「……私は、」
ようやく絞り出したその声は、自分のものとは思えない程に弱々しいものだった。
白いシャツを着た青年は、私の言葉の続きを待つように小さく首を傾げている。
私はこいつの前で弱々しい声音を紡いでいることに耐えられなくなって、乱暴な深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
「私は、ゼクロムのことが嫌いな訳じゃないわ。ゼクロムを見に来た人間が、煩く騒ぎ立てることにうんざりしているだけ」
そうか、と彼は安心したように笑い、踵を返してゼクロムの方へと歩き出した。
その鋭い、射るような赤い目で青年を見下ろしていたゼクロムは、しかし彼がその身体にそっと触れるや否や、そっとその目を閉じて身を委ねるように翼を下げたのだ。
彼はゼクロムの方を見上げたまま、私に向かって言葉を紡ぐ。
「もっと早く、それをゼクロムに伝えてあげるべきだったね」
「!」
「ヒトは言葉に出さないところで、あれこれと気持ちを巡らせるから厄介だ。キミの気持ちをゼクロムに伝えてあげていれば、彼の憂いも晴れたというのに」
そう告げた彼の言葉に強烈な違和感を覚えた。
『ヒトは言葉に出さないところで、あれこれと気持ちを巡らせるから厄介だ。』
まるで、自分が人ではない、もっと別の存在であるかのような言い方をするのだ。そう、もっと別の、それこそ、自分が人ではなく、ポケモンであるかのような言い方だ。
そう思ってしまった自分が信じられなくて、私は思わず両手を握り締めて俯く。
こんなことを考えるなんておかしい。彼は紛れもなく、人間の姿をしているのに。
少し背が高くて、珍しい緑色の髪をしていて、頭のネジが外れているかのような物言いをするけれど、その四肢も、顔も、間違いなく人間の造りをしているのに。
まるで「そう造られたことが間違いだった」とでも言うように、彼は「ヒト」を嫌煙する。私と彼との間には、明確な線引きが為されている。
私と彼とは相容れない。それは、私と彼とが違う人間である以上、当たり前であることの筈だった。
けれど、彼が「ヒト」を否定するから、彼が引いたその線が、私が思っていたよりもずっと深い溝となって私達を隔てていることに気付いてしまったから。
だから、私は耐えられなくなった。
「同じでしょう?私もあんたも、人間だわ」
「……そうだね、ボクはヒトだったね」
まるで自分が「ヒト」であることを忘れていたかのような物言いに、私の心臓は大きく跳ねる。
人畜無害そうな笑みを湛えた彼が、その笑顔のままに私を、「ヒト」を拒絶する様は、私の目に強烈な温度をもってして焼き付いていたのだ。
彼は人間が嫌いなのだろうか。それとも、自分が人間であることが嫌いなのだろうか。
解らなかった。このおかしな青年のことなど、何一つ解らなかった。
「ゼクロムは、安心してくれたの?」
「え……?」
「そいつ、私のことを心配していてくれたんでしょう?私にはゼクロムが何を言っているのかなんて解らないから、代わりに聞かせなさいよ」
だからこそ、彼のおかしな言葉の中から、私は彼の真実を拾い上げて組み立てていく必要があった。
面倒なその作業こそが、この得体の知れない人物である青年を理解するための方法なのだと信じていた。
彼はその澄み切った目を見開いて驚きの様相を呈したけれど、やがてクスクスと肩を小さく震わせて笑い始めた。
「キミはボクの言葉を信じるんだね」
笑い声の合間に零されたその言葉に、私は不機嫌そうな視線を向ける。
残念なことに、「ポケモンの声が聞こえる」などという戯言を、私は信じざるを得なくなっていたのだ。
この、何処にでもいそうな平凡な青年に、レシラムの継承者たる素質が備わっているとはとても思えなかった。
それこそ、そんな不思議な能力くらい持ち合わせていないと、レシラムは彼の元へ現れなかっただろう。
こいつの言葉を信じるならば、彼がレシラムに選ばれた理由にも辻褄が合うのだ。
『トモダチは「間違いなくこの町にいる」と言うから、ずっと此処で探していたんだ。会えてよかったよ。』
『大丈夫だよ、ゼクロムはキミを呼んでいる。キミにも、声が聞こえているだろう?』
『……いや、そうでもないみたいだ。キミのことが心配だと言っているよ。』
この青年の、頭のネジが外れたのかと思うような言動の数々も、レシラムやゼクロムの、ポケモンの声を反映したものだったのだと、理解できればどうということはなかった。
彼はただ、この二匹のポケモンの声に従って私を呼び、彼等の声を私に伝えてくれただけだったのだろう。
私はもう、彼のその奇怪な言葉を疑うことを忘れていた。彼は、嘘を吐くことを知らない、あまりにも無垢な色をその目に宿していたからだ。
「そうね、英雄に相応しい、立派な力だと思うわ。益々、私がこいつに選ばれた理由が解らなくなったけどね」
神話の中では、レシラムとゼクロムを従えた人間を「英雄」と呼んでいたのだ。それになぞらえて私は彼を誉める。
すると彼は困ったように笑いながら「そんなことはないよ」と私を宥めるような声音で紡ぐ。
「ゼクロムはキミの意志の強さと、屈しない強靭な心を汲み取ったんだ。キミは英雄となるに相応しい心を持っている」
「……あ、ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
それは本心だった。この青年がそう言うのなら、本当にゼクロムは根拠があって私を選んだのだと、気紛れに任せた選択などではなかったのだと、そう思うことができたからだ。
私は何故か、昨日出会ったばかりの、この、私の神経を逆撫でする言動ばかりしていた筈のこの男を信用し始めていた。
根拠などなかった。けれど、その澄んだ目があまりにも美しくて、私は彼の言葉を疑うことを忘れていた。
「お世辞?そんな嘘をポケモンは吐かないよ」
「……へえ、そうなの」
「ポケモンはヒトと違って、ボク等に嘘を吐くことは決してないんだ」
その言葉に、何故か喉のずっと奥が軋む感覚を覚えた。
ああ、まただ、と思った。またこいつは、自分が「ヒト」でないかのような言い方をするのだ。
その字面だけ追えばそうでもなかったのかもしれない。それは彼がただ、ポケモンの真実を淡々と告げてくれただけだったのかもしれない。
けれど私には彼の声音が、その人畜無害そうな笑みで紡がれる切実な音が、どうしても「嘘吐き」な人間を拒絶しているように思えてならなかったのだ。
そうした温度を、その冷たいテノールは含んでいたのだ。その笑顔にあまりにも釣り合わない声音が、強烈な眩暈を呼んだ。
「……でも、嘘なんて面倒なものを吐かないのは、ポケモンだけじゃないわ」
青年は首を傾げる。
私は彼の、恐ろしい程に澄み切った目を見上げたまま、その目に言い聞かせるように紡いで笑ってみせる。
「私だって、嘘を吐かないのよ」
「……キミはヒトだろう?」
「ええ、でも吐かないわ。必要に応じて嘘が必要になる時もあるけどね。でも、あんたが嘘を嫌うなら、あんたには決して嘘を吐かないわ。今、ここで誓ってもいいわよ」
それは、彼の冷たいテノールがこれ以上、人間を拒絶する音を紡ごうとするのを止めたくて発した言葉だった。
「私」が否定されることが耐えられなかった。「彼」が自分を否定する様を見ることにも耐えられなかった。
その柔和な笑顔から発される、冷たすぎる声音があまりにもアンバランスだった。その滑稽さに、しかし私は笑うことができなかった。
だから、私は、誓いを立てた。この笑顔に、決して嘘など吐いてやるまい、と。
「どうしてキミは、ボクが嘘を嫌っていると解ったんだい?」
彼は驚いたような声音でそう尋ねた。私は「は?」と素っ頓狂な声をあげた後で、肩を震わせて笑った。
……この人は、人の心の読み方を知らないらしい。
ポケモンの声が聞こえるという稀有な力を持っているくせに、私達が当たり前のように行っている、人の声音から、表情から、その心を汲み取るという術を彼は持たないのだ。
そのアンバランスがひどく滑稽だった。けれどもう、彼に対しての憎悪は消え失せていた。そもそも、きっと私は、この青年が憎いわけではなかったのだろう。
ただ、私の日常を奪った、あまりにも大きすぎる力が許せなかっただけ。残酷な運命を受け入れたくなくて駄々を捏ねていただけ。彼を蹴り飛ばしたのは、きっと八つ当たりだ。
「あんたはポケモンの声を聞くことができるのかもしれないけれど、私達は人の心を漠然と汲み取ることができるのよ。だから、自分が特別だなんて思わないことね」
彼はその澄んだ目を見開いて沈黙した。私は得意気に笑ってみせた。周りの喧騒への苛立たしさは、少しだけ薄らいでいた。
私はその遣り取りにすっかり満足して、彼の名前を聞き忘れてしまった。
2015.5.28