21

「けれどどうしてシェリーは、今になって、生き直すことを選んだんだろうね?」

最後の疑問を口にすれば、あまりにも素っ頓狂な「え?」という声音がCから零れ出た。
どうやらプラターヌの疑問はCにとっては疑問の形を呈してはいないらしく、故にプラターヌがそのようなことに首を捻っていることが信じられない、といった風であった。
けれど、本当に解らない。Cはもう何十年もの間、彼女と共にいたのかもしれないが、プラターヌはたった3か月しか彼女と過ごしていない。
Cが理解しているように彼女を理解するには、プラターヌには彼女との時間が圧倒的に足りない。

「だってシェリーには君のような友人もいたのだろう?ゴーストになっていろんな人に勇気を与えることで、彼女は満足していた筈だ。それなのにどうして、」

すると、彼女は今までで最も愉快そうな表情を見せつつ大声で笑った。
「ああ、おかしい!プラターヌ先生、解っていなかったんですか?」と、からかうように告げて彼を見上げる、その涙交じりの瞳に一瞬、ほんの一瞬だけ色が映った気がした。
空の色とも、夜の色とも異なる、深い青色だった。それは彼女が褒めてくれた、人工海岸の海の色に似ている気がした。

「貴方に会うためですよ。貴方を愛してしまったからですよ。貴方の役に立つだけじゃ物足りなくなってしまったんだわ。
あの子が貴方を救えたように、あの子も貴方に救われたいと思ってしまったんだわ!」

至極愉快そうに笑いながら紡がれる「貴方」が、プラターヌのことを指しているのだと、彼はすぐに認めることができなかった。
彼女の肩の震えに共鳴するかのように、夜顔が悠々と揺れていた。

「貴方の記憶を残したのも、貴方に覚えていてほしかったからです。貴方に名前を教えたのも、貴方に名前を呼んでほしかったからです。
あの子の全ては貴方のためにありました。貴方のために奮った勇気でした。あの子も、……ふふ、随分と欲張りだったんですね」

『貴方と一緒に年を取りたくなりました。貴方に名前を呼んでほしくなりました。貴方に触れたくなりました。
怖いこと、不安なこと、きっと沢山あります。でもそれ以上に、貴方といたい。私も貴方と、生きたい。』
彼女の言葉がプラターヌの脳裏で心地良い木霊を作っていた。
彼女の涙が命を希うものであったことを、彼がたった今知ることの叶ったその真実を、夜顔は、さて、いつの頃から知っていたのだろう。

シェリー

君もボクと一緒に生きたかったのかい?
これは、ボクと一緒に生きるための魔法だったのかい?

「……でも、生き直してきたシェリーは当然、そんなこと、覚えていません。だから貴方が今ここで忘れてしまえば、私の話をつまらないゴーストの戯言だとしてしまえば、それで、」

プラターヌはそうした友人の提案を一笑に付した。忘れる筈がないじゃないか、と零した声は震えていた。
ボクは約束しているんだと、ボクだってあの子と生きたかったんだと、彼女の命を希う言葉と共にぽろぽろと、まるであの頃の彼女に似た涙が落ちた。

『それでもボクは君と一緒に生きたいと思っているよ。』
『ボクも怖くない。ボクも、忘れない。』
Cは困ったように笑っていて、夜顔は呆れたように咲いていた。

「でも、シェリーはゴーストの姿のままでしか、皆さんの前に出て行ったことはなかった筈です。
だから貴方の目にシェリーが生きて見えていたのだとしたら、間違いなくKさんの仕業ですよ。あれを使いこなせているのは、今も昔も彼女だけですから」

「……」

「私からできる話はこれで全てです。シェリーを忘れずにいてくれて、ありがとう」

日のすっかり沈んでしまった夜闇の中、Cはふわりと宙に舞い上がって、夜顔の中に埋もれていたロトムを呼んだ。
彼女の半透明の手に触れられるや否や、その小さな守護霊はふわりと霧のように消えてしまった。
ひらひらと手を振ってから、少女は禁じられた森を出て行った。プラターヌは彼女の後を追わなかった。まだもう少し此処にいたかったのだ。
Cはもう泣く必要がなかった。もう十分に泣いていたからだ。プラターヌはまだ泣く必要があった。あの1回きりではどうにも涙の収まりが付きそうになかったからだ。

新しい年になった。雪は溶けることを知らず、芝生の色が緑であったことを思い出すことがいよいよ難しくなり始めていた。
この寒気の中、体調を崩す生徒も少なからずおり、飼育学の教室にも空席が随分と目立つようになっていた。
飼育学の授業を気に入ってくれていた、ビビヨンを連れた少女が1週間近く欠席していた時には流石に彼も気落ちしたのだが、
その頃にはもう、最前列で相槌を打ってくれる少女の不在に恐怖する必要がなくなっていた。

彼はもう一人で教壇に立つことを恐れない。恐れる必要がない。
彼の授業は、彼の姿勢は、彼の言葉は、彼の勇気は、常に「彼女」と共に在ったからである。

「先生!すぐに来てください。フラダリ先生が貴方の手を借りたいそうです」

そんな中、妙に既視感のある呼び出しを受けた。バン、と教室の扉が勢いよく開かれ、ずかずかと大きな歩幅で、目つきの鋭く背の低い女子生徒が入ってきたのだ。
墨のような色をしたワンレンボブは鋭く前下がりに切り揃えられ、彼女がぐいとプラターヌを見上げれば、その髪はまるで上質なカーテンのようにさらりと揺れた。
プラターヌが慌ててその少女の後を追って教室を飛び出し、扉を閉めるや否や、くるりと彼女は振り向いて、にっと得意気に笑ってから挑発的に彼を見上げた。

「元気そうで何よりだわ、センセイ」

……ああ、確か前にこうしてこの生徒に教室を連れ出されたのは、9月の終わり、彼女と出会った日のことだった。
そのまま呪文学の準備室へと向かって、部屋へと入れてくれたフラダリにあろうことか心無い言葉を投げてしまって、
自分のみっともない頭を冷やすために外へ出て、誰もいないところへ行きたい、と森へ足を向けて、そして、彼女を見つけて。
そこからずっと、その3か月間ずっと、彼女のことばかり考えていたものだから、プラターヌはこの不思議な少女のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。

1年と2年の防衛術を教えている筈のフラダリが覚えていない生徒。プラターヌが教えている3年生の授業にも見かけたことのない生徒。
その小柄な体格から、4年生以上であるとは到底思えない生徒。授業中であるにもかかわらず、当然のように教室を抜け出して、あちこちを彷徨い歩いている、生徒。

『その魔法を自分に使って、ホグワーツを気ままに練り歩くのが大好きですから。』
Cの言葉がプラターヌの脳裏を過ぎった。彼は確信をもってこの小さな生徒に尋ねた。

「本当に生きている人間にしか見えないね。こんな魔法、どうやって作ったんだい?」

「……あら、どうして解ったの?」

レイブンクローのネクタイを緩く締めたその少女は、驚いたようにその黒い目を見開いて、けれどすぐにすっと細め直して、笑った。
円らな一重瞼は楽しそうな輝きと眠そうな揺らぎをもってプラターヌを見上げていて、少女の様相を呈していながら、それはやはりいよいよ少女らしくなかったのだった。

「Cが教えてくれたんだ、その魔法を作ったのは貴方だと。シェリーを生きているように見せられる人間がいるとすれば、それは貴方を置いて他にいないのだと」

「へえ、そんなことまで知っているのね。でも今はそれどころじゃないの。フラダリがあんたの手を借りたいって言っているのは本当なのよ。
医務室の職員のほとんどが風邪でダウンしていて、今はニャースの手も借りたいくらい忙しいのよ。あたし達のようなゴーストにまで招集が掛かっているんだから」

ほら早く、と急かすように少女はプラターヌの腕をぐいと掴んだ。当然のことながらそこには質量があった。あまりにも強い力に彼は驚き、そして苦笑した。
本当に生きているようにしか見えない。「K」とは本当はゴーストのことではなく、生きている人間の呼び名だったのではないかと疑ってしまいそうになる。

そんな彼女に連れられて医務室にやって来た彼だが、確かに流行していた風邪の影響か、ベッドはほぼ満床となっており、それに対して職員の数は圧倒的に足りていなかった。
宙をふわふわと漂っている半透明のゴーストは、おそらく「招集」により此処に呼ばれてきたのであろう。薬の整理や生徒への水分補給などに、彼等は奮闘しているようであった。
彼等が唱えている呼び出し呪文「アクシオ」により、薬や水の類が宙を飛び交っているが、ゴースト同士でその動きの打ち合わせなるものはまるでしていないらしく、
頻繁にその動線が交わっては、コップの中の水が生徒の上に降り注いだり、薬が医務室中に散らばったりと悲惨な状態になっていた。

「プラターヌ!助けてくれ、わたし一人ではとても手に負えそうにない」

着慣れない白衣に身を包んだ旧友が、薬を拾い集めながら彼を呼んでいる。プラターヌは苦笑しながら了承の意を告げて駆け寄り、膝を折る。
丸い錠剤を掻き集めていると、先程の少女が隣に並んで同じように薬を拾い集め始めた。

「あたしがKよ。あたしが、シェリーに魔法を掛けたの」

知っていたよ、とプラターヌは答えた。あらそう、と彼女は呆れたように笑った。フラダリはただ、二人の間に張られた奇妙な糸を穏やかな目で見守っていた。
そうして二人の教師と一人の生徒は、再び薬を拾うために手を動かし始めたのだった。

その直後、冷たい風が吹いた。
フラダリもプラターヌも薬を拾い集めることに必死で、その風の在処を探すことなどしなかった。他のゴーストも、職員も、誰もそのような風のことなど気に留めなかった。
けれどこのゴーストだけはすぐに顔を上げて、半透明の影すら見えない場所に目を細め、「ああ、あんたも来ていたのね」と至極嬉しそうに微笑むのだった。


2017.3.29

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