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レシラムとゼクロムは、普段は小さな石の姿をしている。
何十年かに一度だけ、彼等は本来の姿となり、自らの目でその土地を見守るのだ。
ただし、その復活には特別な人間が必要とされる。レシラムとゼクロムが、自らに相応しい人間を選ぶのだ。
その人間は「継承者」とされ、再び二匹が眠りにつくまでの間、そのポケモンと共に生きることになる。
継承者になったからといって、この平和な時代、特に何が為される訳でもない。ただ、選ばれて、共に生きるだけ。それだけのことである筈だった。

それなのに、彼等は「選ばれし者」である継承者を称える。ただのポケモンであるレシラムやゼクロムを、まるで神であるかのように崇め、称える。
私の日常は、そのちっぽけな石によって完全に狂わされていた。

「煩い……」

朝早くから、町の人間がゼクロムを見に訪れていたのだ。
そこにいるだけで有難いその存在を称えるために集まった人のざわめきが、私の耳をつんざくかのような勢いで響いていた。
数日前まで続いていた、穏やかで静かな町の雰囲気は何処へ行ってしまったというのだろう。
あの行列だって、確かに町の景観を損ねてはいたけれど、こんな風に家の前に群がられるよりはずっとましだったのだと、今になって気付く。
私は2階の窓を閉めたけれど、多すぎる人のざわめきが、そのような木の窓一枚で隔てられる筈もなかった。

超音波のように鼓膜に響くその無数の声に、私は耐えきれなくなって耳を塞ぐ。
騒音は、昔から嫌いだった。人の声が重なり、言葉の形をなさなくなる程のざわめきが大嫌いだった。
そして、その音は、他でもない私を選んだゼクロムに向けられているものなのだ。考えただけで吐き気がした。

あの黒い大きなドラゴンポケモン、ゼクロムは、私の家の前から一向に動こうとしなかった。
3mの巨体をこの小さな家に入れる訳にもいかなかったし、何よりこの町で、モンスターボールは貴重品だった。
既にダイケンキを自分のパートナーとして連れ歩いていた私の家に、空のボールがある筈もなく、故にゼクロムは私の家の前に居座ったままなのだ。
当然、大きな漆黒の身体が大通りにいれば、目立つ。そのままでも目立つその身体に、更に曰くつきの栄光が付いているのだ。
人々が足を止め、ゼクロムを崇めるのはごく自然なことのように思われた。だからこそ、このざわめきが苛立たしかった。
町の人が悪いのではない。ゼクロムにも非はない。だから私は、恨むしかなかったのだ。私にあんな大きなポケモンを押し付けた、見えない、大きすぎる力のことを。

「……?」

私は耳を塞いでいた手を離し、顔を上げた。しっかりと閉めた筈の窓が、外側から叩かれているような音を立て始めたからだ。
騒がしくするだけならまだしも、私にちょっかいを出すなら、いくら町の人間であろうと容赦はしない。
私は怒鳴りつける準備をして、窓を勢いよく開け放ったけれど、目の前に現れた純白の翼に言葉を失うことになってしまった。
その背中には、昨日、私にダークストーンを握らせた青年が乗っていて、人畜無害そうな笑みをこちらに向けているのだ。

『大丈夫だよ、ゼクロムはキミを呼んでいる。キミにも、声が聞こえているだろう?』
昨日、そんな気持ち悪いことを言ってのけたこいつは、レシラムの継承者だったらしい。こんなネジの外れたような青年が継承者だなんて、世も末だと思う。
……もっとも、それは私に関しても言えたことで、どうしてゼクロムが私なんかを選んだのか、その理由を、私は未だに計り兼ねていた。
私は、富も名声も持ち合わせていない。ただちょっとポケモンバトルが強いだけの、どこにでもいる人間だ。それなのに、どうして。
ゼクロムが為したその選択がどうしても理解できずに、私はその理不尽な選択に対して憤りを感じ始めていた。それは見えない大きすぎる力に対しての憎悪だった。

私はそいつを睨みつけ、黙って下を指差した。彼は笑って頷き、ゼクロムの隣に降りる。レシラムとゼクロムが並び立つその様に、町の人々は歓声を上げた。
1階に下りて、ドアを開ければ、彼は首を少しだけ傾げて微笑んでいる。長身の彼を睨み上げ、私はそいつの言葉を待った。

「おはよう。元気かい?」

元気、である筈がない。朝から喧騒が耳をつんざいて、気分は最悪だ。
けれどそれをこの青年に告げることすら面倒だった。だから私は肩を大きく竦めて、皮肉たっぷりの言葉を投げてやった。

「ええ、ゼクロムは元気なんでしょうね。皆から崇められて称えられて、おめでたいことだわ。さぞかしいい気分なんじゃないかしら」

「……いや、そうでもないみたいだ。キミのことが心配だと言っているよ」

「……は?」

それは彼を威圧するための言葉であった筈なのに、思わぬ言葉が代わりに飛んできてしまって、私の方が怯むことになってしまった。
昨日から思っていたことだが、この青年は私と同じ言語を操っている筈なのに、どうにも私には理解できないことばかり言うのだ。

「自分がキミを選んだせいで、キミを苦しめてしまったのかもしれないと悔やんでいる。キミはゼクロムのことが嫌いなのかい?」

いきなり訳の分からないことを言い出した青年を、私はきっと睨みつける。
一体、この男は何を言っているのだろう。

「ちょっと待ってよ、あんた、何を言っているの?ゼクロムがそう言っている、なんて、あんたに解る訳ないでしょう?ポケモンの声なんて、」

すると彼は、驚いたように私を見つめた。その澄んだ目に映った驚愕の色に私は困惑する。
どうしてそんな顔をされなければならないのか。どうして彼は、おかしなものを見るかのような顔つきで私を見ているのか。
本当におかしいのは彼の方である筈なのに、その澄んだ目は、私こそが変なことを口走っているのではないかという妙な不安に私を突き落すだけの威力を持っていたのだ。
この目は、少し怖い。

けれど彼は暫くして、その目をそっと伏せた。やがて小さく溜め息を吐いてから、ぽつりとその言葉を零す。

「そうか、ゼクロムが選んだ人間だから、てっきり聞こえるものだと思っていた」

「……あんた、何を言っているの?」

「キミにも聞こえないんだね。……可哀想に」

その瞬間、私は青年の後ろに回り込み、膝に蹴りをお見舞いしていた。
顔から石畳に突っ込む形となった青年は、痛みに涙を滲ませながら私を見上げる。手加減など一切、してやらなかった。私の足癖の悪さは、この町でも有名なのだ。
彼が再び起き上がってしまえば、私を見下ろす姿勢になることは解っていたので、私はその彼の身体を跨ぐようにして立ち塞がり、その顔を見下ろしてやる。

「何処の誰だか知らないけれど、昨日出会ったばかりの人間に向かって「可哀想」だなんて、随分と図が高いじゃないの」

「……」

「あんたは最低限の礼儀も知らずに育ったのね、可哀想な人だわ。私なんかよりも、ずっと」

この憤りは、喉のずっと奥から沸き立つようなこの怒りは、おそらく、この青年に対してのものではない。
これは、変わってしまった日常への、私に押し付けられた「継承者」なんていう大層な役割への、私の穏やかな日常を奪った、この見えない大きすぎる力に対しての怒りだ。
どうしても止まらなかったのだ。
こんな風に、見えないものへの憤りを持て余す私は、こいつの言う通り「可哀想」な人間であるのかもしれなかった。
けれど、それじゃあ一体、どうすればよかったというのだろう?

「それとも、何?あんたにはゼクロムの声が聞こえるっていうの?」

「そうだよ」

言葉を濁すと思っていただけに、彼が一切の表情を変えないまま、私の眼前で肯定の言葉を紡いでみせたことにより、今度はこちらが絶句しなければならなくなってしまった。

「ボクはポケモンの声が聞こえるんだ」

その澄んだ目が私を射抜く。恐ろしくなる。私は沈黙する。その目が恐ろしいのに、どうしても視線を逸らすことができなかった。
……ポケモンの声が、聞こえる。
それは普通なら笑って切り捨てることのできる、おかしな冗談である筈だった。そんなことを真顔で紡ぐ彼は、普通じゃない。いつもの私なら間違いなくそう考えていた。
けれど、今の私にはどうしても、この目をした彼が嘘を言っているようには思えなかった。
嘘を吐くなどという芸当を、この人ができる筈がない、とさえ考えていたのだ。この恐ろしい程に澄んだ目は、きっと嘘を吐くことを知らないのだろうと信じていた。

変なの、私はこいつと、昨日出会ったばかりなのに。
いきなり呼ばれて、ダークストーンを手渡されて、挙句の果てに「可哀想」などと言われて、こいつのことを信用する要素など、ただの一つもなかった筈なのに。
どうして、こいつの目に飲まれそうになっているのだろう。

「キミは、ゼクロムが嫌いなのかい?」

彼は先程の言葉をもう一度繰り返し、私に尋ねる。
可哀想、と言われたことへの怒りは、それ以上の驚きと恐れに埋もれて見えなくなっていた。


2015.5.28

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