6'

そうして1年が経過しようとしていた、ある日のことだった。雨が強く窓を打ち、分厚い雲の隙間から雷すら轟いていた。
Nは2階の部屋でピアノを弾いていた。細くて長い指が、鍵盤の上で踊るように舞うのを、私はいつものように眺めていた。

「ヒトを理解することは難しいね。ゲーチスは、特によく解らない」

「安心しなさい。私もあいつのことはさっぱり解らないわ。……解りたくもないけどね」

相変わらずの正直な言葉を宙に飛ばせば、彼はクスクスと笑いながら曲のテンポを緩める。
彼は「難しいね」と言いながら、もうあの歪な人間を理解することを諦めてしまっているように見えた。

「カレはとても優秀な王子だった。ボクなんかよりも、ずっとね。だからこそ、継承者になれなかったことが耐えられなかったのだろう」

……もっとも、ゲーチスを見限ろうとしていたのは、Nだけではない。
専属の執事である3人の男は彼を教育することを放棄し、ただ彼の命に従うだけの僕と成り果てていた。
料理を担当するメイドも、広い屋敷を掃除する使用人も、服を用意する仕立て屋も、あの歪な王子を案じていた。
しかし決して行動を起こそうとはしなかった。彼等はゲーチスを恐れていた。それと同時に、彼の歪んだ心を以前の状態に戻すことを諦めているようにも見えた。
そうして、ゲーチスは孤独を深めていった。

「と言いながら、もう何か月も話をしていないのだけれどね」

「へえ、あんた、嫌われているのね」

「キミ程ではないと思うよ」

そんなことを言ってNはクスクスと笑う。彼はとても表情豊かになった。
以前は人畜無害そうな笑みを常に貼り付けていて、その笑顔から零れる無機質なテノールに恐れを抱く程であったのに、今では喜怒哀楽、様々な色をその目に宿している。
恐ろしい程に澄み切った彼の目が、その輝きをコロコロと変える様を、私は彼の傍でずっと見てきた。
城の人間には、「N様があんなに人間らしくなったのはトウコのおかげだ」と何度も言われた。
適当に思い付いたお世辞にしては、あまりにも多くの人が同じことを言っていたので、その言葉が本心だと解った私は少しだけ困ってしまった。

私は、Nに何かしてあげたことなんてただの一度もない。
それどころか、第二王子である彼にちっとも敬う素振りを見せないまま、時にその長髪を引っ張ったり、足癖の悪さを如何なく発揮して彼を蹴り飛ばしたりもしていた。
友達とするには遠すぎて、恋人と呼ぶには気持ち悪い、そんな関係だった。良くも悪くも気の置けない青年だったけれど、それなりに愛していた。それだけだ。

一つ、確実にしたことがあるとすれば、私がNに「一度も嘘を吐かなかった」という、ただそれだけのことだった。
けれど、おかげでNは私のことを信用してくれた。何もかもを正直に話す私に彼は驚き、けれど少しずつ、人間相応の表情を浮かべるようになっていった。
私は、こいつを人の側へ引き込むことができたのだろうか。

「不思議だね。キミには優しくされた覚えがないのに、キミの傍はとても心地がいい」

そんなことを考えていると、Nがここ数か月で身に付けた新しい表情で私の方を見る。
突然紡がれたそんな言葉に、私の心臓は少しだけ跳ねた。本当に、少しだけだ。


「ヒトを理解することは難しいけれど、ヒトで在ることはそう悪いものではないんだね」


『ヒトは言葉に出さないところで、あれこれと気持ちを巡らせるから厄介だ。』
『ポケモンはヒトと違って、ボク等に嘘を吐くことは決してないんだ。』
出会った当初はそんな冷たいテノールを無機質に並べ、あたかも自分が人間ではないかのような口振りで言葉を発していた彼が今、あまりにも楽しそうに笑っている。
そのことがあまりにも眩しかった。そう思ってしまう私があまりにも滑稽だった。そうした時間すら、あまりにも愛していた。

それが、人間の姿をしたNを見た、最後の日だった。

轟く雷鳴と共にかけられたその魔法は、城の全員を、異形の姿へと変えてしまった。
私は鏡台に、Nはグランドピアノに、よく廊下で一緒に世間話をしていたヘレナは小さな羽箒に、白髪の男たちはそれぞれ燭台、外套掛け、置時計に。
夢でも見ているのかと思った。けれど夢にしてはあまりにも鮮明な木の感触と、グランドピアノに付いた、見慣れたNの顔が全てを物語っていた。
これは、覚めることのない悪夢なのだと。

『ゲーチス様が魔法使いの怒りを買われた。』

そんな情報が城中に伝わった。
私は2階の自室にいたため、魔法使いとやらの姿を見てはいなかったが、ゲーチスの傍にいつも付いていた一人のダークがそう証言していた。
魔法使いは、城に不思議な手鏡と一本の光る薔薇を残して去っていったらしい。

『この薔薇が全て散ってしまうまでに、この醜い心を持った男が優しさを、労る心を、そして愛を知り、誰かを愛し愛されたなら、呪いは解けるだろう。』

ダークが紡いだ魔法使いの言葉に、家具や食器、楽器となってしまった城の者たちは驚き、ただ困惑するばかりだった。
混乱の渦に落とされた私達を、冷静にさせてくれる人間はこの場にはいなかった。
当時、殆どの大臣や王族の人間が城を開けていたため、この凄まじい呪いを受けた王族はNとゲーチスだけだったのだ。
それでいて、彼等自身も異形の姿に変えられてしまっている。これで落ち着けと言う方が無理な話だ。
Nはグランドピアノとなってしまった大きな身体を壁にぶつけないようにと必死だったし、ゲーチスの姿は何処にも見当たらなかった。
取り敢えず、先に落ち着きを取り戻した使用人の間で相談がなされ、明日、王や大臣たちが返ってきたら現状を速やかに報告し、協力を仰ぐことが決まった。
けれど、この呪いがいかに質の悪いものであるかと、私達は翌日、嫌という程に思い知ることになる。

戻って来た王や大臣は、変わり果てた城の使用人やNの姿を見るなり、悲鳴を上げて逃げ出してしまったのだ。
いくら私達が事情を説明しようと口を開いても、それは彼等の絶叫に掻き消されるだけだった。実力行使で口を塞ごうとしたが、更に恐れられてしまったのだ。
この姿では正常なコミュニケーションを取ることすら不可能。突き付けられた現実は、絶望という名の眩暈の中でゆらゆらと揺れていた。
城に戻って来た人間は、動く私達の姿を見るなり、悲鳴を上げて逃げ帰ってしまう。この城が完全に孤立してしまうまで、そう時間は掛からなかった。

更に魔法使いは、この城自体にも大がかりな魔法を掛けてしまったらしい。
大きな窓が並ぶ廊下は、何故か昼間でも少ししか日が差すことがなく、いつも薄暗い。雲がかかろうものなら夜かと見紛う程の暗さだった。
城の周りにあった美しい庭は、薄暗い森の木々にすっかり飲み込まれてしまっていた。大きな鉄の門だけが、城と外界を遮断するように残されていた。

道具となってしまった私達は、人間の生活を完全に奪われていた。
いつになってもお腹が空かない。眠らなくても翌日に疲れを持ち越すことがない。手も足もない姿では、まともに歩くこともままならない。
外套掛けや箒の形をした者は、まだ動きやすそうではあったけれど、ものによってはろくに動けない人物も出てきた。
Nのグランドピアノがその最たる例で、彼は余程のことがない限り、あの部屋の中央から動こうとはしなかった。
幸いにも、私達には顔が残されていた。言葉を操り、思考することができる。けれどその思考できる筈の頭は、有効な解決策を導き出してはくれなかった。

『この薔薇が全て散ってしまうまでに、この醜い心を持った男が優しさを、労る心を、そして愛を知り、誰かを愛し愛されたなら、呪いは解けるだろう。』

だって、誰が愛してくれるというの?あの、歪な心を持った人間を。
私達は絶望していた。憤ることすら忘れていた。鏡台となってしまった自分の身体を認めたくなくて、頭を麻痺させていたのかもしれない。

ゲーチスはあの日以来、5階の自室に閉じこもり、出てこようとしなくなった。外套掛けの姿をしたダークしか、彼に会うことを許されていない。
彼がどのような姿に変えられてしまったのかを私は知らなかった。
人間であった頃の彼は、目つきこそ悪いものの、それなりに整った顔立ちをしていたけれど、どうやら魔法使いとやらは、その顔を無慈悲にも変貌させてしまったらしい。
彼がどんな姿になっていたのか、興味がなかった訳ではなかった。けれど、とてもではないが見に行こうとは思えなかった。
5階までの階段を、この姿で上りきれるとはとても思えなかったし、何より私達をこのような運命に陥れた、その原因であるあいつの顔なんか、もう見たくなかった。

時が止まったかのように、時が流れ続けていた。

ゲーチスのためだけに用意され続ける料理、廊下に溜まっていく埃、陽に焼けて色褪せていくカーテン。それが私達の全てだった。
外套掛けの姿をしたダークが、週に一度、ローブを羽織り、姿を見られないようにして町へと買い物に出かける他は、人の出入りなど全くなかった。
城は孤独の色を増し、私達は孤独の痛みに慣れ始めていた。

買い物に出かけたダーク曰く、この城は「見えないようになっている」らしい。町では専ら「城が一夜にして消えてしまった」と噂になっていた。
彼等には、変わり果ててしまったこの城が見えないのだ。おそらくそれも、あの魔法使いがかけた魔法なのだろう。
誰もこの城の存在を、この城に住む異形の私達を認識することはない。この城には誰も辿り着けない。
そうしてこの城は、誰彼からも忘れられていくのだと思っていた。

しかしある日、この城に一人の女性が訪れたのだ。


2015.5.29

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