重すぎる荷物をホームの上に置き、あなたはうだるような暑さの中、目の前に広がる光景をぼんやりと眺めていました。
黄緑色の絵の具よりもずっと鮮やかな植物が、ずらりと規則正しく田んぼの中に並んでいました。
「稲」と思しきそれには既に小さな実が付いており、あれがきっとお米になるのだろうとあなたは推測しました。
鮮やかな黄緑の稲の隙間から、愉快な顔をしたおたまじゃくしのようなポケモンがひょいと姿を現し、4匹、5匹と群れをなして田んぼの奥へと消えていきました。
田んぼの間にある細い道は、アスファルトで舗装されていませんでした。
土の色というものを、あなたは小学校のグラウンドでしか見たことがありませんでしたから、少しばかり驚きました。
小石が剥き出しになったその地面はとても歩き難そうでしたが、けれど同時に、あの上を裸足で歩いたら、きっととても楽しいだろうなあともあなたは思いました。
その道の向こうにある花畑には、大きなモンシロチョウのようなポケモンと、アゲハチョウのようなポケモンが、
ふわふわひらひらと舞うように、夏の日差しを祝福するかのように飛んでいました。
手前に生えている赤い花が揺れたかと思うと、その花を傘に見立てているかのように抱えた、小さなポケモンがひょいと飛び出し、
あなたの方へと手を振るように、持っていた赤い大きな花をくるくると傘のように回してみせました。
こんなに小さなポケモンもいるのだとあなたはとても驚きました。花のポケモンはぐいとあなたの方へとやって来て、クスクスと少女のように笑いながら周りを踊りました。
ポケモンがいます。あなたの目にはポケモンが見えています。
「おーい!」
そんな、ポケモンばかりの世界の中に、あなたは一人の人間の姿を見つけました。麦わら帽子を被り、少し長い髪を2つに束ねた、弾けるような笑顔の印象的な女性でした。
彼女はあなたの方へと手を振り、軽快な足取りで駆け寄ってくると、息を弾ませながらやはりにっこりと笑い、あなたの名前を言い当てました。
「貴方がセラちゃんね!お母さんから話は聞いているわ」
「あ、もしかしてお姉さんが、お母さんの知り合いの……」
「あら!お姉さんだなんて嬉しいなあ。もう「おばちゃん」って言われてもおかしくない年だと思っていたんだけど」
楽しそうに嬉しそうにそう告げて笑うこの女性を、しかしあなたは「おばちゃん」と呼ぶことが少し躊躇われました。
お世辞を抜きにしても、この女性はまだ若いように思われたからです。
少なくとも、あなたが先程まで一緒に電車に乗っていた筈の、あの背の低いお姉さんと同じくらいか、あるいは少し年下であるような気がしました。
この女性は背こそある程度高い「大人」のそれであったものの、その子供っぽい麦わら帽子も、少し日に焼けた肌も、満面の笑顔も、とても若く幼いものだったのです。
「ようこそ、更紗町へ!何もないところだけれど、でも都会に住んでいる貴方にとっては珍しいものもあるかもしれないわ。楽しい思い出をいっぱい作って帰ってね」
「何もないなんて、そんなことありませんよ!この目でポケモンを見られるなんて、夢みたい!」
あなたが思ったままを告げると、彼女は少しだけ驚いたような顔をして、けれどすぐに嬉しそうにその目を細めて笑いました。
少し、色素の薄い目だと思いました。顔立ちは日本人のそれでしたが、目はあなたや先程の女性のような黒ではなく、明るい茶色を呈していました。
吸い込まれるような目だなあと思っていると、彼女はあなたの足元に置かれていた荷物を持ってくれました。
わあ、重い!とその痺れるような重ささえも彼女にとっては楽しいものであったらしく、
よいしょという掛け声と共にそれを持ち上げ歩き出した彼女の横顔には、疲労の色の一切が見当たりませんでした。
あなたがお礼を言うと、彼女は益々嬉しそうに、気にしないでというように首を振りました。結ばれた二つの黒い髪がふわふわと、遊ぶように揺れました。
「長い間電車に揺られて大変だったでしょう?今日は私のカフェでゆっくり休んでね」
「カフェ?」
「そうよ、私はこの町で小さなカフェを経営しているの。私はカフェのマスターなのよ。だから皆は私のことを「マスター」って呼んでくれるの。ふふ、素敵でしょう?」
喫茶店やカフェを経営している女性の呼び方は「マスター」ではなく「ママ」が正しいのではないかとあなたは思いましたが、
彼女がとても嬉しそうだったので、同じように笑いながら「素敵ですね!」告げました。彼女はあなたのその言葉を喜ぶように頷いたあとで、けれど少しばかり、首を捻りました。
「……ねえ、これから1か月も一緒に暮らすんだから、そんな丁寧な言葉じゃきっと貴方が疲れちゃうわ。遠いとはいえ、親戚のおばちゃんなんだし、もっと楽に話していいのよ。
私もあなたのこと、「遠い親戚の子供」じゃなくて「家族」みたいに思って過ごしていきたいわ」
つい数分前に会ったばかりの人物を「家族」とみなすことは、まだ小学6年生であったあなたには少し難しいことでした。
けれどもあなたの母親の遠い親戚であれば、そこまで他人のように仰々しく振る舞う必要はないのかもしれないと、あなたは確かに思いました。
そして、この女性のような、年の離れた「お姉ちゃん」がもし家族にいたら、それはとても楽しいだろうなあとも思いました。
あなたは一人っ子でしたから、兄や姉というものに対して、人並み以上に憧れを抱いていたのかもしれません。
「それじゃあ、あなたのことをお姉ちゃんだと思ってもいい?私、ずっとお姉ちゃんが欲しかったの」
砕けた言葉であなたがそう告げれば、彼女は、お姉ちゃんはぱっとその顔に花を咲かせて、何度も何度も頷きました。
「あら、奇遇ね!私もずっと妹が欲しかったの。これから仲良くしましょうね、セラ」
そう告げて、お姉ちゃんはあなたの手を握りました。真夏のどうしようもない暑さの中で、肌と肌を触れ合わせるその行為は、どちらかと言えば不快なものである筈でした。
けれどもあなたはちっとも気になりませんでした。嬉しかったからです。楽しかったからです。
新しい町、新しい家族、何もかもが初めてのことである筈なのに、どこかひどく懐かしい気配の漂うこの時間を、あなたはもうすっかり愛し始めていたからです。
「お姉ちゃんはポケモンを連れていないの?」
「うん。でも私もあなたくらいの頃はずっとポケモンと一緒だったよ。今はたまにあの子がやって来るのを待つばかりだけど、それでも会えた時はとても嬉しいんだ。
ポケモンが好きって気持ちは、子供のころからずっと変わっていない。これからも変わらないままだったら、いいのになあ」
お姉ちゃんはあなたの手を引きながら、道端に見えるポケモンの名前を次々に言い当ててくれました。
田んぼに住んでいるおたまじゃくしのようなポケモンはオタマロ。モンシロチョウはバタフリーで、アゲハチョウはアゲハント。花を持っているのはフラベベとフラエッテ。
あなたが何を尋ねても、彼女は淀みなく答えてくれました。ポケモンのことで、彼女に解らないことなど何一つないかのようでした。まるで研究所で働いている人のようでした。
何処にでもいるような見た目の女性でしたが、もしかしたらこの人は、日本に数十人しかいない「ポケモンに選ばれた存在」であるのかもしれません。
けれどそんな「選ばれた存在しか見付けることの叶わないポケモン」は、あなたの目にもしっかりと映っています。
限られた人物しか、ポケモンを見つけたり、触れあったりすることは叶わない。
あなたはそう信じて育ってきましたが、どうやらこの田舎町では少し、事情が異なっているようでした。
此処に来れば、あなたでさえもポケモンと一緒に暮らせるようになるのでした。
「セラ、ポケモンが好き?」
握った手の力を少しだけ強くして、お姉ちゃんはそう尋ねました。
あなたは迷うことなく頷きました。「ポケモンが好き」であった幼い頃を懐かしむように、あの頃と同じ気持ちを思い出せたことを喜ぶように、大きく頷いて笑いました。
「それじゃあ今夜、お星さまがあなたに贈り物をくれるかもしれないね」
「星が?変なの!まるで流れ星みたい」
「あら、そうよ。今日は流星群が見られる日なの。願い事を空に届けてくれるポケモンが、あなたの真っ直ぐなお願いを聞いてくれるといいね」
そのような不思議な力を持ったポケモンが、本当にいるのでしょうか。少しだけ疑いそうになりましたが、あなたはすぐに首を振って、信じてみようと頷きました。
だって、ポケモンがいたのです。あなたはその目でポケモンを今も見ているのです。あなたはその指で、ピカチュウの柔らかな毛並みに触れたのです。
今なら、信じられないことなど何もないのではないかと思えました。あなたは夢を見ることを、信じることを思い出していました。
2017.8.1