20

禁じられた森の入り口から、ほんの数メートルだけ進んだところにその場所はあった。
フシギダネやヒトカゲは倒れた巨木の傍でじゃれ合っていた。ゼニガメは夜顔の葉っぱの下に隠れて、ロトムをわっと驚かせる遊びに夢中であった。

萎れた月が目立つようになってきていた。夜顔はもう、枯れようとしていた。
けれどもCはうっとりと目を細めて「綺麗な夜顔ですね」と告げるものだから、プラターヌは少しおかしくなって笑ってしまった。
このゴーストは、夜顔が満開に咲き誇っていた頃を知らないのだ。満開の頃はもっと、ずっと美しかったのだ。そうした過去の煌めきを、けれども彼は伝えなかった。
あの美しさを言語化できる程、プラターヌは語彙に堪能な訳でもなかったし、何よりCが今の夜顔を心から喜んでいるのだから、それでいいのではないかと思えたのだ。
昔はもっとよかった、などと水を差すような真似ができる程、彼は無粋な人間ではなかった。

生い茂る夜顔の中央に歩みを進めて、不自然に草木のない場所へと腰を下ろした。
ここが彼女の指定席だったのだと説明すれば、Cは嬉しそうに頷いて、その場所をしっかりと開けた。まるで見えない彼女を、存在する筈のない彼女を見ているかのようだった。
彼女は巨木に凭れ掛かるふりをして、夜顔の景色を改めて見渡す。巨木に伸びる夜顔のツルは、彼女の半透明の身体を突き破り、本物の月に向かって天高く伸びている。

「夜顔は7月から10月にかけて咲く花です。クリスマスを目前に控えた時期まで咲くことはまずありません。霜や雪に、この花は耐えられないんです」

「そうなのかい?」

いつも本を読んでいる、この博識なゴーストが言うのだから、その情報に間違いはないのだろう。
けれどその情報と目の前の現実が全く噛み合っていないことは、プラターヌを少しばかり混乱させていた。どういうことなのだろう、と勘繰ってしまいたくなったのだ。
そして彼よりも先にその勘繰りを働かせていたらしいCは、楽しそうに笑いながら、情報と現実の齟齬に意味を見出すための言葉を紡ぐ。

「人と一緒にいるポケモンは長生きしやすいのだと、この前読んだ学術書に書いてありました。もしかしたら花にも、そうした不思議な力があるのかもしれませんね」

「夏と初秋に咲く筈の夜顔が12月まで咲き誇っている」という現象に、偶然であるのかもしれないそれに、彼女は意味を見る。
その意味は、とてもプラターヌに親和性のある形をしている。

この夜顔は、彼女がいなくなるその瞬間まで、彼女の涙を受け止め続けていたかったのかもしれない。

シェリーが自ら生きている人間に話しかけるようになったのは、ここ数年のことです。
泣いていたり、仲間外れにされていたり、大きな挫折から立ち直れていなかったり、一人であったり……。彼女が関わるのは決まってそうした命でした。
そうした人達なら自分を拒んだりしないだろう、ということを、彼女はとてもよく解っていたんです。狡いと思われるかもしれませんが、あれが彼女の精いっぱいだったんですよ」

「……彼女の噂を、ボクの友人も聞いていたよ。誰かを勇敢にするのがとても得意なゴーストがいると、言っていた」

「得意……そうですね、確かに得意だったのかもしれません。でも彼女は特に何もしていなかったんですよ。ただ、彼等と一緒に泣いていただけです。頷いていただけです。
それでも彼等はシェリーの存在に、途轍もなく大きな勇気を貰っていたようでした」

プラターヌは大きく頷いた。おそらくこれまで彼女に救われてきた大勢の心持ちが、彼にはとてもよく解ってしまったからだ。
10月の頃、誰しもに悪意を見ずにはいられなくなっていた頃、味方など誰一人として存在しないのだと思い込んでいた彼は、けれど廊下で見かける彼女の姿に救われていた。
彼女とすれ違うあの瞬間、彼はあの少女を確かな味方として傍に認めることができていた。
味方が少なくとも一人はいてくれているという事実、そしてその味方が他の誰でもない「彼女」であるという事実が、嬉しかった。
彼女から受け取る一瞬の視線が、その存在が、プラターヌに与えた勇気は計り知れなかった。

きっと、これまで彼女に救われてきた誰もが、そのような心地であったのだろう。
彼等もまた、怖がりで涙脆い彼女の視線に、同意に、沈黙に、存在に救われていたのだろう。彼等にとっても彼女は、ただいてくれるだけでよかったのだろう。

「そうして彼等が勇敢になったのを見届けて、それで彼女はすっかり満足して、彼等の記憶を綺麗さっぱり消してしまうんです」

「……それは、死者と生者が深く関わり過ぎないようにするため?」

「きっと、それもあったのだと思います。けれどそれ以上に彼女は、生きている人間に覚えておかれることを嫌がっていました。忘れられることばかり望んでいました」

彼女は生きている人間を恋しく思っていた。だから彼等に関わり続けた。
けれど恋しく思う以上にそれ以上に恐れていました。だから彼等の記憶を消し続けていた。
そんなことを何年も続けていた。誰かに関わる度に誰かの記憶を消して、静かに死後の世界に在り続けていた。そしてプラターヌに出会い、消えた。

シェリーに勇気を貰ったことを覚えているのは、プラターヌ先生、貴方だけです。あの子の名前を知っているのも、貴方だけです。私はそのことがとても嬉しい。
……悲しくないと言ったのは、決して強がりじゃないんです。ゴーストは命の巡りの外にいる存在ですから、そこからいなくなることは、実はとても喜ばしいことなんですよ」

Cは笑って自らの胸元にある夜顔を指差した。半透明の身体の、心臓に近い位置から咲いているその月は、夕闇の中においてもやはり眩しかった。

「夜顔の種が出来たら、土に埋めてあげてくださいね。そうすればこの夜顔はきっと来年も、綺麗に咲いてくれますから」

「……そうだね。そうしてみるよ」

「命の巡り」を語る彼女は、その景色も相まって、まるで夜顔の言葉を代弁しているかのように見えてしまった。
プラターヌのそうした「幻想」は、しかし間違ってなどいなかったのだと、彼は次にCが口にした言葉で、いよいよ確信してしまうことになる。

「花の命もそうやって巡ります。人の命と同じように」

プラターヌは思わず声を上げていた。彼にとってはそれ程の衝撃であったのだ。

命は巡る。花の命は1年で巡る。人の命だって花よりもずっと緩やかな速度ではあるけれども確かに巡りの中に在る。
そうしたことを、けれど彼はどうにも心得ることができていなかった。
彼には解らない。彼はまだ生きているから、手放された命が何処へ行くのかということを考えようがない。

けれどCには、命をとうに手放したこの少女には、その巡りの全てが見えているのだろう。
見えているからこそ、ゴーストが消えること、命の巡りの中に戻ることを、喜ばしいことだとして、泣いているのだろう。
悲しくなくとも、喜ばしくとも、寂しいから泣かずにはいられないのだろう。

「あの子はラルトスに先立たれたことも、私と出会ったことも、貴方を救ったことも全部忘れて、きっと今頃、誰かのお腹の中で眠っているんじゃないかしら」

記憶は持っていけないのだね、と口にすれば、少女はいよいよ楽しそうに声を上げて笑った。
けれど彼女の笑いももっともなことだった。プラターヌとて、以前の命のことなど全く覚えていないし、前世の記憶、なるものを持っている人間になど、会ったことがないのだから。

そもそも自分に、前の命なるものがあったのだと言われたところで、にわかには信じ難い。
これは「悲しくない」と自身への子守歌のように繰り返すCの、彼女自身のための虚言であるのかもしれない。ただ寂しいだけの、中身のない理論であるのかもしれない。
それでも、信じたくなってしまった。寂しいのは、Cだけではなかったからだ。

「だから私はずっとゴーストのままなんです。大好きな人との時間をずっと覚えていたくて、……ふふ、大切な人達と、もう随分と長く此処にいます」

ああ、このゴーストには彼女のような未練がある訳ではないのだ。ただ欲張りが過ぎたが故に、巡りの中へと飛び込むことができずにいるのだ。
この友人が悲しい未練を持っていないことに安堵した訳ではない。まだ巡りの中に戻るつもりはない、という姿勢を崩さない彼女を喜ばしく思った訳でもない。
ただ、彼女らしいと思った。欲張りな彼女には、きっと一つの命が生きることの叶う80年などという時間ではどうにも短すぎたのだ。それだけのことだったのだ。

「あの子は、巡りの中に戻ることを選んだんですね。その果断を、もう彼女は覚えていないでしょうけれど」

……もしかしたらこの夜顔も、自分が翌年に同じような花を咲かせることなど、まるで解っていないのかもしれない。
プラターヌが以前の命を知らないように、命はまた次に巡ることを知らないように、この月のような海のような花もまた、命の巡りをその目で見ることなど叶わないのだろう。
その理を、命の巡りを見ることが叶うのは、皮肉なことにその巡りの外に在るゴーストだけだ。
けれどそうした悲しい存在である筈のゴーストが、ひどく幸せそうに笑うものだから、プラターヌは悉く安堵してしまったのだった。よかった、と思ってしまったのだった。

「どうして多くのゴーストが、生前の名前を消滅の呪文にしているのか、解りますか?」

「……生きていた頃に、戻りたいから?」

「ええ、その通りです。生前の命を希うことで、その人は前と同じ名前、同じ姿で生まれ直すことができるんですよ。
だからあの子も、貴方のよく知っているあの子のままでこのホグワーツにやって来るんです。その頃には、……ふふ、プラターヌ先生もすっかりベテラン教師ですね」

あの子がまた、ホグワーツにやって来る。新しい命を手にした彼女が、此処に来る。
少なくとも、12歳になる年でなければホグワーツへの招待状は手に入らない。
その頃にはプラターヌは35歳だ。とてもではないが「新任」を名乗るには年を取り過ぎている頃だった。

「けれど、随分とあの子と年が離れてしまったね。一緒に生きるにはあの子は幼すぎるし、ボクは年を取り過ぎているような気がするよ」

「あら、そんなこと気にしなくてもいいのに。私からしてみれば、12歳も35歳も同じようなものですよ。30近く年が離れていたとしても友達になれるんですから」
それに、大事なのは年が離れていることじゃなくて、同じ時間に生きていられるということですよ。それって、奇跡のようなことなんです」

「……じゃあ、シェリーは奇跡を起こしに行ったという訳かい?」

冗談のつもりでそう告げれば、Cは至極嬉しそうに目を細め、頬を綻ばせた。
ええ、ええそうなんですと繰り返す彼女は、ゴーストでも命を持たない存在でもなく、友人の成長を喜ぶただ一人の人間であった。ただの、少女であった。


2017.3.29

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