商店街へと戻り、カフェの屋根に飛び込んだのと、雨粒が大きくなるのとがほぼ同時でした。
ザーッと、アスファルトを叩くように降り出した雨の音はとても大きなもので、あなたがクリスに何か言おうとしても、その雨音に掻き消されてしまうという有様でした。
「ちょっと濡れちゃったね。セラちゃん、大丈夫?」
あなたの方を見ることなく口を開いたクリスは、そう言っているように思われました。
けれども雨のせいではっきりと聞こえた訳ではなかったので、それはあなたの都合のいい聞き間違いであったのかもしれません。
彼女の空色の髪は、雨を吸って重たく垂れ下がっていました。まるで空が泣くのを堪えているかのようだと思いました。
この空が泣けないから、代わりに本物が泣いたのかもしれない。あなたはそんな風に思いました。
「私は、ポケモンが好きだよ!」
そんな彼女がぱっと笑顔になって、先程のあなたが為そうとした問い掛けの答えをくれました。
雨音に掻き消されないように、大きな声で紡がれたそれを、もうあなたは「聞き間違い」とすることなどできませんでした。
「だから私、ポケモンのことを研究する人になるの!ポケモンを本当に好きな人だけが就ける仕事よ!どう?素敵でしょう!」
髪に付いた雨粒を、クリスは頭を揺らすことでふるい落としました。
そうしてあなたの肩をやや強めに抱いて、さあ、入ろうかとあなたを促すのでした。
あなたが促されるままにカフェの中へと入れば、強く効きすぎている冷房があなたの肌を心地良い温度でさっと撫でていきました。
「おかえり!もう少し遊んでくるかと思っていたんだけど、意外に早かったじゃない」
カウンターの椅子に座り、何かを書いていたお姉ちゃんが、あなたの方へヒラヒラと手を振りながらそう告げました。
あなたの後ろでクリスが「雨が降ってきたからね」と告げると、お姉ちゃんはとても驚いたような顔をして、
「え、そんな!まだ洗濯物を取り込んでいないのに!」と叫びつつ、居住スペースへと続く廊下をバタバタと掛けていきました。
クリスはそんなお姉ちゃんの姿を見送りつつ、「あらあら」と困ったように笑っていました。
その静かな笑い声に混じって、クスクスと、とても上品な声がカフェの奥のテーブルから聞こえてきたので、あなたは思わずそちらに視線を向けてしまいました。
一人の女性、一人の少年、一人の少女。その全員が美しいブロンドの髪を持っていました。
その髪を最も長く伸ばした女性が、あなたへと視線を向けてニコリと微笑みました。
あなたは自分の心臓が煩く跳ねているのを、他人事のように感じつつ、ぺこりとお辞儀をして、そちらへと歩み寄りました。
「初めまして。マスターから聞いているわ。8月の間、この町にいるんでしょう?」
「はい、セラといいます」
「わたくしはルザミーネ。離島に住まいを持っていて、この子達と一緒に暮らしているの」
長い指で、ルザミーネは二人の子供を示しました。
大きな白い帽子を膝に乗せた少女は、大きな緑の瞳をいっぱいに見開いて、鈴を転がすような美しい声音で「あの」と言葉を紡ぎました。
「わたし、リーリエと申します。小学5年生です」
「オレはグラジオ。中学2年生だ」
とても丁寧な自己紹介をしたリーリエと、ややぶっきらぼうな名乗り方をしたグラジオですが、そのどちらも、美しいブロンドと、眩しい緑の瞳を持っていました。
三人のお揃いの瞳は、エメラルドという宝石にどこか似ている気がしました。
あまりにも美しくて、あまりにも完成されすぎていて、見ているこちらが畏縮してしまいそうな程なのでした。
あなたはテーブルの上に置かれた料理へと視線を向けました。
上品な装飾の施された白いお皿に、名前さえ解らないようなお洒落な料理が盛られていました。
お姉ちゃんはこのような料理を作ることもできるのだ、と、あなたは改めて彼女の料理の腕前に感心しました。
それと同時に、今日の昼にあなたとクリスが向かいの民宿でご馳走になったあのお蕎麦は、この三人にはどう足掻いても似合わないのだろうなあとも思いました。
「あれ……?」
三人の醸す上品な雰囲気に飲まれかけていたあなたは、けれどもふと、この場に違和感を覚えてしまいました。
リーリエの膝の上に置かれているのは、帽子です。グラジオの膝の上には何もありません。ルザミーネの膝の上には、小さなバッグが置かれているのみでした。
このテーブルには「ポケモン」がいませんでした。
「……皆さん、ポケモンは連れていないんですか?」
「ええ、わたくし達は持っていないの。この町では少し、珍しいことかもしれないわね」
この更紗町において、ポケモンを「連れていない」人物を見るのは、彼等が初めて、という訳では決してありませんでした。
ヒビキやトキは、ポケモンを「持っていない」と口にしていましたし、お姉ちゃんもポケモンを連れていません。
クリスはポケモンと「別行動」をすることに何の躊躇いも見せませんでした。ザオボーのポケモンも、あなたは確認することができていませんでした。
そういう訳で、「ポケモンを持っていない」ことに関して、あなたが殊更に不審がり、驚く必要など、まるでなかったのです。
にもかかわらずあなたは、彼等にだけ違和感を抱いてしまいました。その理由に、しかしあなたは思い至ることができませんでした。
クリスなら何か、分かるかもしれない。クリスなら、あなたにその答えを教えてくれるかもしれない。
あなたはそう思い、くるりと後ろを振り向きました。
そこには今日ずっと一緒にいてくれた彼女が、ニコニコと微笑みながら「なあに?」と問うように、あなたの疑問を許すように、そこに佇んでくれている筈でした。
けれど彼女は、あなたのすぐ後ろにはいませんでした。
「……」
初めは、お姉ちゃんの洗濯物を取り込む手伝いに行ったのかと思っていました。
けれども、違いました。何故ならクリスはそこにいたからです。
あなたや三人と必要以上の距離を取って、カウンターの一番端に腰掛けて、雨の降りしきる外の風景に、ぼんやりと視線を向けているばかりであったからです。
『ごめんね、私は案内できないの。もし気になるのなら、セラちゃんが一人で行っておいで。』
あなたは、離島の話をしたときの、クリスのあの声音を思い出しました。
『ふふ、セラちゃん。嫌いな人にだって「大好き」は言えるんだよ。』
またあなたは、譲らない姿勢でそのように歌い、ミヅキが気に入っているのは「あなた」だけだと断言したクリスの、あの笑顔を思い出しました。
もしかしたらこの優しいお姉さんは、離島に住む人のことが苦手なのかもしれない。あなたはそんな風に思いました。
『私はきっと、一人でいた方がいいんだと思うから。』
『セラちゃんも私のことをもっと知れば、きっと私から離れていくよ。だからそれまでいっぱい、仲良くしてね。』
あなたはクリスの言葉を思い出しました。
あの時、それらの言葉を受けて「そんなことないよ」と即座に言い返せなかったあなた自身のことが、あなたは少しだけ、嫌いでした。
「お食事の邪魔をしちゃって、ごめんなさい」
「あら、別に構わないわ。ほら、椅子ならもう一つあるから、貴方もマスターにジュースを貰って、此処で一緒に飲みましょうよ」
「……ううん、喉は乾いていないから大丈夫」
それはあなたのささやかな、けれども大きすぎる嘘でした。
民宿でザオボーに蕎麦をご馳走になってからというもの、あなたは水の一滴も飲んでいなかったのですから、喉はカラカラに乾いていたのです。
水は、欲しかったのです。けれどもその水は少なくとも、このテーブルで飲まれるべきものではないとあなたは確信していました。
今日一日、あなたに町を案内してくれたクリスを一人にしたままで、飲む必要がある水だとは、どうにも思えなかったのでした。
「リーリエにグラジオくん、また会えたら一緒に遊ぼうね」
「は、はい、是非……!よければわたしの家にも遊びに来てください」
「……ああ、またな」
あなたは二人に手を振って、一人に笑顔で小さくお辞儀をしてから、くるりと踵を返してそのテーブルから遠ざかりました。
カウンターの椅子は、まだ小学6年生であるあなたには少しだけ高いものに思われました。よじ登るようにしてそこへと座り、タマゴを改めて抱き直しました。
何と言おうかとあなたが迷っていると、隣からクスクスと楽しそうな笑い声が聞こえてきたので、あなたはああよかったと、これで間違っていなかったのだと、思えたのです。
「セラちゃんは馬鹿だなあ」
そうかなあ、とあなたは首を捻りました。そうだよ、とクリスは歌うようにそう告げて、あなたの帽子に手をかけてそっと外しました。
それをカウンターの上に置いて、彼女はぐいと身を乗り出し、あなたを強く抱き締めたのです。
あなたは狼狽えましたが、彼女は楽しそうに笑うばかりであなたを直ぐには放してくれませんでした。
まだ少し濡れている空色の髪は、強い冷房に冷やされて氷のように冷たくなっていました。
ああ、寒いのかもしれないと、あなたは少しだけ思いました。あなたもこの強すぎる冷房の涼しさに、そろそろ参ってしまっているところでした。
……ですから、こうして温度を分け合うことにはきっと意味があったのです。
そうでなくとも、クリスが笑っています。それで十分だと思えました。
「あれ、二人ともどうしたの?この部屋、そんなに寒かった?」
雨に濡れたお姉ちゃんが、あなたとクリスを見てそう零しました。
どうにもおかしくて、楽しくて、二人は肩を寄せ合ったまま、同じように笑ってしまったのでした。
2017.8.24