私は驚きのあまり、その燭台を取り落とした。
……そうだ、どうして失念していたのだろう。外套掛けやグランドピアノが喋るのだから、この燭台が喋らない筈がなかったのに。
3本の蝋燭が立てられた、その小さな金色の燭台は、器用にも自分で階段に着地し、得意気に笑ってみせた。
「落としてしまってごめんなさい。大丈夫ですか?蝋燭、折れていませんか?」
慌てて燭台をそっと取り上げ、蝋燭にひびが入っていないかどうかを確認する。……よかった、無事のようだ。
彼はそんな私を見て、楽しそうに蝋燭の炎を震わせて笑い始めた。
「ああ、大丈夫だよ。しかし嬉しいね、城の外にいる人間と話をするのは何年振りだろう」
何年、という単位に思わず眩暈がする。そんなにも長い時間、この燭台は城の中で過ごしてきたのだろうか。
ものに心を与える魔法は、とても素敵なものだとばかり思っていたが、それは、ただのものであった時には感じなかった寂しさや孤独を知るということでもあるらしい。
彼等は、幸せなのだろうか。私はそんなことを思ったが、出会ったばかりのこの燭台にそれを尋ねるのはどうしても躊躇われた。
「……シェリーとは、話をしなかったんですか?」
「あの美人な女の子のことか?確かに彼女を出迎えたのはオレだが、あの子はオレが姿を見せるなり、悲鳴を上げて逃げ出してしまったよ」
確かに、いきなり目の前の燭台が動き出し、しかも喋り出しまですれば、大抵の人間は逃げ出すだろう。
それに加えて、彼女は怖がりだ。おそらくこの暗い城の中に入るにも相当の勇気を必要としたに違いない。
怖かっただろうなあと、親友を思って苦笑し、彼女の代わりに「ごめんなさい」と謝った私に、燭台は左右の蝋燭を少しだけ掲げて笑ってみせた。
きっとこれは、人間でいうところの「肩を竦める」動作なのだろう。
「いつものことさ。気にしていない」
……いつも、こういうことがあるのだろうか。
直ぐにでもそう尋ねたかったが、なんだか私ばかりが燭台を質問攻めにしているような気がして、小さく相槌を打って口を閉ざした。
すると彼はそんな私の心を読んだかのように、自ら説明をしてくれた。
「この城に住んでいるジュペッタは悪戯好きで、よく近くの村や町の人間からものを奪い取って来る。それを追い掛けてきた人間が、よく此処に迷い込むのさ。
皆、恐れをなして直ぐに逃げ出していく。お嬢さんのような人間は初めてだ。オレやN様が怖くないのか?」
「驚きはしたけれど、怖くはありませんでした。このお城には素敵な魔法がかけられているんですね。貴方のような「もの」に心を与える魔法だなんて」
すると彼は、その灰色の目を見開いて沈黙した。
どうしたのだろう。彼は自らが心を持ったことを嬉しくは思っていないのだろうか。
ごめんなさい、と紡ごうとして、しかしそれは燭台の言葉に遮られた。
「お嬢さんがそう思うのなら、そういうことにしておこう」
「本当は、そうじゃないんですか?貴方は生まれた時から、その、」
「……申し訳ないが、オレからはそれ以上のことを口にすることはできない。それが我々にかけられた魔法のルールだからね」
彼はもう一度、両方の蝋燭を上に掲げて悲しそうに笑ってみせた。
心を持つことは、必ずしもいいことではないのかもしれない。
少なくとも、彼が人間のように言葉を操り、喜怒哀楽を得なければ、この城でしか生きられない孤独を味わうこともなかっただろう。
その、不思議な悲しい境遇を思いながら、私はもう一度、謝罪の言葉を紡ごうとした。けれど燭台は右側の蝋燭の火を消し、私の口元にそっと寄せた。
それはまるで、「静かに」という、人差し指を口元に当てるあの人間の仕草を示しているように思えてならなかった。
「折角、そんな綺麗な声を持っているんだ。謝罪じゃなく、お嬢さんの名前を聞かせてくれないか」
綺麗な声。そう言われて私は慌てた。此処が薄暗くて本当によかった。そうでなければ、私の頬が赤く染まっていることを見抜かれてしまう。
そんなことを言われたのは初めてだ。私の声はシェリーのそれよりも低い、所謂メゾソプラノだ。女性の歌を歌うにはあまり適していない。
けれど、爽やかに笑うこの燭台が、お世辞を言っているようには思えなかった。
「……ありがとう。そんなことを言われたのは初めてです。私の名前はシア。貴方は?」
「オレはダーク。ちなみに先程、シアをここまで連れてきてくれた外套掛けもダークという名前だ。……ああ、もう一人、置時計のダークもいたな」
この静かなお城に、ダークが3人!それは呼び分けるのに苦労しそうだ。
そんな感想を伝えると、彼は呆れたように左右の蝋燭を掲げてみせた。どうやらこれは燭台のダークさんの癖らしい。
「呼び分ける必要などない。我々は3人でダークトリニティと呼ばれている。あの方の配下にある、ただの使用人だ」
「あの方……?その人が、貴方を見分ける必要なんかないって言ったんですか?」
「使役するのに、個別の名前は邪魔だからね」
なんて酷い人だろう。私はあまりの憤りに眩暈すら覚えていた。
折角、素敵な魔法で心を持っても、名前を統一され、個性を奪われたのでは悲しいだけだ。
彼等はずっと、個性の象徴とも言える名前を奪われたまま生きてきたのだろうか。代わりなどある筈のない心を持った存在を、否定されたままでいたのだろうか。
「……燭台のダークさん」
私は階段を降りていた足を止め、彼の名前を呼んだ。
「私は、貴方達を呼び分けます。貴方は貴方だけのものである筈だから。私には、燭台のダークさんと外套掛けのダークさんが、同じ存在にはどうしても見えないから」
彼は長い沈黙の後で、真ん中の蝋燭をふっと消し、私の手の平の上でくるりと向きを変え、私に背を向けた。
どうしたんですか、と尋ねるが、彼は沈黙を重ねるだけで答えてはくれない。
代わりに、別の声が階段の奥から聞こえてきた。それは、私がずっと探していた、聞き慣れたソプラノの声だった。
「シア?」
その声は震えていて、か細く、消え入りそうだった。けれど間違いなく、シェリーの声だ。
私は燭台のダークさんを持ったまま、階段を速足で駆け下りた。私を呼ぶ声を頼りに、暗闇の中を進み、ついに彼女を見つけた。
シェリー、と名前を呼びながら、私は彼女を抱き締めようとして、しかしそれは叶わなかった。頑丈な檻が二人の間を隔てていたからだ。
「え?何、これ……」
私は鉄の檻の隙間から腕を差し入れて、泣きじゃくる彼女の手をそっと握った。その手が驚く程に冷え切っていて、私は急に不安になった。
どうしてこんなところに閉じ込められているのだろう。私の名前を呼び続ける彼女を落ち着かせてから、肝心なところを尋ねようと口を開いた。
「シェリー、大丈夫よ。必ず助けてあげるから。一体、誰がこんなことを?」
「シア、早く逃げて!野獣が、このお城には野獣がいるの!」
野獣?
聞き慣れないその言葉を問い詰めたかったが、今はとにかく彼女を此処から出す方が先だ。
シェリーを出してください、と燭台のダークさんに頼んだが、彼はその灰色の目を伏せて、首を振るように真ん中の蝋燭を揺らすだけだった。
ここまで私を案内してくれて、協力的な姿勢を見せていてくれただけに、その拒絶は何よりも深く私の心を抉った。
「許してくれ、シア。我々は主の命令には逆らえない」
「そんな……」
燭台のダークさんの声を聞いたシェリーが、小さく悲鳴を上げて後退りする。
どうすればいいのだろう。どうすれば、シェリーを此処から出してあげられるのか。
この鉄の扉は、少しぶつかっただけではびくともしない。燭台のダークさんは鍵を持っていないし、彼は主の命令には従えないという。では、どうすれば。
……その結論は、思っていたよりもすんなりと導き出された。私は檻から手を放し、燭台のダークさんに向き直った。
「その人のところへ案内してください!」
燭台のダークさんが、シェリーを此処へ閉じ込めた人物に逆らえないのなら、私が直接会って話をすればいい。
ダークさん達から名前を奪ったり、シェリーをこんなところへ閉じ込めたりする人物だ。まっとうな人格の持ち主だとはとても思えない。
下手をすれば私も、シェリーが恐れているように、彼女の二の舞になってしまうかもしれない。いや、二の舞で済めばいい。……万が一、相手に殺意があったなら。
思い描いてしまった最悪の状況を、私は頭を振って追いやった。……大丈夫だ。
私は怖くない。
「……分かった」
小さく聞こえたその言葉に、私が安堵の溜め息を吐いた、その瞬間だった。
「その必要はない」
バタン、と何処からか乱暴に開けられた扉の向こうから、暗闇を切り裂くように鋭いバリトンが飛んでくる。
燭台のダークさんは私の手から飛び降り、さっと火を消して暗闇に紛れてしまった。
近付いてくる足音に足が竦む思いがしたけれど、私は両手を握り締めて緊張と恐怖に耐えた。逃げて、と叫ぶシェリーを宥める余裕はとうに失われていた。
2015.5.14