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シアはとても聡明な少女だった。

他の女の子のように、歌を歌ったりダンスをしたりするような華やかさはないけれど、きちんと自分の芯をもって毎日を生きている、とても強くて優しい子だ。
私は小さな頃から彼女と一緒に過ごしているけれど、怖がりで臆病な私の手を、私よりも背の低い彼女はいつだって引いていてくれた。

10歳を過ぎ、自分のポケモンを連れて歩くようになった頃から、彼女は本の楽しさに目覚め、暇さえあれば分厚い本ばかり読んでいた。
『私の知らない世界を教えてくれるの。』と、綺麗な青い目をキラキラと輝かせて話してくれた日のことは今でも忘れられない。
シアの目は、とても綺麗な色をしている。色だけではない、本のことを話す時のシアの目は、まるで宝石かと見紛うような輝きを持っているのだ。

本の楽しさを理解することはできなかったけれど、そんな風に夢中になれる何かを持っているということはとても羨ましいと感じた。
私は周りがしていることをいつも選んでしていた。
楽しい、楽しくないという感想は後からついてくるもので、それに夢中になることもなければ、嫌気が差してやめるということもなかった。
夢中になる程の魅力を感じなかったし、嫌気が差したところでやめる訳にはいかなかった。それは臆病な私が、この村に溶け込むための精一杯の処世術だったからだ。
皆と同じことをしていなければならなかった。そうしなければ、私は笑っていられないから。臆病な私は、一人ではいられないから。

だから、人と違うことを堂々としていて、かつ、村に溶け込むことを選ばなかったシアが、とても羨ましかったのだ。

私は、皆と同じことを、人並みにしかできない、つまらない人間だ。
それでもシアは私と一緒にいてくれる。それがどうしようもなく嬉しかった。

霧のように細い雨が降っていた。
鳥ポケモンのさえずりが聞こえ始めた頃に目を覚ます。シアはいつものように、ベッドにうつ伏せになって眠っていた。
枕元には溶けきってしまった蝋燭と、1冊の本。また夜更かしして本を読んでいたらしい。

着替えを済ませ、髪を束ねてからキッチンに立つ。スープを火にかけて、テーブルに白いお皿を並べる。
そこにパンを置いて、ジャムとジュースの瓶を取り出す。煮え立ったスープを確認してから火を消して、コップにジュースを注ぐために蓋を開ける。
……この様子を見れば、さぞかし料理の上手な人間であるように思われるかもしれないけれど、この料理は全て、シアが昨日のうちに用意してくれていたものだ。
私はただ、それを並べるだけ。申し訳ないけれど、シアの方が私の何倍も手際が良く、私の何倍も美味しく料理をしてくれるので、私の出る幕はないのだ。
掃除や裁縫だって、シアは私よりもずっと器用にこなす。私が役に立てることといえば、お洗濯と買い物くらいだろうか。

私よりもシアの方が余程、奥さんに向いていると思うのに、村の人達はシアの魅力に気付かない。
ただ、本を読んでいるというだけで、皆はシアに好奇の目を向ける。
読書好きなのは彼女の博識で聡明な部分の表れに過ぎないと思うのだけれど、何故か皆はシアから距離を置く。

ただ、アクロマさんという白衣の男性は、シアをちゃんと理解してくれているみたいだ。
『それに彼は、私のような子供を好きになんかならないわ。』
昨日、シアはあんなことを言っていたけれど、話を聞く限りでは、アクロマさんはシアのことが好きなのではないかと思う。
日夜、研究ばかりしている男性が、どうして何とも思っていない人物が毎日のように訪問してくることを許すだろう?
シアはとても聡い少女だけれど、そうした方面には限りなく疎いようだった。

「!」

そんな考え事をしながらジュースを注いでいた私は、鍵を掛けていなかった扉からポケモンが入って来たことに気付かなかった。
驚いた私は、ジュースの入っていたボトルの瓶を倒してしまった。
黒いポケモンはそんな私を見て、ケタケタと笑っている。この辺りでは見たことのないポケモンだ。
その笑い声が妙に恐ろしくて、私は困ったように愛想笑いをした。

「ど、……どうしたの?道に迷ったの?」

野生のポケモンが村に迷い込むことは珍しくなかったため、そのポケモンの背丈に合わせて屈み込み、そう尋ねてみる。
するとそのポケモンはひょいと私の背中に飛び乗ったのだ。

「わっ!」

スルリと何かがほどける感覚がして、私の髪がふわりと広がった。ケタケタと笑うポケモンの手には、私のリボンが握られている。
盗られたのだ、と理解するのと、ポケモンがドアから出ていくのとが同時だった。はっと我に返った私は、慌ててポケモンを追い掛ける。
ドアの小さな段差に足を引っ掛け、靴が片方だけ脱げてしまったけれど、そのポケモンを見失いたくなかった私は履き直さずに外へと飛び出した。

「か、返して!」

刺繍も装飾も施されていない、ありふれたピンク色のリボン。けれど私にとっては大事なリボンだ。
こんな私を好きになってくれた、とある男性からのプレゼント。嬉しくて、毎日のように身に着けていた。知らないポケモンに奪われて失う訳にはいかない。

私はモンスターボールからサーナイトを出した。あのポケモンに攻撃を指示したけれど、彼女の技、サイコキネシスは思わぬ方向から遮られた。
霧の中から、もう一匹のポケモンが飛び出してきたのだ。このポケモンは知っている。確か名前をアブソルと言って、かなり珍しいポケモンだ。
リボンを奪った黒いポケモンの逃げ道を、アブソルは遮るように立ち塞がった。そのポケモンとの応戦をサーナイトに任せ、私は森の中へと足を踏み入れた。

恐ろしい程に濃い霧と、丈の長い草むらを掻き分けるようにして前へと進んだ。
晴れている日ですら、家の裏にあるこの森は薄暗い。この悪天候では数メートル先すら見ることができなかった。
けれど私は確実に、あのポケモンを追い掛けていた。何故なら、あのケタケタという特徴的な、少し不気味な笑い声が絶えず聞こえていたからだ。
声に呼ばれるようにして、私は森の中を進んだ。仮にリボンを取り戻せたとして、この濃霧の中を帰れるだろうか。そんな風に考える余裕すらなかった。
あのリボンを取り戻さなければと、私は焦っていた。

どれくらい走ったのだろう。
気が付けば、濃霧はかなり薄くなっていた。代わりに激しくなってきた雨が衣服を濡らし、歩き辛い。
どこか、大きな木があればそこで雨を凌ごう。そう思っていたのだが、雨に混じって雷の音まで聞こえ始めた。

シェリー、雷は高いところに落ちるから、高い木の下で雨宿りなんかしちゃ駄目だからね。』

いつか聞いたシアの忠告を思い出した私は、途方に暮れる他なかった。
どうすればいいのだろう。リボンも見つからない。帰り道も解らない。踏んだり蹴ったりだ。

「!」

しかし、思わぬ幸運が訪れる。
ケタケタという音が、私のすぐ隣で聞こえたのだ。
あの黒いぬいぐるみのようなポケモンが、私を見上げて笑っている。その手には私のリボンが握られていて、私は息を飲んだ。
今、ここで逃げられる訳にはいかない。

「あ、あのね。そのリボンは私の大切なものなの。だから、」

しかしそのポケモンは、呆気なくリボンを私の方へと差し出した。
そのことに私は驚いたが、迷わずさっと手を伸ばしてリボンを受け取った。今度は奪われないように、ポケットに仕舞った。よかった。取り返せた。
私が安堵の溜め息を吐いた矢先、耳をつんざくような大きな雷がすぐ近くに落ちた。
悲鳴を上げて屈み込んだ私に、黒いポケモンはケタケタと笑う。
ああ、こんな小さなポケモンに笑われてしまったと、少し情けない気持ちになりながら、顔を上げる。そして、息を飲んだ。

草むらを抜けた先に、大きな城がそびえ立っていたのだ。

「こんなところに、お城……?」

分厚い雨雲が空を暗くしているせいで、全景は確認できないけれど、かなり大きな城であることは見て取れた。
黒いぬいぐるみのようなポケモンが、私の服の裾をくいと引っ張る。

「もしかして、あのお城に貴方のトレーナーが住んでいるの?」

ポケモンは頷き、ケタケタと笑いながら私の服を引っ張り続ける。
……どのみち、この雨の中、一人でこの森を抜けられる筈がない。雷も鳴っているため、うかつに木の下で雨宿りもできない。ここで立ち竦んでいては凍えてしまう。
この雨が止むまでの間だけでいい。中に入れてもらおう。
拒まれたとしても、貴方のポケモンにリボンを奪われたのだと説明すれば、悪くとも屋根の下くらいには置いてもらえるかもしれない。
残してきたサーナイトが心配だったけれど、あの家にはシアがいる。もしアブソルとの戦いで傷付いても、彼女が手当てをしてくれるだろう。

「……どうか、親切な人でありますように」

雨に濡れた靴で、城へと歩き出す。黒いポケモンは一際甲高い声でケタケタと笑い、先に城の中へと駆けていってしまった。


2015.5.13

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