(グリフィンドールに相応しくなかったかもしれない二人の話)
レポートを仕上げた頃には、もう日が暮れてしまっていた。夜8時を過ぎれば食堂は閉まってしまう。いつものことだ。
怠惰な私は、人の何倍もの時間をかけて、人の何分の一程度の出来栄えにしかならないようなものを作ることがとても得意で、上手なのだ。
懸命に何かに取り組むことは恐ろしい。私の神経がすり減っていくような気がするから。
真摯に人と向き合うことは恐ろしい。次の言葉が解らなくなって、上手く息が出来なくなってしまうから。
だから私はこの学校が嫌いだ。頑張っている皆が嫌いだ。相手の顔を真っ直ぐに見て話をする、赤い寮の真摯な生徒達が嫌いだ。
そうした皆からずっと離れたところで沈黙し、気配を消して怠惰に生きることにこそ平穏を見出す、そんな私がいっとう嫌いだ。大嫌いだ。
だから私はレポートをゆっくりと仕上げる。そうすれば食堂に行く必要がなくなるからだ。あの恐ろしい場所へと赴かない理由が出来上がるからだ。
代わりに私は別のところへ足を運ぶ。ホグワーツの教育棟、その1階にあるカフェテリアだ。
夜9時を回ったこの場所に人は少ない。たまにハッフルパフの女生徒達が、紅茶とクッキーを囲んで談笑していることがあるけれど、今日は誰もいなかった。
貸し切りだ。私しかいない。そうしたささやかな事実が私をささやかな幸福で包み、そうして私は益々愚かになる。いつものこと、当然のことだ。
給仕のポケモンしか生き物の気配はなかった。楽しい音楽も煩い騒めきも冷たい視線も、何もなかった。そうした場でようやく私は安心できる。
カウンターに身を乗り出して、大きく息を吸い込んだ。キン、と引きつるような眩暈を無視しようと努めたけれど、少し、難しいようだった。
煩い心臓の理由は解っている。今日一日、使うことのなかった喉を震わせなければならないからだ。そうしなければ目得てのものは手に入らない。私は夕食を得られない。
だから私はみっともなく声を震わせなければならなかった。願いを口にしなければならなかった。
好きなものを注文して、好きなだけ食べるために。今日という日を耐え凌ぐことに成功した私への、ささやかなご褒美を受け取るために。
「ナポリタンとミネストローネ、焼きプリンとチョコクッキー、それから……カプチーノを下さい」
誰もいないこの空間でしか、私は私の食べたいものを食べられない。私が何かを食べているところを知られたくないのだ。歩いているところも、息をしているところでさえも。
私は、私が「此処にいる」ことを知られたくない。みっともない私の存在は隠されるべきだ。今までも、そしてこれからも。
指をさされて「嫌だ、みっともない」と言われたことはない。笑われたこともない。いじめられたことも、揶揄われたこともない。私は何処までも無害で、無存在だ。
それでも私は物心ついた時から、自分というものはひどくみっともない姿をしているのだと信じて疑わなかった。
だから私は隠れるように生きてきた。息を殺して呼吸を続けた。私は、私を構成する全てのものが恐ろしかった。
だって私が一人なのは、私がみっともないからなのでしょう?
「私も同じものが欲しいわ」
そうした思考の海にずぶずぶと体を沈めていた私は、隣に背の高い女性が並んだことにも、彼女が私の注文を聞いていたことにも気が付かなかった。
心臓を握り潰されているような心地がした。殺される、と、大げさではなく本当にそう思ったのだ。
それ程にその声音は堂々としていて、躊躇いの色など微塵も感じさせないものだったのだ。
貴方がナポリタンやミネストローネを頼むのなら、寧ろ私がその注文を止めなければならないのではないか、そうしないと失礼に当たるのではないか。
そんな、馬鹿げた思考を展開させてしまう程度には、今の私は慌てていたし、恐れていた。
弾かれたように隣を見れば、サングラス越しに私を射ていたその視線に、ぶつかった。
大人びたその顔立ちで、先生だ、と直ぐに察した。けれどそれだけだった。それ以上のことは何も解らなかった。
同室の女の子の名前でさえ覚えきれていない私が、この先生の名前、所属、担当科目といった諸々のことを把握できているはずがなかったのだ。
「随分と遅い夕食ね、シェリー。課題でもしていたのかしら?」
けれど「先生」というのは悉く不思議な生き物で、この大きなホグワーツで生活する生徒の、その全ての顔と名前を一致させる力というのに長けすぎているらしい。
私は、彼女の持つ特殊な力に驚きながら、「はい」と返した。たった一言、たった一音、それ以上の言葉など紡ぎようもなかった。
頼んだ料理はあっという間にやって来て、私と彼女のトレイの上に、全く同じ料理が並んだ。
小さくお辞儀をしてその場を足早に去り、席に着いた。彼女もトレイを持ち上げスタスタと歩いて、席に着いた。……よりにもよって、私の向かいの席に。
あの、私に何か話があるんですか?
声に出すことなく視線でそう尋ねてみる。先生というのはやはり不思議な存在であるらしく、私が顔を上げるというただそれだけの動作で、私の尋ねたいことを読み取り、笑う。
「貴方が一人で美味しそうなものを食べようとしているから、一緒に食べてみたくなったの。私も、一人だから」
「……」
「意味のないことだって思う? 大丈夫、今に解るわ。一人より二人で食べた方がずっと美味しいのよ」
私は焦った。この人は今から此処で、私と一緒に食事をしようとしているのだと、認めればいよいよ恐ろしくなった。
困惑の果てに「やめてください」と拒絶の意を示そうとした私を、彼女はひどく間の抜けた欠伸で遮った。
「……ああ、別に構わないわ、貴方は何も喋らなくていい。私が貴方の分まで煩く喋るから。貴方はただ黙々と、その美味しそうなナポリタンを食べていればいいの。どう?」
私は何も喋らなくていい。
その、悉く相手の権利と尊厳の類を奪い取ることに特化したその言葉に、しかし私はこれ以上ないくらいに安心した。
何もしなくていい。この女性は私に何を求めている訳でもない。私がただ此処に座っているだけでこの人は満足する。
私はただ此処で、一人だった時と同じように黙々とナポリタンを食べていればいい。それだけでいい。
そんな強引な、暴力的な優しさを理解してしまったから、私はこの、不思議なことを言う先生がフォークを構えるテーブルに、留まることを選んでしまった。
「今日は本当に散々な日だったのよ」
まるで数年来の友人を前にした少女のように、この先生は物凄い勢いで、とても多くをまくし立てた。
出来の悪い防衛術のレポートのこと、遅刻してきたハッフルパフの男子生徒のこと、仕事を押し付けてランチに出かけた上司のこと、
クィディッチの試合が突然のにわか雨で中止になったこと、最近、少しだけ増えたらしい体重のこと。
「こうやって、食堂が閉まるような時間帯にも美味しいものが食べられる場所があるから、つい沢山頼み過ぎて太ってしまうのよね。
……でも今日は貴方と同じものしか食べていないから、体重が増える時は貴方も一緒よ、シェリー」
堪えきれずにクスクスと笑った私を見て、彼女はふわりと、焼きプリンのように甘い笑みを浮かべた。
「やっと笑った!」だなんて、まるで我が子をあやす母親のようなことを、真っ直ぐな歓喜の表情で口にするものだから、私は顔を赤らめて白い皿に視線を落とす他になかったのだ。
そんな私に、彼女はクスクスと私の笑い声を引き取るように喉を震わせてから、彼女の「秘密」を私に教えてくれた。
「私、今年此処へ新任したばかりなの。グリフィンドールの防衛術教官、パキラよ。まだ下っ端だから、貴方が覚えていないのも無理のないことかもしれないわね」
「え? グリフィンドール……」
「そうよ、貴方と同じ。びっくりしたかしら、こんなに愚痴っぽくてだらしない先生がグリフィンドール、だなんて。」
大きく首を横に振れば、彼女はまるで私のように、肩をすっと落として「よかった」と小さな声音で零した。
貴方のような先生でも不安になることがあるんですねと、しかし私が口に出せるはずもなかったのだけれど。
「その赤いネクタイは貴方を縛るものじゃないわ。貴方は貴方らしくしていればいい。みっともなくてもだらしがなくても、貴方は私の可愛い教え子で、仲間よ」
「……」
「勇気が足りなくなったら……また此処で一緒にナポリタンを食べましょう。今度は愚痴ばかりじゃなくて、もっと楽しい話を用意しておくわ」
久し振りに笑みを作った頬は、きっとみっともなく引きつっていたのだろう。構わなかった。それでもよかった。
みっともない私のところにも、素敵なあの先生のところにも、美味しいナポリタンやプリンは平等に訪れて、私も笑っていいのだと心から思えたからだ。
私が「一人」でないときくらいは、私を知らしめても許される気がした。
私が此処に在ることを優しい笑顔と高慢な言葉で許してくれた彼女の前でなら、私は、私でいてもいいのではないかと思えたのだ。
きっと、彼女のナポリタンも私のナポリタンも、全く同じ味がしたのだろう。だから彼女は満足そうに席を立ち、私も、こうして満足しているのだろう。
それだけのことに幸福を見出せる私が、今だけは、嫌いではない。
2016.11.9
ぽんココさん、ハッピーバースデー。