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「継承者は、ゲーチスとボクになる予定だったんだ」

城の2階、グランドピアノという、黒い大きなテーブルのような楽器を弾きながら、Nはそう説明した。
私はそのテーブルのような部分に頬杖を付いて、彼の演奏を聞いている。白と黒の板を指で叩くだけで、星が落ちるような綺麗な音が鳴るのだ。
勿論、私が同じように叩いたところで、こんな綺麗な曲にはならない。当然のようにNは指を踊らせるが、かなりの練習を積んでここまで上達したのだろう。
ピアノを弾きこなすのも王子に求められる技量の一つなのかと尋ねたが、「ボクの趣味だよ」とのことだった。
この黒い板に手を付けていると、楽器の音が肌にも伝わって来る。その小さな振動が心地良くて思わず目を細めた。

「けれど、ゲーチスの手にダークストーンは反応しなかった。ゼクロムは、ゲーチスを選ばなかったんだ」

英雄になれなかった、Nの双子の兄に対して、城の皆は腫れ物に触るように接している。その空気にゲーチスが気付いていない筈がない。
Nが彼等の緊張を理解しているかは怪しいところだけれど、ゲーチスはポケモンの声が聞こえない代わりに、人の心はある程度読むことができそうな人間だった。
だからこそ、そうして自分に気を使う皆のことを、彼はひどく嫌い、憎んでいるようだった。
話し掛ける全ての人間を拒絶し、その射るような鋭い隻眼で蔑むように睨み付けるのだ。

全身に棘を纏っているようなあの男を、私はどうしても好きになれなかった。
長い時間、知り合っていれば、当然のように情も沸くものだと思っていたけれど、それはあいつに限っては当て嵌まらなかったらしい。
寧ろ、城の中でゲーチスと擦れ違う度に、私のあいつに対する、嫌悪の火は強く燻り、燃え上がり続ける始末だった。
けれどそれと同時に、私の中で、彼への好奇心も燻り続けていた。
自分からは決して口を開かない彼についてのことを、彼の弟であるNの口から聞いておきたいとさえ思った。
Nが稀有な力を持ち、それ故にアンバランスな人格を形成しているのと同様に、彼にも何らかの歪さを見ることができるのではないか。私はそんな風に考えていたのだ。

「あんたは解っているんでしょう?ゼクロムの声が聞こえるあんたなら、どうしてゲーチスが選ばれなかったのか知っている筈よ」

「……キミに隠し事はできないね」

Nは白と黒の板を叩いていた指を止め、困ったように微笑んで肩を竦めた。
そうして彼の口から紡がれた言葉に、私はまたしても素っ頓狂な声をあげることになってしまう。

「カレは愛を知らないそうだよ」

「は?」

愛。
Nの口からそんな言葉が出てきたことへの驚きに絶句する。
愛を知らない。彼の言いたいことは理解できたけれど、しかし愛とやらが、ゼクロムの継承者となるのに必要なのだろうか。
そんなもの、なくたって大した問題ではないような気がするけれど。

「予想外だわ。もっと「他人を労る心がない」とか「優しさの欠片もない」とか、そういう理由だと思っていたのに」

トウコ、それは誤解だね。ゲーチスは決して、血も涙もないような非情な人間ではないんだよ」

……いや、どう考えてもそうでしょう。
視線でそう訴えようとしたが、こいつは人の心を読めない。顔色や声音、視線から何かを窺うということを知らない。
だからこそ、声に出して伝えようとしたのだが、私がそう告げる前に、彼は困ったように笑って続きを紡いだ。

「キミは、ゼクロムを継承しようと試みる前のゲーチスを知らないから、余計にそう思うのだろうね」

「前は、そうじゃなかったっていうの?」

「少なくとも、誰彼構わず、あんな風に無言で睨み付けたり、辛辣な言葉でヒトの心を刺したりするような真似はしなかった。絶望や屈辱は容易に人の心を折るからね」

ゼクロムに選ばれなかったことへの絶望と、双子の弟であるNがレシラムを継承してしまったことへの屈辱。ゲーチスの心はその二つにより歪んでしまったのだという。
……まあ、その二つの感情が彼を蝕まなかったとしても、彼はろくな人間になっていなかっただろうけれど。
そんなことを考えながら、私はふと、妙なことに思い至る。
『カレは愛を知らないそうだよ。』
Nの言葉を脳内で反芻し、私は眉をひそめた。どうしたんだいとピアノの白と黒の板に指を置いたまま尋ねるNを、私は怪訝な表情で真っ直ぐに見据える。

「……ちょっと待って、ゲーチスは「愛を知らない」から選ばれなかったのよね。それなら、私はどうなの?私は誰かを愛したことなんかないわ」

「でも、キミは自分が愛されていることに気付いている。キミも、意識していないだけで、ちゃんと愛せているんだよ。ゼクロムはそれを見抜いたんだ」

少しだけ気持ち悪いことを言ってNは微笑んだ。
私が、愛されている。私が、愛せている。普段は滅多に使うことのない「愛」という単語が、他でもない私を示していることに驚き、困惑する。
私自身ですら気付いていなかった「愛」という感情を、ゼクロムは私の中に見ていたのだ。
ポケモンは人の言葉を理解するけれど、同時に人の心までも読む力を持っているのだろうか。それとも、ゼクロムやレシラムが特殊なだけなのだろうか。

私は誰を愛し、誰に愛されているのだろう。

愛されているという自覚はあった。一人娘である私を、両親は本当に大事に育ててくれたから。
パートナーであったダイケンキも、私を慕ってくれていた。町の皆にも特に嫌われることもなく、毎日を過ごせていたと思う。
この城でも、長く住めばそれなりに情が沸く。愛着とでも呼べそうなそれを、私なりの「愛」と呼ぶのなら、私は確かに愛され、愛することができていたのだろう。
ゲーチスには、その感情がない。それはひどく悲しいことであるような気がした。

「……ゼクロムは、私以上に私のことを知っているのね」

「ポケモンには、そうした不思議な力が宿っているものだからね」

「それじゃあ、今、ゼクロムの声を聞いてみなさいよ。私がNを愛しているかどうか、ゼクロムなら簡単に解るんでしょう?」

私は仕事服であるエプロンドレスのポケットから、ゼクロムの入ったモンスターボールを取り出してNへと差し出した。
どうやら私の感情は、私よりもこいつの方がよく知っているらしい。それならば、Nを介して、私の心を覗いてもらうのもまた、面白いかもしれない。そう思ったのだ。
私は、小さなボールの中に収まっている漆黒の身体に問い掛ける。

ねえ、ゼクロム。私はNのことが好きなの?彼を愛しているの?

自分のことを第三者に尋ねるのは、ひどく勇気のいる滑稽な作業だった。けれど、止められなかった。
城の皆に沸いた愛着と同じように、私はこのおかしな青年のことも好きになり始めていた。
数学とポケモンが恋人のようなこの変人に、それなりの面白さと愛しさを見出していたところだったのだ。
これは愛なのか?愛だとして、彼は私のことをどう思っているのか?
面白い答えが返ってくることを望んでいた。彼を愛しているのだと言われれば、それを鵜呑みにしてしまえる程にはきっと、もう既に彼を愛していたのだ。

けれどNは首を振り、私の高揚を汲み取ったかのように、とても楽しそうに笑ってみせたのだ。

トウコ、それはゼクロムの声を聞くまでもないことだよ」

「……人の心は読めないんじゃなかったの?」

僅かに頬を赤らめてそんなことを言うものだから、私は慌ててそう返した。少し不機嫌なトーンで紡ぐ私の頬は、きっと彼と同じように赤らんでいる。
聞くまでもないこと、だなんて、思い上がりもいいところだ。けれどその当人である私は、その思い上がりが他でもない「真実」であることを知っていたのだ。
……そう、ゼクロムに問うまでもなく、私はこの、どうしようもなくアンバランスで歪な、けれどとても純粋で、恐ろしいくらいに澄んだ目をした青年のことを。

「そうだね、ヒトの心は複雑でとても難しい。けれどキミのことはよく解るんだ。キミが、嘘を吐かないからかな」

「……」

「ボクも、キミが好きだよ」

私は大嫌いよ、とは言わなかった。だってこいつには、嘘を吐かないと誓っていたからだ。
代わりにその鮮やかな長髪をくいと引っ張り、Nの顔をこちらに近付ける。その耳元で「物好きね」と囁いてクスクスと笑ってやった。


2015.5.29

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