今日もあの花は咲いているのだろうか。
「こんばんは、プラターヌ先生」
ふわふわと波のように漂ってきた半透明のその影は、プラターヌ先生、と呼ばれた男の周りでくるくると渦を描くように舞う。
年頃の少女にしては少し長めのスカートが、彼女の生前の品行方正ぶりを如実に示しているように思われて、彼はこのゴーストのことを好ましく思っていた。
「やあこんばんは。君はまた図書館に行っていたのかい?」
「ええ、面白い本を見つけたんですよ。もういてもたってもいられなくて!」
このゴーストにとって「面白くない本」などある筈がない。プラターヌはそう思いつつ、それはよかったねえと微笑むだけに留めておく。
どんなに退屈な物語でも、どんなに難解な学術書でも、彼女の小さな半透明の手の中に納まれば、それは至高のエンターテイメントに化けるのだ。
彼女にとっては「それ」が活字の様相を呈しているだけでよかったのだ。音楽、映像、動画、そうした何もかもは彼女の頭の中に在り、彼女の想像はどこまでも自由に羽ばたいていた。
彼女が自らの外に求めるものは、活字だけであるように思われた。そういう意味でこの名前のないゴーストは、悉く死後の世界を謳歌していたのだろう。
「先生はもう夕食を食べたんですか?」
「いや、そうではないのだけれど、少し散歩に出たくなったんだ。食べそびれたらカフェテリアで何か買うつもりだから、気にしないでくれ」
少女の姿をしたゴーストは「ええ、行ってらっしゃい!」と至極楽しそうに微笑んでから、右手に構えた杖を軽く振って、宙に浮かせていた本のページを捲った。
相変わらずだなあとプラターヌは思う。そして少しばかり、危ないなあとも思う。
ゴーストという存在は万人に見えるようなものではない。霊感の皆無な人間というのも僅かではあるが存在しているのだ。
霊感のない人間にはゴーストが見えない。ゴースト、などという存在があることさえ知らない場合もある。
故にあの子が本を持って歩いている姿というのは、霊感のない人にしてみれば「本がひとりでに宙をぷかぷかと泳いでいる」ようにしか見えないのだろう。
事実、ホグワーツを徘徊する本の噂はプラターヌも小耳に挟んでいた。そんな話を聞く度に「ああ、また彼女か」などと笑えるようになっていたのだった。
本が大好きなあのゴーストに知り合ったのは、11年前のことだ。
当時の彼はまだ12歳、ホグワーツに来たばかりの1年生で、ポケモンのことも魔法のこともゴーストのことも、何も知らないような子供であった。
あれから11年。その確かな歳月はプラターヌを大人にしていた。知識と経験を蓄え、実力を付けた彼は、晴れて今年から飼育学の教師となった。彼は変わった。変わり続けていた。
しかし時の流れを忘れたゴーストの姿は、その11年に変えられることなくずっと同じ姿のままだ。
「命がない」とは、そういうことなのだ。プラターヌはそのことをとてもよく解っていた。
……さて、そんな「命」を有するが故に変わり続けている彼は、変わることが当然のことであると知り過ぎている彼には、しかし1か月前から変わらず続けている奇妙な習慣があった。
生徒や教師が大広間で食事をする夕方の6時頃に、彼はその空間をそっと抜け出し、ホグワーツから少し離れたところにある、禁じられた森へと向かうのだ。
「ほら、出ておいで!」
飼育学を担当する彼は、様々なポケモンをボールに入れて連れ歩いていた。
今日はフシギダネ、ゼニガメ、ヒトカゲの入ったボールが白衣のポケットに入っている。どの子も陽気で快活な、自慢のポケモン達だ。
そんな彼等を勢いよく外へと繰り出す。彼等は夕闇の中にぽんと躍り出て、競うように森へと駆けていく。
長くプラターヌと共に在るこの三匹は、彼が今から向かおうとしている場所をとてもよく理解しているのだ。
相変わらず元気だなあ、と思いながら、長い白衣に足を取られないよう注意しつつ走る。
秋の風は少しずつ冷たくなり始めていた。おそらくあの森の傍はもっと寒いのだろう。そう思えば彼の歩幅も自然と大きくなった。
ホグワーツの傍にあるこの森には、野生のポケモンが多く棲んでいる。
人の手の殆ど入っていないこの土地では、貴重な薬草や栄養価の高い果実を採取できたり、野生ポケモンの生態を詳しく観察できたりするため、研究者にとっては有難い場所である。
ただし、ポケモンが本来の姿のままでのびのびと暮らしているという事実は、人間に恩恵ばかりをもたらすものにはなり得ない。
時を超える珍しいポケモンに出くわして、遥か過去や未来に飛ばされたり、悪夢を見せるポケモンに襲われたりと、穏やかではない事故も多数、挙がっているのだ。
故にこの森の有益性をホグワーツは高く評価しながらも、事故を最小限に抑えるために、この森に入る制限を厳しく設けている。
『学園の生徒は原則、立ち入り禁止』
故に禁じられた森に入ることを許されているのは、ホグワーツの教師と、特別に許可を貰った一部のホグワーツ院生だけだ。この校則を破るとかなり大きな「減点」がある。
……しかし「禁じられた森に入った」がために寮点をごっそりと削がれてしまったことは、少なくともプラターヌの記憶している限り、すなわちここ11年の間では、一度もない。
この森は薄暗く、並々ならぬ危険に満ちており、そう楽しい場所でもない、ということを生徒たちはとてもよく解っているのだ。
故に自らこの近くへ向かおうなどという物好きは皆無に等しい。森はいつでも静かなままで、教師と一部の院生の侵入だけを静かに、厳かに許すのみであった。
けれど、そうして生徒の誰もが立ち入ることを禁じられ、誰もが立ち入りたがらないこの森を、逃げ場としている人間も確かに存在する。
彼はそのことを、つい1か月前に偶然、知った。
「恐怖の象徴」として扱われてきたこの場所が、しかし誰かにとっての平穏である場合も確かにあるのだと、そうした事実はプラターヌの心臓を不思議な温度で揺らした。
不純な話だが、「ああ、君もか」と、安堵してしまったのだった。
此処に平穏を求めている彼女にとっても、やはり禁じられた森という場所は不気味な、恐ろしいところであることに変わりない。
ただ、ホグワーツという、沢山の生徒との共同生活を強いられるあの場所の方が、その子にとってはずっと恐ろしいというだけのことなのだ。
その恐怖がこの森に立ち入ることへの恐怖を上回った時にだけ、彼女は「其処」に姿を現す。
そして彼女にとって、ホグワーツよりもこの森の方が恐ろしい場所であったことは、少なくともプラターヌの知る限りでは、一度もない。
「……」
そういう訳で二人は毎日顔を合わせているのだが、先客はプラターヌの方であることもあったし、彼女であることもあった。
さて、今日はどちらだろう。そう思いながらプラターヌは森の入り口で立ち止まる。
ねえ、そこにいるのかい?ボクにとてもよく似た目をした君は、ボクにとてもよく似た臆病を有する君は。
耳をすませば、夜の風が小さな嗚咽を運んできて、彼は卑怯な安堵の息をそっと吐く。
彼女に掛ける言葉を探しながらプラターヌは嗚咽のする方へと歩を進める。パキパキと枝を踏む音は、きっとあの少女にも聞こえている。
この広い森の中で彼女を「探す」必要はまるでなかった。勇気というものを知らない彼女が、この森の奥深くへ分け入るなどということ、できる筈がない。
故に彼女の逃げ場はいつだって、森の入り口からほんの数メートルのところにある、倒れた巨木の影と決まっていたのだ。
細い膝を抱えている。長いストロベリーブロンドがその肩を、腕を、隠すかのように垂れている。
昨日の雨で水溜まりが彼女の足元に出来ていたのだが、プラターヌにはそれが、彼女の常に零れている涙が作ったものであるように思われてならなかった。
彼女が泣いていないところを、プラターヌは見たことがない。
既に彼女を見つけていたらしいフシギダネたちが、その周りで心配そうに寄り添っていた。
プラターヌもそこへと歩み寄り、ストロベリーブロンドの下に隠された、触れれば折れてしまいそうな程に華奢な肩へそっと、手を置く。
はっと上げられた顔がどうなっているかなど、この薄闇の中では判別しようもない。しかし男には解っていた。見えずとも、解っていたのだ。
「やあ、シェリー。どうしたのかな?」
どんな言葉をかけようか、と思案しつつも、結局はこの言葉に戻ってきてしまうのだ。
少しでも降らせる音を間違えれば、彼女はひび割れてしまいそうだった。そうした、あまりにも薄くて軽いガラス細工のような雰囲気しか彼女は持っていなかった。
それでいてそのガラス細工は、毎日、にわか雨に降られているかのように、いつもその表面を塩辛い水で濡らしているのだった。
ほら、今日も彼女は泣いている。
「ご、ごめんなさい。私、怖くて……」
嗚咽の合間に零す「ごめんなさい」を、プラターヌはこれまで何度聞いたかしれなかった。
彼女の謝罪は呼吸のようであったから、いちいち数えようがなかったのだ。
「大丈夫だよ、落ち着いて。ボクは君を責めたりしないからね。一体、何がそんなに怖かったんだい?」
「だって、皆が楽しそうにしているんです。大勢の話し声が聞こえて、笑っていて、ふざけ合っていて、でも、私は一人で……」
皆が楽しそうにしているという恐怖。大勢の話し声が聞こえるという恐怖。彼等が笑っているという恐怖、笑いながらふざけ合っているという恐怖。
そうした賑やかな世界の中でたった一人、沈黙を貫かなければならないという、恐怖。
「大丈夫だよ。此処には君の怖がるものなんか何もないからね」
プラターヌはこの少女の言わんとしてることがとてもよく解ってしまった。
理解を求めるのは彼女の言葉は些か足りなさすぎるものがあったのだろう。それでもプラターヌには理解できた。解ってしまったのだ。
魂の相似、というものがあるとすれば、おそらくこの二人の間にピンと張られた糸のことをそう呼ぶのだろう。
「夜顔」と彼女は口を開く。彼が首を傾げれば、少女はこの禁じられた森に映える眩しく白い複数の月を指差して、ぽつりと呟く。
「夜顔、今日も綺麗ですね」
彼女の足元、彼女の涙に濡れる白い花は、今日も眩しく美しく咲いている。夕方に開き、明け方に萎むその花は、プラターヌよりも長い時間、ずっと彼女に寄り添っている。
夜顔の方が、プラターヌよりもずっと多く、彼女の涙を引き取っている。
「そうだね、とても綺麗だ。これだけ綺麗なのだから、泣いてしまっても仕方がないよね」
涙を全面的に肯定する彼の言葉に、少女は安堵したようにぽろぽろと涙を零した。
恐怖しても、安堵しても、謝罪しても、感謝しても、やはり彼女は泣くのであった。彼女は命を削るように泣いていた。そうした子であった。
2017.3.16