7'

「あの、すみません……」

私と同じくらいの、若い女性の声だった。私達は息を潜めて、その女性の存在を静かに窺っていた。
誰からも認識されない筈のこの城に、どうして人が足を踏み入れているのだろう。

「このジュペッタのトレーナーさん、いませんか?」

その言葉に、私は鏡台の底の部分を少しずつ浮かせるようにして部屋から出て、静かに廊下を歩いた。
階段からそっと1階の様子を窺えば、彼女はその膝元に1匹のポケモンを連れていたのだ。
その姿には見覚えがあった。ダークの一人が連れ歩いていた、ジュペッタだ。ケタケタと特徴的な笑い声を上げながら、ジュペッタは彼女の隣を歩いている。
ジュペッタが彼女を連れてきたのだろうか?けれど、どうして?

そこまで考えて、私の頭には一つの仮説が浮かんだ。
……あの、ゲーチスに忠誠を誓うダークならやりそうなことだと思いながら、私はその女性がこの城でどのような行動に出るのかを静かに見守ることにした。
けれど、それは叶わなかった。何故なら3階へと続く階段から、声が聞こえたからだ。

「何の用だ」

その、地を這うようなバリトンが、ゲーチスのものだと気付くのに時間を要した。
もっとも、その変わり果てた顔に、あの見慣れた赤い隻眼が埋め込まれていなければ、私も彼だとは気付けなかっただろう。
女性は声のする方を見上げたが、その主を目の捉えた途端、先程までの怯えたような声音から一転し、大きすぎる悲鳴を上げて逃げ出した。
ゲーチスは彼女を追い掛けようと階段を駆け下りたけれど、その足音に気付いたのか、少女は扉の方へと走りながら叫ぶ。

「来ないで、化け物!」

その瞬間、外の雷が窓から差し込み、ゲーチスの姿を照らした。私は初めて、ゲーチスがどのような姿をしているのかを見るに至ったのだ。
人ともポケモンともつかない、獣のような姿だった。大きな手からは鋭い爪が伸び、長いたてがみは無造作に結ばれて背中に流れていた。
彼は悲鳴を上げて逃げ帰る女性を茫然と見ていたが、やがてその姿が消えると、射るような目で私の方を一瞥した。
その、人を刺すような視線だけは変わっていなくて、私は思わずいつものように笑ってみせた。

「その魔法使いとやらは、とてもいいセンスをしているわね」

次の言葉を聞く前に、私は扉を押し開けて自室へと飛び込んだ。開閉のできる鏡を手のように使って、扉を閉める術はもう身に付けていた。
私は広い部屋の中を歩き、もう随分と使っていないベッドの傍の壁に凭れるようにして動きを止めた。

ああ、お似合いね、ゲーチス。その姿、とてもよく似合っているわ。まるで、あんたの心をそのまま鏡に映したみたい。
そう呟きながら、私は自分の鏡に水滴が伝っていることに気付いた。こんな姿でも、顔に付いた目は涙を流すのだと、その事実がおかしくて笑おうとしたけれど、できなかった。
それは絶望という名の、辛くて苦い透明な血だったのだ。

誰が、あんな奴を愛してくれるというの?あんな、人を射殺すような荒んだ目をしたあいつを、あんな、恐ろしい姿をした、人ならざる存在を、誰が。
その問いはつまり、私やNが永遠に元の姿に戻れないということを示していた。そのように認識することで、益々辛くなるのは解っていた。
けれど私もそろそろ、諦めることを覚えるべきだと思ったのだ。
いつか、誰かがやって来て、あいつに愛を手向けてくれる。あいつも、その人をきっと愛してくれる。
そんな机上の空論を、柔い理想論を、そろそろ手放してもいい頃だ。私はもう、この姿のままで生き続けるための覚悟を決めるべきだ。

だってこの城には、愛などないのだから。

それからというもの、この城には、半年に一度のペースで女性が姿を現すようになった。
その殆どが、動く家具や恐ろしい姿をしたゲーチスの姿を見るだけで逃げ出した。中には怪物と見間違えてポケモンを繰り出し、ゲーチスを攻撃しようとする者までいた。
私達やゲーチスと、まともな会話をしようとした者はただの一人もいなかった。それでも、忘れたころにまた別の女性がやって来る。隣に、ジュペッタを連れて。
私には、それが誰の仕業であるのか解っていた。

「あんたも飽きないわね。これで11回目よ。毎回、甲高い悲鳴を聞かせられる方の身にもなってほしいわ」

女性が逃げ帰った扉を閉める、置時計の姿をしたダークに、私は階段の上からそう話し掛けた。
もう、この1階のホールが賑やかであった時のことを、私は忘れかけていた。5年余りの月日は、その当時の記憶を簡単に薄めてしまっていたのだ。
このまま、私が人間であったことさえも忘れていくのだろうか。この苦しみが、辛さが、寂しさが、当たり前になっていくのだろうか。
それでもいい気がした。寧ろ、そう在らなければならなかったのだ。

「あんたのジュペッタでしょう?近くの町や村に住む女性を、この城に連れてきているのは」

「正確には、ジュペッタとアブソルが、だ」

その言葉に私は目を見開く。アブソルは外套掛けの姿をした、ゲーチスをいたく慕っているダークの手持ちだった。……成る程、あいつも共犯だったのか。
つまり、この二人のダークはどうにかしてこの城を元に戻そうと、ポケモンを町や村に送り、若い女性を城へと連れ込んでいる、という訳だ。
ジュペッタやアブソルの誘導があれば、その人間にはこの城が見えるようになる。
一度に多くの人間が姿を消せば怪しまれてしまうため、半年という長い期間を置いて、向かわせる村や町もその都度変えて、彼等は女性をこの城へ呼んでいたのだ。
この城が本来の姿を取り戻し、私達が人間に戻るまで、二人の試みは続くのだろう。全てはこの城の呪いを解くためだ。
その女性がゲーチスに愛されることを、ゲーチスを愛してくれることを期待して、彼等は何度もジュペッタやアブソルを送り出していたのだ。

「くだらない。さっさと諦めちゃえばいいのに。そんなにあんた達はゲーチスのことが好きなの?」

「……もう一人のダークはそうかもしれないが、俺は決して彼を崇敬している訳ではない。寧ろ、俺のためだ」

その言葉に私は息を飲んだ。
今、女性の甲高い悲鳴がまだ耳に残っているまさにこの時というのは、半年に一度のチャンスが、またしても残酷な音を立てて踏み潰された瞬間だったのだと、知る。
俺のためだと簡潔に語ったダークの、その胸に宿った熱い思いが、半年間、次こそはと膨らませ続けてきた希望が、粉々に砕け散ったまさにその瞬間だったのだ。
外套掛けの姿をしたダークは、ゲーチスのために。置時計のダークは、自分のために。その思いがあまりにも熱くて、眩しくて、目が火傷をしてしまいそうだった。
そして置時計のダークは私へと向き直り、残酷な質問を投げる。

「では聞こう。何故お前は11回目だと知っている」

「!」

「これで女性が逃げ帰るのは、確かに11回目だ。だがそんな「くだらない」ことなど忘れてしまえばよかったのではないか?……お前が、本当に諦めているのなら」

その言葉は、鋭利なナイフのように私の心を突き刺し、抉った。
そうだ、私だって期待していた。半年ぶりにやって来た人間が、どんな悲鳴を上げて逃げ帰るのかと楽しみにしているつもりだったけれど、実際はそうではなかった。
寧ろ、この呪いの城に怯えることなく、真っ直ぐに私と、私達と向き合ってくれる人間を望んでいたのだ。次こそはと、彼等と同じように期待していたのだ。

そして、そんな風に思っているのはきっと、私だけではない。
暗闇の中に息を潜めていて見えないだけで、半年に一度だけやって来る侵入者の姿を、その行動を、城に住む殆どの人間が見守っている。
そうして繰り返される期待と落胆、めくるめく希望と絶望に、私達は疲れ切っていた。
けれど「こんなこと、もう止めよう」と心から彼等を止められる人間も、この場には一人もいなかったのだ。

解っていた。この城には愛があること。けれど決してその愛は、あの歪な心を持った男には届かないこと。

だから私達は、待っていたのだ。あの歪な心に愛を教えてくれる誰かを。異形の姿をした私達と、恐れずに向き合ってくれる誰かを。この城の呪いを解いてくれる、誰かを。

あれから、更に5年が経とうとしていた。
時間は有限ではなかった。あの魔法使いが残していったという薔薇は、10年という時の流れの中で徐々に散り始めていたのだ。
これが、最後のチャンスかもしれない。誰もがそう思っていた。二人のダークは、城の東にある静かな村にジュペッタとアブソルを送った。
やがてやって来たのは、とても美しい少女だった。年齢にして15歳くらいだろうか。まだ幼さの残るその目が、怯えたように暗い城の中を見渡していた。

いつものように、彼女は私達の姿を見て逃げ出した。
けれど、10年という月日は、城のあちこちに影響を与えていたらしい。以前は女性でも開けることのできていた筈の扉は、その少女が懸命に引いてもびくともしなかった。
おそらく、扉の金具が錆びついてしまっていたのだろう。少女は扉を開けることを諦め、迫る燭台から慌てて距離を取り、逃げるように階段を駆け上がった。

「助けて!助けてください!」

この10年間で、19人の女性がこの城を訪れていた。けれど彼女たちはいずれも、1階のホールで踵を返し、悲鳴を上げて逃げ帰っていたのだ。
20人目にして、ようやく城に人が「やって来た」のだ。そのことがおかしくて私はクスクスと笑った。
神様とやらも、最後の最後で私達に希望を持たせてくれるなんて、面白いことをしてくれる。
どうせならこの事件を、楽しく噛み締めていることにしよう。ポットのバーベナを突き飛ばして廊下を走り抜ける少女を見送り、クスクスと笑いながら部屋へと戻った。

この少女の来訪など、これから起こる物語の1ページに過ぎなかったのだけれど。


2015.5.29

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