0-3

少し言葉遣いの荒いところがありましたが、女性は基本的にとても親切で優しい人でした。

電車を乗り換える際には、あなたの荷物である大きな鞄の持ち手の片方を握り、「手伝ってあげる」と告げつつ笑ってくれました。
どの切符をどの駅で差し出せばいいのか、彼女は逐一あなたに教えてくれたので、あなたは特に改札口で悩むこともなく、切符を1枚、また1枚と減らすことができました。
都会から田舎へと電車が向かうにつれて、乗っている人は段々と少なくなっていきました。空いている座席を見つけると、彼女は必ずあなたに窓際を譲ってくれました。
そうしてあなたが窓の外を食い入るように見つめて、何処にポケモンがいるのかしらと懸命に探している様子を、とても楽しそうに、嬉しそうに、眺めているのでした。

昼になると、彼女は電車を乗り換えるついでに、駅の中にあるドーナツショップでドーナツを買ってくれました。
あなたは悩んだ末、柔らかい生地の、周りに粉砂糖がまぶされたカスタードクリーム入りのものを選びました。彼女は迷わず緑色のドーナツを選びました。
抹茶味はまだあんたには早いわね、と、彼女はからかうように告げて笑い、それでも興味を示すあなたのために、一口だけそれを譲ってくれさえしたのでした。

彼女は窓の外を眺めながら、あなたの知らないポケモンの名前をよく呟きました。

「ほら、あそこの花畑にはキマワリがいる。あはは、おかしい!向日葵に擬態したつもりかしら?」
「あーあ、この駅はポイ捨てが多いから、ヤブクロンの溜まり場になっているわ」
「あれ、ヨルノズクじゃない。あいつは夜行性の筈だけれど、どうしてだろう。……まあ、人間だって夜更かしするんだから、別におかしなことじゃないのかも」
「あの家の縁側に吊り下げられている風鈴の隣。綺麗な音が2つ聞こえるでしょう。1つはチリーンの声よ。あの風鈴を仲間だと思っているのかもしれないわ」

けれど残念なことに、あなたは彼女の指差す先にいくら目を凝らしても、
彼女の言う、キマワリやヤブクロンやヨルノズクやチリーンといったポケモンの姿を、どうにも見つけることができませんでした。
そのため彼女が「あ、ほらあそこ!」と、ぱっと笑顔になって窓の外を指差す度に、
あなたは今度こそ、今度こそと思いながら、それでも見つけることができず、あなたはその度にがっかりしていました。
そして、一人ポケモンの姿を楽しんでいる彼女に、大きな憧れと小さな嫉妬を覚えていました。

そうしたことを、あなたは何度も繰り返していました。
小さな絶望が数えきれない程に繰り返されましたが、あなたは「諦める」ことができませんでした。あなたは「忘れる」ことができませんでした。
信じることをやめかけていたあなたは、いつの間にか、ポケモンがそこに「いる」のだと、何の迷いもなく信じることができるようになっていました。

「ポケモンは惨たらしい程に優しい生き物だから、自分を苛めたり蔑ろにしたりしないって確信している相手の前にしか、姿を見せないの。あいつらはきっと、臆病なのね」

「じゃあ、そんなポケモンを見つけられているお姉さんは、とても優しい人なんですね。私もお姉さんみたいになれるかな?」

「え?……あはは、勿論よ!あんたはあたしなんかよりもずっとマシな人になれるわ。ポケモンを見るだけじゃなくて、もっと仲良くなることだって、きっと簡単にできる」

荒っぽい言葉を乗せた女性のアルトボイスは、やはりあなたにはとても優しいものであるように聞こえました。
あなたが再び窓の外に視線を向ければ、緑の深い大きな山の向こう、雨上がりでもないのに、小さな虹が、まるで飛行機雲を描くようにすうっと飛んでいくのが見えました。

昼の1時を回った頃には、6枚あった切符はもう残り1枚になっていました。最後の切符の行き先には「更紗町」と書かれていました。
あなたが存在を忘れかけていた町、存在を信じることを諦めかけていた場所への、切符でした。
2両しかない電車の中に、乗客はあなたと女性、そしてあと一人しかいませんでした。
赤い帽子を目深に被ったその男の子は、あなたと同じように、窓の外をずっと見つめていました。

女性は電車に乗っている間、常に飴を舐めていました。
飴を1つ食べる度に、そのポケモンの包み紙を丁寧に広げて、そのしわを綺麗に伸ばして、大きな鞄の中から小さなノートを取り出して、白紙のページに1枚ずつ、挟んでいくのでした。
それはまるで、押し花を作っているかのようでした。アルバムを飾っているかのようでした。
彼女は本当にポケモンが好きなのだと、あなたは彼女のそうした子供っぽい収集癖の一端を垣間見て、やはり、嬉しくなったのでした。

あなたも電車に乗っている間、彼女から飴をいくつか受け取っていました。
シュワシュワと口の中で弾ける飴はとても美味しく、舌の上で転がすと、思わず笑ってしまいそうになるのでした。
彼女は「これでおしまい」と口惜しそうに告げつつ、あなたの手に最後の飴を握らせてくれました。

「あんた、運がいいわね。あたしが誰かにこんなにも親切にすることなんて、滅多にないのよ」

「そうなんですか?どうして?誰にだってこうしてあげたら、皆きっとお姉さんのことを大好きになるのに」

あなたが思ったことをそのまま口にすると、彼女はひどく驚いた顔をして、そして、その華奢な肩を竦めて得意気に笑ったのでした。
墨のような真っ黒の髪、美しく切り揃えられたワンレンボブが、まるで物語のページを捲るようにふわっと、舞い上がりました。

あなたはその包み紙を開いて飴を摘まみ上げようとしたのですが、
電車が大きく揺れた弾みで、その飴がコロンと零れ落ち、人のいない寂れた列車の中を軽快に転がっていきました。
あ、と思わず声を上げて立ち上がり、飴を追いかけるためにあなたは走りました。スピードを上げて転がり続けていたその飴は、黄色い尻尾にぶつかって、ようやく止まりました。

「……」

あなたはそのポケモンを知っていました。
その存在を夢見る子供なら誰もが知っている、赤いほっぺにギザギザの尻尾がトレードマークの、向日葵色の、夏色の生き物。

「ピカチュウ……?」

間違いありません。ピカチュウです。あなたの目の前にいます。
ポケットモンスター、縮めて「ポケモン」は、確かにあなたと同じ世界にいたのです。

ピカチュウは、転がってきた飴をその手でひょいと取り上げて、ぱくりと食べてしまいました。
シュワシュワと口の中で泡が弾ける感覚は、人間にとってもポケモンにとっても等しく楽しいものであったらしく、ピカチュウは嬉しそうに目を細めて高い声で鳴きました。
それはまるで、歓喜に微笑んでいるかのようでした。「美味しい!」と言っているかのようでした。
あなたが思わず手を伸ばせば、犬や猫を撫でているのとはまるで違う、不思議な肌触りのする向日葵色の毛並みが、あなたの指先を確かに、くすぐりました。

「お姉さん!」

あなたは思わず叫び、勢いよく立ち上がって振り向きました。
そこには、あなたを更紗町まで案内してくれた、少し言葉の荒っぽい、親切で優しいお姉さんが、「ほらね、いたでしょう?」という風に、ニコニコと笑ってくれている筈でした。

けれどもそこに、彼女の姿はありませんでした。
彼女が座っていた席には、「更紗町」と書かれた彼女の分の切符が、ぽつんと置かれているばかりでした。

あなたはその切符を取り上げて、ピカチュウがいた場所にもう一度視線を向けました。
ピカチュウは小さな足でぴょこぴょこと跳ねるように走り、赤い帽子を被った少年の肩に飛び乗って、その小さな頬を少年の頬にすり寄せました。
少年の口元が僅かに緩み、首を少しだけ傾けてピカチュウの頬にくいと顎をぶつけるようにしました。
ささやかなじゃれ合いをする一人と一匹は、姿も大きさも全く違いましたが、けれどその実、とてもよく似ていました。まるで双子のようでした。
あの一人と一匹は在るべくして共に在るのだと、あの少年の傍に在るのはあのピカチュウを置いて他にないのだろうと、あなたは何故だかそんな風に思えてしまいました。

『まもなく更紗町、更紗町です。』

電車のアナウンスが、あなたの降りるべき駅の名前を告げました。
あなたは慌てて自らの席に戻り、重すぎる鞄の持ち手をぎゅっと握り、ゆっくりと持ち上げました。相変わらず、痺れるような重さでした。

『手伝ってあげる。』
その重さの半分を引き取ってくれていた筈の「彼女」はもういません。あなたはあなたの荷物を、あなただけの手で持たなければいけません。
電車が止まります。ドアが開きます。赤い帽子を被った少年とピカチュウは、足早に電車を降りていきました。あなたも少し遅れてその後に続きました。

その駅には、改札口がありませんでした。無人駅、というものを、あなたは初めて目にして少しばかり驚きました。
電車から出てきた車掌さんに、あなたは切符を渡しました。
あの女性の分であった筈の切符を渡そうかどうか悩みましたが、あなたはそれを渡さずに、こっそりとポケットの中へ仕舞いました。
電車が走り去り、超音波のように響き渡る煩いセミの声に眩暈を覚えそうになっていたあなたは、けれども頭を強く振って気持ちを落ち着かせようと努めました。
空っぽの線路には、両親と別れたあの時と同じような蜃気楼が、ゆらゆらとあなたの心地を示すように揺れていました。

あなたは更紗町に、辿り着きました。

2017.7.31

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