0-5

お姉ちゃんの自宅だという小さなカフェの中に入ると、エアコンの涼しい風があなたの肌を急速に冷やしていきました。
彼女はカフェのカウンターへと足を運び、その裏にある冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、2つのグラスに並々と注ぎました。
どうぞ、と差し出してくれたそれを、あなたは一気に飲んでしまいました。
お姉ちゃんはクスクスと笑いながら、そうよね、暑かったものね、と同意しつつ、あなたの真似をしようと勢いよくグラスを傾けましたが、
半分ほど飲んだところで、冷たいジュースに頭がキンキンと痛んでしまったのでしょう、顔をしかめてグラスをカウンターの上へ置き、眉を下げて困ったように笑いました。

「私はこのカフェで一人暮らしをしているの。もう……7年くらいになるかしら」

「ずっと一人で?寂しくなかったの?」

「ええ、ちっとも!毎日誰かがお客さんとしてこのカフェに来てくれるし、外に出れば見知った顔ばかりだし、ポケモン達とも遊べるし、おかげで毎日がとても楽しいわ」

お姉ちゃんはそう告げつつ、残り半分のオレンジジュースを飲み干して、グラスを片付けてからあなたを奥の部屋へと案内してくれました。
居住空間と思しき小さなリビングと、その奥にはお手洗いと洗面所とお風呂場がありました。
段差の急な階段を上がって2階に向かえば、そこにもお手洗いがあり、その奥には扉が3つありました。

「この部屋は私が寝室として使っているんだけど……」

と、尻すぼみな調子でそう説明しつつ、彼女は扉を少しだけ開けて、その内部をあなたに見せてくれました。
……ひどい散らかりようでした。ベッドの横には本が山積みになっており、床の隅には脱いだ服がそのままの状態で、畳まれることもなく小山を作っていました。
書き損じたらしい手紙のようなものが、何枚も重なってフローリングの色を隠していました。

セラはこんな風に散らかしちゃ駄目よ、これは悪い例ですからね」

まるで小学校の先生のような口調でそう告げて、お姉ちゃんは顔を少しだけ赤くしました。
そうした彼女の「完璧でない」ところが、どうにもあなたを安心させました。この女性は本当に、何も気取らずあるがままに生きているのだと、そんな風に思えたのでした。

2つ目の扉を開けると、そこには大小様々な大きさの段ボールがうず高く積まれていました。
あなたはそのうちの一つにそっと触れてみたのですが、指先で突いただけでそれは簡単にコトン、と動きました。
どうやら、ここにある段ボールの大半は既に空であるようです。

「段ボールを潰すのが面倒だから、そのままにしてあるの」

そう告げる彼女がまたしても垣間見せた怠惰な部分に、あなたはクスクスと笑いました。
……けれども、中身の入っているものも幾つかあり、その中を覗き込めば、お洒落な模様で彩られたティーセットやお皿の類が、未使用の状態で誰かに使われる時を待っていました。
おそらくカフェでお客さんに提供する料理や飲み物を入れるためのものなのでしょう。

「あなたがこの夏、とびきりいい子にしていたら、夏休みの終わりに気に入ったものを一つだけあげてもいいよ」

そんな素敵な提案をしてくれましたが、あなたは笑って首を振りました。
お洒落なティーセットには、きっと上質な豆で惹いたコーヒーや、上質な茶葉で抽出した紅茶を静かに飲むものなのでしょう。
あなたはまだ、コーヒーや紅茶の美味しさを知ることができていませんでした。
大好きなオレンジジュースをこんなにも綺麗なカップに注いで飲むのは、やはり何かが間違っているように思われたのでした。

廊下の一番奥の扉を開けると、既にそこにはエアコンを効かせてくれていたらしく、涼しい風があなたの頬をそっと撫でました。
花の模様がうっすらとプリントされた、クリーム色のカーテンと、涼しげな空色のシーツに彩られたベッド。そして少し無骨な勉強机。小さなタンスに、三段ボックスが1つ。
決して狭くはなさそうな空間でしたが、格別に広い、という訳でもなく、あなたの自宅の部屋と同じくらいの広さであるように思われました。
勉強机の上には、キャンディを模した可愛らしい腕時計がちょこんと置かれていて、あまりにも静かに、その盤の上で時を回していました。

ドサリと、お姉ちゃんはあなたの荷物である大きな鞄を床の上に下ろしました。

「……この部屋だけ、綺麗に片付いているけれど、どうして?」

「そりゃあそうよ、貴方のためにお掃除したんだもの!セラに快適に過ごしてもらおうと思って、私、随分と頑張ったのよ」

その言葉にあなたはとても嬉しくなって、お姉ちゃんをぐいと見上げて、その両腕に縋り付くように抱き締めて、ありがとう、と大きな声で告げました。
彼女は笑いながら、あなたを抱き締め返してくれました。
この町に来る前、あなたを抱き締めてくれた母親のことを、あなたを抱き上げてくれた父親のことを、あなたは自然と思い出して、
ああ、出会ったばかりなのにまるで本当の家族みたいだと、随分と傲慢なことを考えたりもしたのでした。

「片付けは一人でできるかしら?」

「うん、大丈夫」

「いい返事!それじゃあ頑張って」

そう告げてあなたの頭を撫でて、もう何度目か解らない満面の笑みを浮かべた彼女は、そのまま部屋を出て行こうとしていたのですが、
扉を閉める直前にあっという声を出して、再びぐいと顔を出してあなたに話しかけました。

セラ、昼食は食べたの?お母さん、あなたにお弁当か何か持たせてくれた?」

「ううん、お弁当は貰わなかったけれど、途中の駅で美味しいドーナツを食べたから、平気」

「そっか、それならよかった。ちなみに夕食は冷やし中華よ。これ、夏の人気メニューなの」

喉ごしのさっぱりした麺類を思うだけで、あなたはにわかにお腹が空いてきてしまったのですが、
「カフェ」と「冷やし中華」という、何処までも相容れない筈の単語が、隣同士に並べられていることがどうにもおかしく思われて、苦笑しつつ尋ねてみました。

「……カフェなのに、冷やし中華?」

「そうよ、私のカフェには冷やし中華もお蕎麦もあるの。素敵でしょう?」

最高に素敵だ、という同意の意味を込めてあなたは、彼女の満面の笑みを真似するようにして頷きました。
彼女はクスクスと笑いながら、後ろ手をひらひらと振りつつ廊下を歩いていきました。

一人になった部屋の中で、窓へと駆け寄りました。
窓のカギを外し、勢いよく開け放てば、生い茂る植物の香りと、土の匂いが混ぜこぜになってあなたの鼻先をくすぐりました。
風がさわさわと黄緑色の田んぼを揺らしていました。暴力的なまで育った入道雲の向こうに、あなたはまた小さな虹を見たような気がしました。
あなたは暫く迷った後で、エアコンの電源を切りました。この暑さで空調を切ることは、都会では考えられないことでしたが、何故だかそうしてみたくなったのでした。
窓から入ってくる風が、あまりにも「美味しい」ように思われたからだったのでした。

蝉の声、風の音、子供達のはしゃぐ声。それらに混じって、聞き慣れない声のような音のようなものがあなたの鼓膜を時折、くすぐりました。
きっとポケモンの声だ。どんな姿をしているのだろう。大きさはどれくらいかしら。可愛い子かしら。私が近寄っても、近所の野良猫みたいに逃げていったりしないかしら。
そんなことを思いながら、あなたは窓から入ってくる全ての音に反応しては、目を閉じて、まだ見ぬ不思議なポケモン達に思いを馳せていました。

片付けをしなきゃ、とあなたは自身に言い聞かせつつ、大きな鞄の口をそっと開けました。
あなたはお気に入りのお洋服を一着ずつ丁寧に引っ張り出して、綺麗に畳み直してから、タンスの中へと仕舞いました。
汗をかいてきたので、タオル生地の厚いハンカチを鼻に押し当てました。するとその布地から、あなたの自宅のマンションの香りがしました。
つい半日前まであそこにいたにもかかわらず、何故だか随分と昔のことのように思えてしまいました。

そうしてゆっくりと、本当にゆっくりとあなたは鞄の中身を一つ一つ取り出していったものですから、
全ての荷物を部屋の在るべき場所に仕舞い終えた頃には、もう夕方の5時を回っているという有様でした。

あなたは慌てて窓を閉めました。
外の空気が名残惜しいように思われたのですが、蚊が入って来てしまってはたいへんです。
あなたは軽率に自室の窓を開けっぱなしにしたが故に、その日の夜、蚊の音で眠れなくなるという経験をこれまでにも何度か、していました。
アスファルトとビルに囲まれた都会でさえそうなのです。田舎にはきっと蚊の数も多いのだろうと思い、あなたは窓にカギがかかっていることを確認しました。
あんなにも小さな蚊が、窓をこじ開けて入って来るなどということは在り得ないのだと、
そうしたことが分からないほど、あなたは幼くはなかった筈ですが、どうしても「入ってくるな」という気持ちを窓に込めたかったのです。

エアコンの電源を再び入れて、涼しくなってきた部屋の中であなたはベッドに飛び込みました。
自宅のベッドよりも薄くて硬いものでしたが、お日様の匂いがしました。ああ、きっとお姉ちゃんが干してくれたのだと、そう思ってあなたは笑いました。
お姉ちゃんの寝室だというあの散らかった部屋の布団が、最後に干されたのは果たしていつの頃だったのでしょう。
そんなことを思いながら、あなたはうとうとしていました。

「おーい!ご飯だよー!」

階下からお姉ちゃんのそうした声が聞こえるまで、あなたはずっとそうしていたのでした。

2017.8.1

© 2024 雨袱紗