13

冬は景色の彩度がぐっと下がる。春に芽吹いた若葉は赤くなって枝を離れ、地に落ちれば土の色に染まる。枝を離れない樹木も、鮮やかな緑から深く曇った緑へと色を変える。
当然のことながら、春や夏のように鮮やかな花が咲き乱れることもないし、野生ポケモンも徐々に大人しくなっていく。
強い風の吹き付けない、巨木の下や洞穴の中に、小さなポケモン達は集まって暖を取る。
枯葉の中に埋もれるようにして眠っている虫ポケモンの姿は、あらゆる野山や森で見ることが叶う、冬の名物であった。

そうした「冬」がすぐそこまで来ようとしている。明日で、12月になる。

クリーム色のブランケットを2枚抱えて、彼は4時50分に森の入り口を訪れていた。
予定10分前に動くというのは至極まっとうな社会人としてのマナーであるが、
彼はその癖を学生の頃からずっと続けていたために、それを「マナー」であると意識したことは一度もなかった。
故に誰かが彼よりも早く来ていたり、逆に遅れて来たりしていたとしても、それはその人の「個性」であり、別段、責め立てるべきものではないように思われていた。

従って、5時を3分過ぎてから彼女が現れたことに、彼は別段、気分を害したりはしなかった。
この泣き虫で怖がりな少女は、どうやら時間には少し、ほんの少しだけルーズであるらしいと、そうした個性に微笑むだけの度量なら彼にはあったのだ。
「ごめんなさい」といつものように告げてぽろぽろと泣く彼女に、プラターヌは苦笑しつつ「大丈夫だよ、気にしないで」と告げた。
「ボクも今来たところなんだ」とは言わなかった。そうした嘘を紡げないことだって、彼の個性であったのだから、……ああ、どうしようもなかったのだろう。

禁じられた森の近くを夕方に訪れる人間はそういない。故にホグワーツの生徒を連れて森へと歩を進めるプラターヌを、誰も、何も咎めなかった。
高くうっそうと伸びた木々が二人の頭上に分厚い影を落とした。日は既に大きく傾いており、赤い日差しが斜めに差し込んで二人の背中を少し、ほんの少しだけ温めていた。

森に足を踏み入れて数メートルの場所に「其処」は在る。
倒れた巨木に伸びたツタは無数の大きな葉を生やし、巨木の土色をすっかり隠してしまっていた。
9月の暮れ、初めてプラターヌが訪れたときと比べると、夜顔は何倍にも成長していた。
他のうっそうと生い茂る草木は、その夜顔に遠慮するかのように勢いを弱めている。もう冬になろうとしているから、という訳ではなく、9月の頃からそうであった。
夜顔は他の何にも飲まれることなく此処に在った。少女と、共に在った。

その夜顔の群生地の中央には、二人分の空白がある。
毎日、毎日、プラターヌと少女がそこに座っていたためか、土はかたく押し潰され、もうすっかり二人のための場所であるかのような存在感を放っていた。
彼等の定位置に腰掛ける。吹き付ける風に少女が肩を竦める。プラターヌは持ってきていた2杯のカフェオレに杖を一振りして、適切な温度に調節してから彼女に手渡した。
長い、長い沈黙の後で、少女は「あの、」と消え入りそうな声音を落とす。その祝福めいた音は涙のように夜顔へと落ちることなく、しっかりとプラターヌの耳へと届く。

「ありがとうございます」

彼女の口から「ごめんなさい」ではなく「ありがとう」が紡がれることの尊さを、解っているからプラターヌは笑うことができた。
笑いながら、ついでのように持ってきていた分厚いブランケットを手渡せば、少女はそれを器用にくるくると身体に巻き付けた。
まるでミノムッチのようだとプラターヌは思い、クスクスと笑いながら彼女の巻き方に倣い、彼女よりも少し大きなミノムッチを作った。
そんな彼を見て、少女はやはり彼と同じことを考えたのだろう、小さく静かに笑ってみせた。笑えば、やはりその三日月に細められた瞳からは涙が零れるのだった。

そんな訳で、巨木の影で身を寄せ合う大小の白いミノムッチは、カフェオレを少しずつ飲みながら、じっと夜顔の蕾を見つめることになったのだった。
けれど5分が経ち、10分が経っても、蕾は動き出す様子を見せなかった。咲かないね、と囁くように呟けば、隣で少女はこくりと頷いた。
花は、どうやって咲くものなのだろう。

そもそもプラターヌはこの夜顔に限らず、花が開くところなど見たことがなかった。
チューリップやコスモスといった有名な花が、どのような蕾の形をしているのかを彼は知っている。その花が咲いてしまった姿というのもよく見知っている。
けれどその過程がどうなっているのか、彼はまるで知らなかった。
鮮やかで華やかな花達は「いつの間にか」静かな蕾で在ることをやめて、花になっている。
けれど彼はその「流れ」を見たことがない。彼にとって蕾と花は別のものであり、その二者が続いているという確信が彼にはまだなかった。
極端な話、人の見ていないところで蕾と花がポケモンの手によってすり替えられているのだ、と言われても、頷けてしまいそうだった。

「少し、開いてきましたね」

「え?……あっ、本当だ」

それ、は本当にささやかな変化だった。渦を巻くように固く閉じていた筈の蕾の先が、薄く開いていたのだ。
ずっとこの蕾を見ていた筈なのに、プラターヌはその変化に気が付かなかった。おそらく少女も気が付いていないだろう。
それ程にその変化は緩やかだった。あまりにも緩慢な速度で「開花」というものは為されるのだと気付いて、それでもその緩やかな速度は彼等の視線をぎゅっと引き付けていた。

二人の身体はもうすっかり冷え切っていて、けれどもプラターヌも少女も、そのようなことに構っていられなかった。
己の身体が凍ってしまったとしても、おそらく二人は悔いなかっただろう。
それ程に二人は必死だった。何とかして見てやろう、という気概が、二人の身体を静かに燃え滾らせていたのだった。故に寒さなど、感じる筈がなかったのだ。

ゆっくり、ゆっくりと、白い月は三日月から上弦の月へと変わっていった。少女は一言も口を利かなかった。プラターヌも何も言わなかった。
瞬きさえ邪魔だと感じた。けれど瞬きの合間に変化など訪れる筈もなかった。
あまりにも緩慢な変化であった。それはどうにも「花」という華やかなものには相応しくない速度であるように思われた。
おかしい。花というものは、このような鮮やかで華やかなものの晴れ舞台というものは、もっと。

「……」

ああ、けれどもしかしたら、こういうものであるのかもしれない。

生き物が姿を変えること。命が輝くということ。その命の変遷をじっと見届けること。見届ける側もまた、命であること。
「其処」にはポケモンの進化のような劇的な華やかさは微塵もなかった。ただゆっくりと、ゆっくりと変わっていくのみであった。
こんなものか、と思った。けれども彼は嬉しかった。安心した。笑いたくなった。泣きたくなったのだ。

子供達が何年もかけて成長していくように。彼女の美しいブロンドが何か月もかけて伸びるように、空の三日月が何日もかけて満月へと変わるように。
花が咲くというのは、そういうことなのだ。命が前へと進むというのは、そういうことなのだ。

白く眩しい月は、もうすぐ十五夜を迎えようとしている。もうすぐ、満月になる。

そこまで見届けて、プラターヌは思わずその夜顔から目を逸らしそうになった。少女がブランケットからそっと指を伸ばして、プラターヌの手をそっと掴んだからだ。
二本の指、おそらくは人差し指と中指であろう、その先が彼の手に触れるだけの、あまりにもささやかな、それこそ夜顔に似た行為であった。
彼は夜顔から目を離さないよう努めながら、そっと少女の指を握り返した。
互いの手はこの長い夜にすっかり冷やされてしまって、全く同じ温度になっていたから、どうにも心地よかった。ああ、君もボクも同じ命なのだと、本当にそう思えたのだ。
彼が少女に触れたのは、これが初めてのことだった。

夜顔が、咲いた。完全な満月になったことを誇らしめるように、一陣のやわらかな夜風がその花を優しく揺らした。

咲いたね、と大きなミノムッチが言った。咲きましたね、と隣で小さなミノムッチが同じように言った。どうだった?と尋ねれば、呆気なかったですね、と返ってきた。
もっと派手なものかと思っていたよ、と口にすれば、彼女はそうした子供っぽい感想を許すようにふわりと笑った。
でもこれで分かった気がします、と彼女が言うので、何が分かったんだい?と首を捻れば、
彼女は予め用意していた言葉であるかのように、すらすらと、いつもの恐れを感じさせない淀みなさで音を奏でた。

「どうして命が美しくて、優しくて、呆気なくて、残酷なのか、分かったんです。先生が教えてくれたんです。だから私、もう怖くありません」

怖い、怖いと涙の数だけ、夜顔の数だけ繰り返してきたその感情を、彼女は毅然とした声音で凛々しく、否定した。
そんな彼女の「怖くありません」は、まるでプラターヌ自身の言葉であるかのように、何故だか彼に途方もない勇気を与えたのだった。

「貴方が私にしてくれた命の授業、忘れません」

それは、授業と呼ぶにはあまりにも威厳のないものだった。一人の生徒に命のことを説ける程、彼は命の如何をも知らなかった。
彼女が命の美しさ、優しさ、呆気なさ、残酷さの理由に思い至ることができたとして、それはプラターヌの教えによるものではなく、彼女が自分で導き出したものだ。
彼はおそらく、何もしていない。彼は命の如何を説ける程に、聡明でもないし、勇敢でもない。

けれどその時、彼は確かにこう思ったのだ。「ボクは、命の巡りを説くために教師になったのかもしれない」と。

言葉を尽くそう。熱意を惜しまず励み続けよう。ポケモンという命と、人間という命、夜顔という命。それら全てが同じ時間に生きられていることの尊さを説こう。
飼育学とは命の授業である。命を尊重するための術を知るための学問である。そうした気概で教壇に立とう。彼等にも、話してみよう。
みっともなくても、構わないのだ。美しくなくとも、華やかでなくとも、よかったのだ。
生きるとは、命であるとはそういうことなのだから、何も、恐れることなどなかったのだ。

「ボクも怖くない。ボクも、忘れない」

ささやかな誓いの言葉に、彼女はやはり泣くのだった。咲いたばかりの夜顔が涙を受け止めて海のように揺らめいていた。
三日月も満月も同じものであった。蕾と花は同じものであり、命はそうやって回るのだ。命はそうやって、巡るのだった。


2017.3.22

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