約束は泡にならない

※曲と短編企画、参考BGM「深海のリトルクライ」
リンク作品「約束の魔法」

こんなにも泣き虫な少年だとは思っていませんでした。

普段はその不機嫌そうな表情を一切変えることをせず、周りの生徒にその鋭い隻眼を向けながら歩いている彼ですが、
その人混みを抜け、一人になったその瞬間、その険しい顔は突如として消え失せ、年相応の悲しげな色をその目に宿すのです。
その目の色を知っている人間は、おそらく数えるほどしかいないでしょう。そしてその中には、彼が「約束」を交わした少女も含まれていました。

そして、彼は時折その約束を思い出すために、とある呪文を唱えるのです。

「エクスペクト・パトローナム」

校舎の長い、とてつもなく長い螺旋階段を上った先にある、窓のない小部屋。彼はそこに居ました。
虐められた時、難しい本を読み解いた時、長い時間を掛けて取り組んでいた実験に成功した時も失敗した時も、……とにかく「何か」の後に、彼は必ず此処にいました。

上級生でもなかなか使いこなすことは難しいはずの「守護霊の呪文」を、彼は難なく唱え、その窓のない暗闇の中に、白く淡い光を放つ守護霊を呼び出します。
高い集中力を要する呪文は数多くありますが、この呪文の難しさはそこにはありませんでした。
この呪文には、必要なものがあったのです。

『どうして? それって、貴方の親切を独り占めできるってことでしょう? 私にとってはとても嬉しいことだよ』

幸福な記憶。……そう、守護霊の呪文を唱える際には、その人にとって最も幸福な記憶を呼び起こすことが必要だったのです。
それ故に、その呪文を唱えることは彼には不可能であるように思われました。
彼にとってホグワーツという場所は、ただ実験や勉強のための空間を提供してくれる場所に他ならず、それ以上でも以下でもなかったからです。

そして前述の通り、彼は虐められていました。グリフィンドールからスリザリンに寮を変えた彼は、そのどちらの寮生の中にも溶け込むことができずにいました。
勿論、レイブンクローやハッフルパフの寮生も同様に、彼のことを嫌煙していました。
それ故に、彼は孤独のそれを遥かに上回る、虐めの屈辱を受け続けてきたのです。そんな彼が「幸福な記憶」など、有しているはずがない。
おそらくは、このホグワーツにいる誰もがそう思うでしょう。
しかし真実はそうではありませんでした。
彼は確かに持っていたのです。彼にとっての「幸福な記憶」を。彼の目を真っ直ぐに見上げて言葉を紡ぐ、あの小さな生徒のことを。

『ねえ、私を覚えていてね』
『何処かでまた会っても、私だって気付いてね。私は24年後までホグワーツには来られないから。だから、それまで覚えていてね』
『元気でね、負けないでね、頑張ってね、……また会おうね!』

現れた守護霊は、とても珍しいポケモンの形をしていました。セレビィです。
守護霊は一般にポケモンの形をして現れるそうですが、それは呪文を唱えた人物にとって、最も「幸福な記憶」に関連するポケモンの形を取るそうです。
更に言えば守護霊のポケモンは、その人物が連れているポケモンと同じ形であってはいけないという制約がありました。
それ故に、「幸福な記憶」とは、「自らひとりで完結しない、他者との関わりの中に見出されたもの」だという解釈が一般的になされています。

では、一人を好み、誰もを好かず、誰からも好かれないこの少年は、一体「誰」との関わりの中に幸福を見出したのでしょうか。

彼は杖をもう一振りし、セレビィが持っている特別な技を指示します。
「時渡り」と呼ばれるそれは、セレビィの近くにいる者をも巻き込み、時を超えてしまうことがあります。
しかしこの白いセレビィは、その形をした守護霊に過ぎません。本当に時渡りができるはずもありません。
けれど、それでも彼の守護霊は、この薄暗い空間の中に淡い夢を見せてくれます。
彼の赤い目に希望の光を宿すため、その幸福な記憶を現実のものとするために、とある一人の時を超えさせるのです。
勿論、それは彼の守護霊が作った幻にすぎません。

「……あれ? 私……」

透き通る白い身体で現れたのは、彼の「幸福な記憶」を司る人物でした。
彼よりも年下の、背の低く髪の長い少女でした。その深い海のような目は、あの時のように真っ直ぐに少年を見上げていました。

「あ!」

「久し振りだな」

彼はとても楽しそうに、それこそ悪戯を思い付いた直後の子供のようににやりと笑いました。
少女は自分の置かれた状況に気付くと、肩を竦めて困ったように微笑みます。

「もう、折角いい本を見つけて読んでいたのに」

「本? ……お前、授業はどうしたんだ」

「先生が出張で、自習になったの。教室で本を読んでいたら目の前にセレビィがやってきて、気が付いたらいつもみたいに此処にいたんだよ。びっくりしちゃった」

その少女は、この「時渡り」は慣れたものだというように、特に狼狽した様子もなく少年と会話を始めました。
彼女がこうして少年に呼び出されるのは、一度や二度ではありませんでした。それこそ、あの日からずっと、この不思議な関係は続いていたのです。

1か月に一度くらいの頻度で、少年は自分の守護霊を呼び出し、彼女をこの時へと渡らせました。
彼女は再びこの時へとやって来たことに最初は驚いた様子を見せましたが、徐々にそれを「当たり前のこと」として納得するようになりました。
勿論、これは少年が生み出した幻想にすぎません。此処に彼女はいません。彼に幸福な記憶を与えた少女は、この時代にはまだ、いません。

「読書は自習の内に入るのか」

「……だって、とても面白い本なの。液体が持つ表面張力をとても解りやすく解説してくれていて、そ、それに先輩からの借り物だから、できるだけ早く読まないと」

この会話も、この少女も、幻想である。そのようなこと、少年にはよく解っていました。
守護霊は、本物のポケモンではありません。セレビィは確かに時を超える力を持っていますが、彼の呼び出す守護霊にそのような力があるはずもありません。
しかしその一方で、彼は僅かな希望を抱いてもいたのです。

例えば、これらの少女の言葉は、少年がその場で考えているものではありません。
少年が作り出した幻なら、その少女が話す内容も、彼が作ったものであるはずでした。
彼女と交わした約束、24年後の再会に備えて、彼女の顔くらいはしっかりと覚えておこう。
そう思った彼は、自分の守護霊がセレビィであると知ったその日に、興味本位で少女を呼び出したのです。
ままごとのように、会話をした振りができればそれだけでよかったのです。そうした「造り物」で彼は満足することができました。そのつもりでした。

しかしそんな彼の思惑を完全に無視して、少女は饒舌に、朗らかに、まるで生きているかのように喋り始めたのです。

彼女は「向こう側の時代」の自分に起きたことを、その目を輝かせて流暢に話しました。
そして彼女は、以前にこのような形で呼び出されたこと、その時の少年との会話を全て、覚えていました。
彼女は少年の守護霊が生み出した幻です。そのはずでした。にもかかわらず、その中に自我と記憶を宿していたのです。
彼女の振る舞いは、言葉は、瞳は、まったくもって「幻らしくなかった」のです。

もしかしたら、未来の彼女は何らかの手段で、本当にこの場所へとやって来ているのではないか。
いつしか少年は、そんな風に思うようになっていました。

彼はこの少女に、明らかに自分とは異なる自我を宿した少女に、普段の彼からは信じられない程饒舌に、自分のことを話しました。
自分が読んだ本のこと、魔法薬学の難しい薬品の生成に成功したこと、飛行術にうんざりしていること、少女と会える日を楽しみにしていたこと。
その言葉は驚く程に正直で、純粋でした。少女もそんな彼に正直で真っ直ぐな言葉で返しました。
彼の「幸福な記憶」は、こうして上書きされ続けていたのです。故に彼の守護霊の力は誰よりも強力でした。彼はきっとこの時間を愛していたのでしょう。

「……あ、いけない! もう30分も経っちゃった! ねえ、そろそろ戻してくれないかな。次の授業は飛行術だから、早めに向かっておきたいの」

「分かった。急に呼び出してすまなかったな」

「ううん、お喋りできて楽しかったよ。またね」

少女は手を振り、その姿はセレビィと共に消えてしまいました。淡い光に包まれていたはずのその小部屋は、再び暗闇に包まれました。

「……」

そして少女の姿を失った彼は、声を殺すようにして静かに泣き始めました。
彼にとって、少女との時間はとても幸福なものでした。
だからこそ、彼女がいなくなった今の孤独に、彼は時折、耐えきれなくなったように涙を零すのです。声を潰して泣き叫んでいるのです。

もしこの時間が本当に「造り物」であったなら、彼は此処まで悲しまずに済んだでしょう。一人になったこの場所をこんなにも虚しいものと思わずに済んだことでしょう。
ままごとであった方が本当はよかったのです。造り物に甘んじていた方がきっと幸いだったのです。
だって、そうであったなら、このような喪失感に苦しむこともなかったのですから。20年以上の長い待ち時間を想って、途方に暮れる必要もなかったのですから。

彼が泣き虫な少年であることは、誰も知りません。彼はきっと少女を愛していたのでしょう。

(禁書『約束の魔法』より抜粋)
2015.2.26
2019.4.30 修正
紅子さん、素敵な曲のご紹介、ありがとうございました。

© 2024 雨袱紗