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私は先を歩くサーナイトを呼び止めた。

シェリーはこの森の中へ入ったのね?私がクロバットと一緒に探してくるから、君は村に戻っていて」

彼女の先導があれば心強いのは事実だったが、かなりの傷を負っているサーナイトをこのままにしておく訳にもいかなかった。
ワンピースのポケットに残っていた、申し訳程度のお金をサーナイトに持たせて、私は素早く指示を出す。

「村の外れの、大きな煙突がある家に、アクロマさんっていう人が住んでいるの。彼ならその怪我を治す薬を持っているから、そのお金を渡して、治してもらってね。
……大丈夫だよ、シェリーは必ず戻って来るから」

大丈夫。それは半ば自分に言い聞かせた言葉だった。
サーナイトは頷き、来た道を戻り始めた。私はクロバットの背中にひょいと跨り、上空から彼女を探すことにした。
4枚の大きな翼を持つ私のパートナーは、どんなポケモンよりも速く空を駆けることができるのだ。

低空を飛びながら、私は何度もシェリーの名前を呼んだ。けれど、何度叫んでも風が木々を揺らす音しか返ってこない。
いつの間にか、小雨は止んでしまっていた。濃い霧を切り裂くようにクロバットは森を進む。私は声でシェリーを呼び続ける。
……シェリー、何処にいるの?貴方がいなくなったら、悲しむ人が大勢いるのよ。

その時だった。私の耳は、何かの生き物の音を拾い上げた。ケタケタと笑うその声は、おそらく、ポケモンのものだろう。
不気味さの拭えないその声は、私を呼んでいるかのように遠くから聞こえてくる。私はクロバットにその声を追うように指示して、その笑い声を聞き逃さないように耳を澄ませた。
ケタケタという笑い声は徐々に近づいてきている。もう直ぐ姿が見えるのではないかと思ったその瞬間、その声はぴたりと消えてしまった。
けれど私はもう、その笑い声に抱いた違和感をすっかり忘れていた。何故なら目の前に大きな城が現れたからだ。

私はクロバットに降下を指示して、石畳の小道に降り立った。
地面から見上げると、その城のあまりの大きさに息を飲んでしまう。どうしてこんなにも大きな城が、こんな深い森の中に建てられているのだろう。
城が村や町から少し離れた場所に建てられるのは別に珍しいことではないけれど、この城の周りはあまりにも閑散とし過ぎているように感じられた。
これだけ大きな城なら、村からその屋根や外壁が見えてもおかしくないような気がするけれど、この森に漂う濃霧が城を隠しているのかもしれない。

……シェリーはもしかしたら、この中に入ったのでは。
そんな一縷の望みを託し、私はその大きな扉に歩み寄り、手を掛けた。
しかしびくともしない。思い切り力を込めて押すことで、ようやく少しだけ開いた。私はクロバットをボールに戻し、慌てて城の中へと入り込んだ。
バタン!と大きな音を立てて閉まった扉に、少しだけ嫌な予感を抱きつつも、私は迷うことなく歩みを進める。

シェリー

私の紡いだ声は、静まり返った城の中に響き渡った。
大理石と思われる冷たい床を踏みしめて歩き、足をぶつけた階段を慎重に上りながら、私は繰り返し彼女の名前を呼んだ。
そして同時に、この城の恐ろしい程の静けさに、僅かな疑念を抱く。

「……誰もいないのかしら」

「いるよ」

思わぬ方向から聞こえてきたその声に、心臓が跳ね上がった。
私は弾かれたように後ろを振り返ったが、その廊下の突き当たりにある空間には、大きな黒いテーブルが置かれているだけで、人の姿はなかった。
確かに今、男性の声が聞こえたような気がしたのだが、私の都合のいい空耳だったのだろうか。
私はその黒いテーブルに近付いた。暗くてよく見えないが、触ってみると、そのテーブルは滑らかな曲線を描いていた。
そしてテーブルはかなり大きいにもかかわらず、椅子は一つしかない。念のためにそのテーブルの下を覗き込んでみたが、人の姿を見つけることはできなかった。

「あの、誰かいるんですか?」

次の瞬間、そのテーブルの上部が勢いよく開き、私はあまりの驚きにひっくり返ってしまった。
冷たい大理石に尻餅をついたまま上を見上げれば、その不思議なテーブルはクスクスと笑い始めた。

「ああ、ごめんよ。怖がらせてしまったね。グランドピアノを見るのは初めてかい?」

テーブルが、喋っている。
その驚きや恐怖は、しかしそのテーブルの口から聞こえた「グランドピアノ」という単語が吹き飛ばしていった。私は目を輝かせて起き上がり、黒いテーブルに駆け寄った。

「貴方、もしかして本物のグランドピアノなの?まさかこの目で見ることができるなんて!」

グランドピアノ。鍵盤と呼ばれる白と黒の板を指で叩き、それが弦を振るわせて音を出すという大きな楽器だ。
読んでいた本に幾度となく登場していたが、こうして実物を見るのは初めてだ。
もっと明るいところでじっくりと見てみたい。そんな私の心の声を読んだかのように、壁に掛けられた燭台が一斉に灯った。

「喜んでもらえて嬉しいよ」

そしてようやく、この部屋の全貌が明らかになる。
真っ赤な美しい絨毯に、シンプルだけれど品のある壁紙。部屋には他にもバイオリンやチェロといった弦楽器や、フルートのような管楽器も飾られている。
その全てに顔が付いている。まさか、この楽器たちもグランドピアノのように喋るのだろうか。

その部屋の中央に置かれているグランドピアノは、私を手招きするように、白と黒の鍵盤で長調の美しい曲を奏でた。
私が備え付けられた一つの椅子に座ると、グランドピアノの顔が、明らかに楽器の音ではない人の声を奏でる。
こんにちは、と挨拶され、私も慌てて口を開いた。

「あ、えっと、初めまして。私、シアといいます。貴方のようなグランドピアノを見るのは初めてで、少しはしゃいでしまって。ごめんなさい」

シア。……いい名前だね。ボクにはNという名前があるけれど、キミの好きなように呼んでもらって構わないよ」

Nと名乗ったグランドピアノは、その弦の一部を伸ばして私に握手を求めた。
もうこの際、弦がひとりでに浮き上がっても驚きはしない。だってこのピアノは喋っていて、他の楽器たちもおそらく、それぞれが自我を持っているのだから。
私はこの不可思議な魔法の空間を受け入れ始めていた。それはおそらく、私が日頃からそうした類の本を読み、こうした世界に憧れていたからだろう。
魔法めいたものに関心の薄い人間からしてみれば、この喋るピアノやひとりでに灯される燭台は、恐怖の対象でしかないのかもしれない。
けれど私は、怖くない。

「キミ、度胸があるね。喋るピアノを見ても怖がらないなんて。さっき来た女の子は、泣きながらこの部屋を飛び出して行ってしまったよ」

しかし私はその言葉にはっと我に返る。そうだ、喋るピアノに心を奪われていたけれど、私はシェリーを探しに来たのだった。
その子を探しているんです、とNさんに告げれば、彼は少し考え込む素振りを見せた後で穏やかな曲を奏で始めた。
白鍵と黒鍵がひとりでに踊る様子に心を奪われていたが、廊下から一つの影が覗いたことで弾かれたようにそちらを見遣った。

現れたのは、外套掛けだ。黒く塗られた木製のそれは、やはり外套掛けとは思えない程に滑らかに動いていて、私を見るなり深々とお辞儀をしてみせた。
どうやら先程、Nさんが奏でた曲は、この外套掛けさんを呼ぶためのものだったらしい。
グランドピアノは外套掛けよりも地位が高いのかしら?とおかしなことを考えていると、Nさんが先程の弦で、私の背中をそっと押してくれた。

「キミの探している女の子がいる場所まで、その外套掛けが案内してくれるよ」

「あ、ありがとうございます!」

「どういたしまして。……それと、この城にはボクのようなものが大勢いるけれど、どうかカレ等を嫌わないでほしい」

思わぬ懇願に息を飲む。そんなことを頼むなんて、まるで人間のようなグランドピアノだ。
私は笑って頷き、燭台の灯った部屋を後にした。
ものに心を宿す魔法がかけられた、この不思議な城の中には、彼の他にも言葉を操り、ひとりでに動くものが「大勢」いるらしい。
今、小さな燭台を持って私の目の前を歩いている、背の高い外套掛けのように。

「……」

けれど、この外套掛けはあのグランドピアノのNさんに比べてかなり寡黙なようで、移動中も全く喋らなかった。
つい数分前までは「もの」としか認識していなかった彼等に、人間やポケモンと同様の「個性」が与えられているという事実は、私の心をくすぐった。
彼等には不思議な魔法が掛けられている。だからこそこの城は、一目を避けるように森の中に建てられているのかもしれない。

外套掛けは、一つの簡素な扉の前で立ち止まった。開けられた扉の向こうには、地下への階段が暗がりへと続いている。
私に燭台を持たせた外套掛けは、ぽつりと一言だけ告げた。

「お前の探している少女はこの下だ」

私が扉を抜けたその瞬間、大きな音を立てて扉が閉まった。
……まさか、閉じ込められてしまったのだろうか。これはあの外套掛けとグランドピアノの狡猾な罠だったのだろうか。
そう思い、慌てて扉に手を掛けたが、そんな心配は杞憂だったようで、あっさりと開いてくれた。
私が安堵の溜め息を吐いた、その瞬間だった。

「ふふ、閉じ込められたと思ったのか?」


2015.5.14

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