少女が泣いている。嗚咽を噛み殺すこともせずに、声をあげて泣いている。
扉に凭れるように背中を預けて崩れ落ち、メゾソプラノの声音で小さな慟哭を紡いでいた。私は息を殺してその少女が泣き止むのを待っていた。
あまりにも苦しそうに涙を零すものだから、私は先程までの高揚と歓喜などすっかり忘れて、ただ茫然と、その少女の声を聞いているしかなかったのだ。
この城に、人がやって来た。
私よりも少し年下の、背の低い女の子だった。
10年振りの来客は、私の呼び掛けに反応し、近付いてきてくれた。
鏡台の鏡に浮かび上がった顔には流石に驚いたようだけれど、慌てて立ち上がったその少女に、私は正直に言葉を紡いだ。
「こら、逃げないでよ。折角、久し振りに人間がやって来たんだから、少し話を聞かせて」
久し振り、なんてものではなかった。
人の形をした生き物が、私達を見ても悲鳴を上げて逃げ出さない。それはまさしく奇跡のように思われた。
二人のダークが待ち続けた、私達が思い続けていた、まだ見ぬ勇敢な「誰か」が、こうして目の前にやってきて私と話をしているのだ。これを奇跡と呼ばずに何と呼べよう。
「貴方も喋るのね。私、シアっていうの。お姉さんは?」
「私?見れば解るでしょ、鏡台よ。一応、トウコっていう名前があるわ。好きに呼びなさい」
自己紹介を紡ぐ私のアルトの声音は、震えてはいなかっただろうか。泣き腫らした少女、シアの目を見据えながら、私はこちらが泣き出しそうになるのをぐっと堪えていた。
最後の最後に、運命って奴はとんでもない悪戯をやってのけてくれた。異形の姿をした私達を、恐れずに向き合ってくれる「誰か」が、ようやく現れたのだ。
この少女は、先程この城にやってきたあの美しい少女とは違う人間だった。
いなくなった少女を追い掛けて、森の中を彷徨っていたところを、これ幸いとジュペッタがこの城に呼んだのだろう。
暗い城の中を歩き回り、隣の部屋でグランドピアノの姿をしたNと話をして、外套掛けの姿をしたダークの後ろを付いて歩いていた。そこまでは知っていた。
けれど、どうして私の部屋にこの少女が住むことになってしまったのだろう。
「それで、その子を迎えに来た筈のあんたが、どうしてこの部屋で目を真っ赤にして泣いているのかしら」
私の部屋、とは言わなかった。
おそらく、この部屋が少女に用意されたのは全くの偶然だろう。
以前の城の姿を忘れかけていたゲーチスは、この部屋が、ゼクロムに選ばれた英雄である私に用意されていたものであることに気付かなかったらしい。
けれど、おかげでこの少女に出会うことができた。面白い方向にばかり傾く偶然に感謝しながら、私は次の彼女の言葉を待った。
彼女は少し躊躇った後で、丁寧に、しかし悲しそうに事の一部始終を話してくれた。
あの美しい少女、シェリーを探して森に入り、この城を見つけたこと。暗い城の中を歩いていたらNと出会い、外套掛けの姿をしたダークに地下へと案内されたこと。
燭台の姿をしたダークに階段を照らしてもらいながら地下へと降りて、牢屋に閉じ込められているシェリーを見つけたこと。
シェリーの代わりに、自分がこの城にずっと住むことを約束して、彼女を逃がしてもらったこと。燭台のダークの計らいで、この部屋が自分のために用意されたこと。
「……」
私は言葉を発することを忘れていた。
まさか、この小さな少女は、友達を牢屋から出すために自らこの城に残ったというのだろうか。
勇敢、なんてものではなかった。その有り余る度胸と思いやりが為してしまった強烈な自己犠牲に眩暈がして、私はその動揺を隠すように声をあげて笑い始めた。
「何、それじゃあその子の代わりに、あんたがこの城に残ることになっちゃったの?ゲーチスにクロバットの翼を突き付けて、あいつを脅すような真似をして?」
ああ、おかしい!と、私は笑い続けた。こんなに笑ったのは久し振りだった。
この少女はあまりにも変わっている。この10年間、城にやってきた20人の女性が取って来たどの行動も選択せずに、彼女は自由に、勇敢に、無謀に動いたのだ。
21人目の少女は、「変わり者」だった。そのことがどうしようもなく嬉しかった。気を抜けば涙が溢れてしまいそうだった。
もう、いいんじゃないかな。私はふと、そんな風に思った。
どうせ、ゲーチスがこの少女に愛されることなどない。
自らの友達を閉じ込めて、その身代わりとなった少女に、理不尽にもこの城に永久に住むことを誓わせた、あの人ならざる姿をした男のことを、愛せる方がどうかしているのだ。
不思議な光る薔薇はもう散り始めている。もう時間など、ある筈がない。私達はきっと戻れない。この呪いは解けない。
それならせめて、この変わり者の少女と友達になりたかった。この、勇敢で無謀で度胸のある優しい少女を、ゲーチスは愛せなくとも、私は愛したかった。
私は最後まで、人間で在りたかった。
「あんたのしたことはとても立派よ。城の奴らに嫌がらせをされたら直ぐに言いなさい。私があんたを守ってあげる」
その言葉に少女は驚いたように目を見開いた。
その澄み切った青い目はNを彷彿とさせたけれど、やがてその深い海のような目が、波を運ぶようにぼろぼろと涙を零し始めたので、私は呆れたように笑ってやった。
そうして、私とその少女、シアの生活が始まったのだ。
*
10年振りの来客を、城の皆は手放しで歓迎した。
埃の溜まっていた廊下を、箒の姿をした使用人たちが綺麗に掃除し始めた。調理器具の姿をした料理人たちは、腕を振るって彼女に朝食や軽食を用意した。
更に驚くべきことに、ゲーチスが彼女に「夕食を共にすること」を強要していたのだ。私はシアが着ていくためのドレスを選びながら思った。
……ゲーチスも、私達と同じように、その異形の姿に臆さない人間がやって来ることを待っていたのではないか、と。
彼もまた、そうした人間が自分と向き合ってくれることを期待していたのではないか、と。
けれど、自分をこの城に閉じ込めた相手と、そう簡単に打ち解けられる筈もなかった。
歪な彼の心から放たれる棘のような言葉は、この優しい少女をかなり鋭く切り付けてしまったらしい。
履き慣れていないと言っていた高いヒールが、ぎこちない足音を立てて私の部屋へと近付いてくる。バタン、と勢い良く扉を開けた少女の目には涙が溜まっていた。
私の「取り敢えず、品よく振舞っておけ」というアドバイスを生かせなかったことを謝罪しながら、彼女は淡い青のドレスにぽたぽたと涙の染みを落とした。
この少女の泣く姿は、痛々しい。
聞く人を絶句させてしまうような弱々しい嗚咽と、ゲーチスに啖呵を切ったその勇敢さと度胸を微塵も感じさせない、ひどく疲れ切ったその目が、あまりにも悲しく、苦しい。
私が泣いても、こんな儚さと危うさは出せないだろうと思う。きっと、この姿には流石のゲーチスも狼狽えたに違いない。
そんなことを思いながら、私は一つの提案をする。
「どうせ、あいつに傷付くことを言われたんでしょう?それなら、あんたからも言い返してやればいいわ。
最低限の礼儀を持ち合わせていない奴に、淑女を見せる必要なんかないわよ。思い切り、あんたの言いたいことをいってやりなさい」
その提案をする私の目は、きっと輝いていたことだろう。
友達であるシアにこんな涙を零させたあいつが許せなかったのかもしれない。人を傷付けることしか知らないあの馬鹿は、一度、痛い目を見るべきだと思ったのかもしれない。
いずれにせよ、その提案にシアの涙は止まった。そのことに私は満足していた。
腕を切り付けられても屈しなかったこの勇敢な少女が、ゲーチスに言いたいことをはっきりと紡ぐことはそう難しいことではないと信じていた。
きっと明日は、晴れやかな顔をしてこの部屋に戻ってきてくれるに違いない。私は愚かにもそう考えていた。
私は忘れていた。彼女は自らの友達の代わりにこの城に残ったこと。誰かのためなら自分の人生を棒に振れる程の、あまりにも残酷な優しさを持ち合わせていること。
だから翌日、彼女がもっと酷い顔をして扉を開けたことに、息が詰まるような苦しさを覚えたのだ。
言いたいことが言えなかったのか。またゲーチスに酷い言葉を投げられたのか。
私のその問いに、シアは泣きながら否定の言葉を紡いだ。じゃあ、どうして泣いているの、とは聞かなかった。聞かずとも、解ってしまったからだ。
彼女は、自分が紡いだ言葉で、あの最低な男を傷付けることにすら痛みを覚えている。
その事実にくらくらと眩暈がした。ああ、この少女は、あまりにも。
「あんたは優しすぎるわ。ゲーチスには、勿体ない」
その言葉に、彼女はドレスの袖口で涙を拭いながら首を横に振った。
もし、シアにこの城の呪いを解いてほしいと願うなら、私は彼女に前向きな言葉を掛けるべきだったのだろう。
いつか彼ともまともに話ができる日が来るからと、彼との対話にマイナスのイメージを持たせないような言葉を選び、明日に希望を持たせるべきだったのだ。
けれど私はもうこれ以上、この優しすぎる少女に傷付いてほしくなかった。彼女の涙を、これ以上見たくなかった。だって、あまりにも痛々しいのだ。
それに彼女と話をしている間、私はこの城にかけられた呪いのことも、自分の姿のことも全て忘れることができた。
私は私で在ることを忘れられた。それはあまりにも幸福な時間だった。
だから、私にこんな優しい魔法をかける、この小さな少女の背中を、どちらの方向に押せばいいのか迷っていた。何もできないまま、私はただ、彼女の嗚咽に寄り添っていた。
けれど、私が背中を押さずとも、彼女は自らその足を動かし始めたのだ。
2015.5.29