう。どうしてわたしにはお金がないのでしょう。
何もかも、解りませんでした。彼の言っていることも、解りませんでした。けれど彼はその短い言葉を丁寧に、噛み砕いて教えてくださったのです。

「お金なら私が持っています。貴方にとっての「誰か」にだってなってみせます。貴方が必要とする全てを私が差し上げます。
だからどうか、生きていかれないなどと惨いことを言わないでください。これが最後だから、などと笑わないでください」

それでも、頭のよくないわたしには、彼の意味するところにまだピンときていなくて、首を捻りつつ、よく分からないわと告げたのでした。
すると彼は真摯な表情をそっと崩して、デザートの小さなケーキを持って来てくださったときのように、ふわりと笑ってくださったのです。
彼の白い頬が、僅かに赤くなっていました。彼の青い目が益々青くなったような気がいたしました。ブロンドの髪は8年前と変わらず、少し癖のある波打ち方をしているのでした。

「一緒に暮らしましょう。そうすればお金などなくとも毎日、会うことができますよ」

彼はわたしに、生きてほしかったのでしょうか。辛くとも、苦しくとも、死なないでほしいと思っていたのでしょうか。だから咄嗟にこのようなことを言ってしまったのでしょうか。
けれど少なくとも、わたしが死んでしまうかもしれない、という心配に関しては、完全に彼の杞憂でした。
それはわたしもこの瞬間には全く想定していなかったことなのですが、残念なことに、15の頃まで血すらまともに見たことのなかったわたしは、
「どうすれば死ぬことができるのか」ということにさえ、18歳になったこの時でさえ思い至っていなかったのですから、
生きていかれない、死んだ方がいいと言ったところで、さあ死のう、などと意気込んだところで、死に方というものを知らなかったわたしは、きっと死ぬこともできなかったのです。

わたしはそれくらい、無知で愚鈍な人間だったのでした。一人では、生きることも死ぬこともできないのでした。

けれどそんなわたしに、彼は一緒に暮らそうと言ってくださいました。
男の人と女の人が共に暮らすことが何を意味するのか、わたしはお父様とお母様の姿を見てよく知っていました。
二人の指にはお揃いのリングが嵌められていて、それが結婚指輪というものであることをわたしは教えてもらっていました。
あのリングが、わたしの指にも入ることになるのかしら。わたしはもしかしたら、この人と。


「私と生きてください」


わたしは泣きながら一回だけ、小さく頷きました。彼は安堵したように、呆れたように、喜ぶように笑って、わたしの頭をそっと撫でてくださいました。
8年前と変わらないその手が温かくて、嬉しくて、わたしは益々泣くのでした。

そうしてわたしが泣き止むのを待ってから、彼はいつもの調子で、いつもの凛々しい笑顔で、今日は何にしましょうか、などと言ってくださるものですから、
わたしは先程の彼の言葉にすっかり安心してしまって、もう生きていてもいいのだと、わたしはこれからも生きていかれるのだと、そう信じ切ってしまって、
そうしたら、にわかに空腹であったことが鮮烈に思い出されてしまったものですから、今日はとびきり沢山食べたいわ、などとはしたないことを言ってしまいました。
それでも彼は嬉しそうに、ええ、とびきり沢山お作りします、と笑ってくださったのでした。


2017.4.9
(18:28)

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