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セラちゃん、起きて。雨が降るよ」

あなたが目を覚ますと、青かった空は仄赤く色付き始めていて、ああもう夕方になってしまったのだ、とすぐに気付くことができました。
慌てて飛び起きると、隣で寝息を立てていた筈のミヅキの姿は既に消えてしまっていて、あなたは少しばかり不安になりました。

ミヅキは、もう帰っちゃったの?」

「そうみたい。でもまた直ぐに会えるよ。セラちゃんのことをとても気に入っているみたいだったから」

ミヅキが、あなたを気に入っている。その言葉にあなたは首を捻りました。
自分よりも少しだけ背の低い女の子を、初対面でいきなり突き飛ばしてしまった、あの瞬間のことは、長い昼寝を経た頭でも鮮明に思い出すことができました。
出会い頭にあのようなことをしてしまったあなたを、ミヅキは恨みこそすれ、好きになどなる筈がないと思っていました。
彼女があなたを気に入る理由など、何もないように「あなたには」思われていました。

『私を突き飛ばしてくれてありがとう。』
けれども、恨んで然るべきであった筈の彼女が、笑顔でそんな言葉を口にしていたのですから、
その解釈があなたの理解の範疇を超えていただけで、「気に入っている」というクリスの言葉自体は、あながち的外れではなかったのかもしれません。

「でも、クリスさんもそうでしょう?ミヅキクリスさんのこと、大好きだって言っていたもの」

「ふふ、セラちゃん。嫌いな人にだって「大好き」は言えるんだよ」

もっともなことだ、とあなたは思いましたが、あの少女の満面の笑みから放たれていた、とても眩しく明るい「大好きだよ!」が、嘘であるようにはとても思えませんでした。
しかしクリスは、あなたの言葉を真っ向から否定するようなことこそしなかったものの、
ミヅキの言葉が出鱈目であることを、もうとっくの昔に確信しているような様子のまま、困ったように肩を竦めて笑うのみであったのでした。

「それじゃあ、帰ろうか。そろそろ雨が降ってくるから」

「雨が降るの?雲は……そこまで多いようには見えないけれど」

「夕立はいつだって唐突にやってくるものだよ。さあ、行こう」

やはり「夕立が来る」ことを確信しているような声音で、歌うようにクリスは告げました。
けれども夕立の予言自体は、天気予報を見ていればそれ程難しいことではないのだろうとあなたは考え、特に訝しむことなくクリスの隣に並び、歩き始めました。
竹林と崖に囲まれた小さな花畑を、あなたが一度だけ振り返れば、水色の美しい体躯を持つポケモンを遠くに見つけることができました。
そのポケモンは、まるで我が子に向けるような優しい眼差しで、クリスの背中をじっと見つめていました。
クリスさん、とあなたが彼女を呼ぼうと視線を逸らせば、その一瞬の間にその水は、夏の少し湿った空気の中へと溶けるように消えてしまっていたのでした。

あなたとクリスは、来た道をゆっくりと戻り始めました。
セミの抜け殻は、粉々になった状態でまだ「そこ」に残されていました。
雨や風がこれをバラバラにしていくよ、と、世の理を楽しそうに歌ったあの子は、ちゃんと家族のところへ帰ったのでしょうか。
それともまだ、その常軌を逸した自由な心地で、2匹のポケモンと一緒に町を走り回っているのでしょうか。

ミヅキちゃんのことが心配?」

「……うん、少し」

「大丈夫よ、彼女はちゃんと家へ戻ったわ。さっき、海の方からキャモメが来て、そう教えてくれたの。……あ、キャモメっていうのは、カモメに似た姿の鳥ポケモンだよ」

教えてくれた、という言葉は、きっと真実の形をしていないのでしょう。
ポケモンのことをとてもよく知っているクリスは、そのキャモメの何らかの仕草や性質から感情を読み取ったのでしょう。
その、おそらくは安堵や歓喜といった感情から、ミヅキが戻るべき場所へ戻ったことを推測したのでしょう。
それを指して、クリスは「教えてくれた」と口にしているのだと、あなたは解り始めていたから、訝しい顔をせずに「よかった」と呟いて笑いました。
クリスは驚いた顔をした後であなたの頭をそっと撫でて「セラちゃんは優しい子だね」と、彼女らしくないとても静かな声でそう告げました。

「どうかな?ポケモンのこと、この町に住む人のこと、少し分かった?」

あなたはクリスの言葉に、大きく頷きました。
あまりにも多くのポケモンや人と出会い過ぎて、あなたはかなり疲れていましたが、その疲労感を忘れさせる程に、この町での探索は慌ただしく、またとても楽しいものでした。

ラジオ体操に参加して、木漏れ日の眩しさに目を細めて、綺麗な海に声を上げて、砂浜に足を取られて……。
小学校にも行きました。民宿でお蕎麦を食べさせてもらいました。秘密にしていたという花畑にも案内してもらいました。
全ての場所、全ての時間にポケモンがいて、人がいました。
彼等はあなたの住んでいた都会の町の人々とは、何かが少しずつ違っていて、けれど何かがあまりにも似ているのでした。

この町で、あなたはどんな夏休みを過ごすことになるのでしょう。
そして、あなたの傍にずっといてくれるであろう「イーブイ」は、あなたに何を教えてくれるのでしょうか。あなたは腕の中の小さな命に、何をあげられるのでしょうか。

「このタマゴからはイーブイが孵るんだよね。イーブイってどんなポケモンなの?」

カミツルギのように空を飛べるのかしら。チコリータのように、身体に大きな葉っぱを持っているのかしら。それともロゼリアのように、花を咲かせているのかしら。
猫に似ているのかしら。犬に似ているのかしら。ネズミかもしれないし、ウサギかもしれません。小さなゾウやキリンであるかもしれません。大きな蝶である可能性だってあります。
肌は冷たいかもしれません。温かいのかもしれません。口から炎や水を吐くかもしれません。甘い香りがするかもしれません。

「イーブイ」という名前以外、あなたはそのポケモンのことを何も知りませんでした。
だからこそ、このようにあらゆる想像を巡らせて、わくわくすることができていたのです。

「私の知っているイーブイは2種類いるの。ふわふわの茶色い毛を持ったイーブイと、さらさらの銀色の毛を持ったイーブイ。
でも銀色のイーブイには私も一匹しか出会ったことがないから、きっととても珍しい子だったのね」

同じイーブイでも、身体の色が違う場合があるようです。
クリスはそれを「とても珍しい」ことであると口にしましたが、あなたはそうかなあ、と少しばかり疑問に思いました。
肌の色、目の色、髪の色が違うことは、人間ではとてもよくある、ありふれたことだったからです。違っていることは、当然のことであるような気がしたからです。

「その銀色のイーブイは、ブラッキーっていうポケモンに進化したの。夜になると、黒い身体の一部が青い光を放って、金色の目が宝石みたいに輝いていて、とても綺麗だったわ」

「じゃあ、私のイーブイが茶色だった場合は、ブラッキーは何色になるの?」

「普通のブラッキーは黒い身体に赤い目をしていて、一部が金色の光を放つんだけど……実はね、セラちゃんのイーブイは、必ずしもブラッキーになるとは限らないんだよ。
イーブイはいろんな姿に進化するポケモンなの。今確認されている姿は8通り。だからセラちゃんのイーブイがブラッキーに進化する確率は、8分の1くらいかしら」

8通り!あなたはとても驚くと同時に、その進化はどうやって決まるのだろうととても気になりました。
生まれた時から既に、どんなポケモンに進化するかということは決められているものなのでしょうか。
それとも、生まれてきたイーブイに何か特別なことをすることで、特定のポケモンに進化するようになるのでしょうか。
「8通り」という多すぎる可能性は、あなたをとてもわくわくさせました。
この子はどんなポケモンに進化するのだろうと、まだイーブイを見ていないうちから、あなたは気になって仕方ありませんでした。

「その銀色のイーブイのトレーナーさんは、何かイーブイに特別なことをしたのかなあ」

「うーん、私もその子と親しかった訳じゃないから、詳しいことは知らないんだ、ごめんね。
……あ、でも彼女はイーブイを連れて、よく夜の散歩をしていたみたいだよ。もしかしたら、イーブイが昼より夜を好きになると、ブラッキーに進化するのかもしれないね」

「好きなもので進化が決まるのかなあ。ふふ、それって人間みたいだね」

あなたが何気なしに呟いたその言葉に、クリスは首を捻りました。
どういうこと?と尋ねられてしまったので、あなたは更に詳しく言葉を紡ぐため、タマゴをしっかりと抱き直しながら口を開きました。

「だって人も、好きなものを仕事にするでしょう?私の学校のクラスメイトは皆、そうやって自分のなりたいものを決めているよ。
飛行機が好きな男の子はパイロット。ケーキが好きな女の子はパティシエール。可愛いものが好きな子はアイドルに、小さな子供と遊ぶのが好きな子は学校の先生に。
……私は好きなことが沢山あるから、何になりたいか少し、迷っているんだけど」

「……」

クリスさんは、何が、」

好きなの、と尋ねようとしましたが、あなたの鼻先に落ちてきた雨粒がそれを遮りました。
ぽつ、ぽつと、小さく降り出した夕立にあなたが驚いていると、クリスがぐいとあなたの腕を掴んで駆け出しました。
あまりにも大きな歩幅、あまりにも速いスピードだったので、あなたは足をもつれさせそうになりましたが、
タマゴを抱いている方の手に力を入れつつ、なんとか転ばずにクリスの背中を追いかけることができました。

2017.8.24

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