12

「君は死後の世界がどんなところなのか、知っているかい?」

彼女は驚いたようにその目を見開き、そして涙を零しながら首を振った。予想通りの反応であったから、プラターヌは訝しまなかった。
命という重すぎるもので区切られた世界の向こう側、死後の世界を探ることは、生きている者にとってのタブーだ。想像することは許されても、探究することは許されない。
ほとんどの人間がそのルールに従順に生きており、プラターヌも彼女も、そのうちの一人であった。故に知らないことこそが普通のことであった。そういうものであった。

「そうだよね、ボクも知らない。きっとポケモンだって知らない筈だ。知らないところへ行くのはとても恐ろしいことだよね。君のような子にとっては、特に」

「……」

「死んでしまったポケモン達は、トレーナーより先にそうした未知の世界へ足を踏み入れて、向こうで自分のトレーナーを待とうとしたのかもしれない。
未知の世界がどんなに恐ろしいところだとしても、パートナーが待ってくれているから、怖くない。ポケモンは、トレーナーがそう思うことを期待して先に死んだのかもしれない」

勿論、そんなものはプラターヌの想像に過ぎなかった。
生きているポケモンの言葉さえ分からない彼に、死んでしまったポケモンの気持ちなど読み取れる筈もなかった。
全ては彼の想像であり、期待であった。これは教師たる彼が語るべき「事実」の形をしてはいなかった。このようなこと、きっと教師が語っていいようなことではなかったのだ。

けれど彼は、言葉を押し留めることができなかった。
何故なら彼はこの時、最早「教師」ではなくなっていたからである。彼は何としてでもこの少女に「一人」だと思わせてはならなかったからである。
彼はやや強引な理屈で、彼女の閉じた世界を押し開こうとしていた。
ラルトスが長く生きようと、仮に長く生きなかったとしても、彼女は生きなければいけなかったのだ。生きてほしかったのだ。

そのためならば、彼女の「一人」を飲み込んで「二人」にすることだって厭わない。

「ボクは、こちらの世界でトレーナーと共に在ろうとすることも、向こうの世界でトレーナーを迎えようとすることも、等しく尊い絆の形だと思っている。
その絆の形は、時に残酷なものに見えるかもしれないけれど、その残酷な形の中にだってちゃんと、ポケモン達の想いが溶けているんだ」

『でも人は、ポケモンのように残酷でもありませんよ。』
あの時の彼女の言葉には、「ポケモンは人より先に死んでしまうような残酷なところを有しているのだ」という、無言の主張が溶けていたのだ。
プラターヌはあれから1か月が経った今になってそのことにようやく気付き、苦笑した。

君はどうにも長く機を窺い過ぎている。もっと早く君のそうした言葉を聞けていたらどんなによかっただろう、と彼は思う。けれど、今でよかったのかもしれない、とも思う。
プラターヌが確かな自信をもって教壇に立てるようになった今だからこそ、彼はこの少女に言葉を尽くすことが叶っている。
そんなプラターヌのために憤ったのだって、他の誰でもない、彼女なのだ。これがきっと互いの最短であり、最善だった。
二人はいつだって懸命であった。少なくともこの数か月、彼等が身体的にも精神的にも「怠惰」に甘んじたことは、一度もなかった。

「どうしてポケモンは、命を長引かせたり縮めたりすることができるんですか?」

今、彼女がこうしてプラターヌに問うことが叶っているのだって、これまでの2か月があったからこそなのだ。
傍から見れば、二人の時間は随分と遠回りであったのかもしれなかった。けれどその渦中に在るこの二人に、どうしてこれ以上の時間を想像することができただろう?
最善であった。最良であった。これ以上など望むべくもなかった。

「……絆の力、と言ってしまえばそれまでだけれど、ポケモンは自らの気持ちを、不思議な力に変えることがとても上手なのだと思う。
命の長ささえ変えてしまえる程に、彼等の気持ちはきっと大きいんだ。彼等はトレーナーのことを好きになってくれている。人を、愛してくれているんだよ」

ざあっと、あまりにも強い風が吹いてきて、夜顔が一輪、また一輪と吹き飛ばされていった。
白い満月はひらひらと舞い上がり、夜に飲まれてぱっと儚く消えた。彼女の涙を受け止めていたあの一輪は、その涙の重みのおかげで吹き飛ばされることなく、そこに在った。

 
「愛すると、長く生きたいと思えるようになるんですか?」

夜顔が月のように咲いていた。

「愛すると、先に死にたいと思えるようになるんですか?」

夜顔が海のように咲いていた。

「私もそんな風になれますか?」

 
舞い上がった夜顔が、風の落ち着きと共にひらりひらりと二人に降ってきた。プラターヌの肩に夜顔が落ちた。少女の髪にも夜顔が貼り付いた。
夜の闇に飲まれている筈のその花は、けれどそれ自体が光を放っているかのように、鮮やかな白を二人の目に焼き付けていた。まるで月のようだった。

「人間に、そのような力があるかどうかは解らないけれど、もしかしたら人間にはそんなこと、不可能であるのかもしれないけれど」

しかしあの明るい月さえも、太陽の光に反射して眩く見えているに過ぎないというのに、この夜顔は一体、何の光を反射してこんなにも美しく在るというのだろう?
この小さな無数の丸い月は、何のために明るくその白い光を瞬かせているのだろう?
解らなかった。この不思議で神秘的な命の揺蕩うる世界には、解らないことが多すぎた。彼に解るのは、彼自身のことだけであった。

「それでもボクは君と一緒に生きたいと思っているよ」

だからこそ、彼はその言葉を何の迷いもなく紡ぐことが叶ったのだ。それが彼の疑いようもない真実であったのだから、躊躇える筈もなかったのだ。

少女は神からの啓示を受けたかのように、瞬きさえ忘れてプラターヌを見つめていた。珍しいことに涙は零れていなかった。
そのライトグレーの色には彼の姿がゆらゆらと映っていて、彼はそこに見えた自分の、ひどくみっともない顔に思わず苦笑した。

彼女が思い出したように1回だけ瞬きをすれば、それを合図とするかのように両の目からぽろぽろと川が流れ始めた。
「ごめんなさい」といつものように紡ぐ彼女のそれが、感謝であるのか当惑であるのか拒絶であるのか、プラターヌはすぐに識別することができなかった。
故に弱く笑いながら「どうして謝るんだい?」と尋ねれば、その答えは少女の口からあまりにも呆気なく、するりと、川が海に流れ着くような自然さで、零れた。

「嬉しいから」

息を飲むプラターヌを真っ直ぐに見上げた彼女は、夜顔のように笑った。

……いや、その表現は間違っていたのかもしれない。
これまで、此処にずっと咲いている夜顔は彼女の涙を引き取り続けてきたのだから、その間、彼女はずっと泣いていたのだから、
夜顔のその美しい表情というのもまた「泣き顔」に近しい様相を呈していたのであって、それが今の彼女の、柔らかな笑顔に重なることは、普通なら難しいことである筈だった。
夜顔はプラターヌにとって、月のような海のような涙のような花なのだから、彼女が泣き止んだとき、その夜顔は彼女に相応しくなくなる筈であった。

「……シェリー、君に一つだけ自信をもって教えられることがあったよ。こういう時にはね、ごめんなさいじゃなくて、ありがとうと言うんだ」

けれど、ああ、どうしてだろう。美しいのだ。この少女が笑っているところがどうにも美しいのだ。
彼女を形容するのであれば、例えるのであれば、やはりこの夜顔の白い美しさをおいて他にないだろうと、彼は何の迷いもなくそう結論付けてしまったのだった。

「ありがとう」

この少女の世界に、プラターヌは果たして入ることが許されたのだろうか。
解らない。彼に解るのは彼自身のことだけで、この少女の真実など紐解けようもない。
彼女が彼女自身とラルトスの二者だけでこれから何十年もの間、静かに寂しく回し続けるつもりであったその世界に、プラターヌは分け入ることができたのか。
そう判断できる何をも彼は持たなかった。確信するにはその「ありがとう」というたった一言はあまりにも小さく、儚いものであった。

けれど、それでも彼女が笑っていた。それでも、プラターヌはこの少女が「一人」にならないようにしたかった。

「ボクの授業を聞いてくれてありがとう。楽しんでもらえたかな?」

「……はい」

「よかった。他に何か、質問したいことはあるかい?」

すると彼女はその笑顔のままに、きょろきょろと辺りを見渡した。
何か問いたいけれど、丁度いい話題が出てこない。けれどこの授業がこのまま終わってしまうのは少しだけ惜しい。故に何か、質問できるようなものを探したい。
そうした視線の彷徨いであるように思われて、プラターヌは思わずクスクスと笑った。

「今日じゃなくても構わないよ。明日も会えるのだから、またゆっくり考えておいで」

「いえ、あ、あの!」

そうしたことを告げながら、プラターヌが少女の髪に貼り付いた夜顔を取り上げるのと、少女がそれらしき「話題」を見つけるのとがほぼ同時であった。
上擦った珍しい声音を大きく吐き出した少女は、その長い指でプラターヌへと手を伸べる。彼の肩に降っていた夜顔を摘まみ上げて、手の中にその小さな月をそっと包み込む。

「夜顔はどうやって開くのかな、と思って……。蕾の時は綺麗に渦を巻いて閉じているのに、不思議ですよね。
毎日、気にはしているんです。でも貴方と話していると、いつの間にか開いてしまっているから」

夜顔はどうやって開くのか?その問いにプラターヌは答えることができなかった。
けれど彼はもう、自らに「答えられないことがある」ことを恐れなかった。
彼は少女の髪から取り上げた夜顔の縁を指でそっとなぞり、「それじゃあ、見てみようか」と提案する。同じように一輪の夜顔を抱いた少女の目が、驚愕と期待に見開かれる。

「明日の夕方5時に、此処においで。一緒にこの花が開くところを見よう!」

2017.3.22

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