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「ねえ、シアはアクロマさんと結婚しないの?」

夕食の席で、シェリーは唐突にそんなことを尋ねた。シチューをスプーンで掬う手を不自然なところで止めてしまった私に、彼女はとても楽しそうに笑ってみせる。
アクロマさんと、結婚。異質すぎるその言葉に私の心がざわついている。この強烈な違和感をやり過ごしたくて、私は大きな溜め息を吐いて落ち着こうとした。

「ふふ、本当に考えたことがないのね」

「……だ、だって私、15歳よ?アクロマさんとは13歳も年が離れているのに」

「あら、年上の男性と結婚するのは普通のことよ」

ライ麦のパンを千切りながらシェリーは首を傾げる。
確かに、女性の結婚は早いが、男性が家庭を持つのはかなり遅い。この村でも、30を過ぎても独身でいる男性は珍しくない。
けれど、それと私がアクロマさんと結婚するか否かはまた別の話だ。

「だって、シア、アクロマさんのことが好きなんでしょう?」

宝石のように美しい目で縋るように見つめられ、私は困ったように笑うしかなかった。
アクロマさんのことは、好きだ。慕っているし、尊敬もしている。けれど、それだけだ。それ以上のものを、私はまだ彼に見出していない。

「確かに私はアクロマさんのことが好きだけれど、愛している訳ではないもの。それに彼は、私のような子供を好きになんかならないわ」

愛する。その言葉の意味を私はよく知らない。
アクロマさんのことも、シェリーのことも、パートナーのクロバットのことも好きだけれど、それと「愛する」という感情は少し違うようだった。
本の中で幾度となく見つけたその言葉の意味を、どんな辞書も教科書も教えてはくれない。
私は、誰かを想って胸が苦しくなったことも、誰かに会うためにわざと遠回りの道を通ったこともない。
本の中の素敵な世界に思いを馳せて、胸が締め付けられるような切なさを覚えたことはあるけれど、これは少し、違う筈だ。

そう、人を愛するとはどういうことなのかを私は知らない。こんな私が、誰かに愛される価値を有している筈がないのだ。
だから「生き遅れた」としても、それはそれで仕方のないことなのかもしれない。そして幸いにも、私はそのことに対して絶望してはいない。
……シェリーが先に嫁いでしまって、この家で一人だけの夕食を取るのは、少し寂しい気がするけれど。

「それに……」

「なあに?」と首を傾げるシェリーに、私はおどけたように笑って「なんでもないよ」と誤魔化した。
彼女は困ったように笑って、ライ麦のパンを口の中に放り込んだ。私もシチューの残りにスプーンを浸しながら、深く追求をしなかった彼女の姿勢に救われる思いがしていた。

「そういうシェリーは、最近、フラダリさんと仲良くしているの?」

彼女が親しくしている男性の名前を出して軽い仕返しをすれば、彼女は僅かに頬を染めてクスクスと笑う。どうやら交際は順調に進んでいるらしい。
シェリーが想い人と親しくしているという事実は同時に、彼女がこの家を出ていく日も近いということを意味していた。
寂しいけれど仕方のないことだ。そして何よりも、それが彼女の幸せなら、一緒に喜びたいと思った。

……実は、私には今、気になる人がいる。その人は今日、アクロマさんから貰ったあの本の中に住んでいる。
そんなことを口に出してしまえば、いよいよ頭がおかしくなったのかと疑われてしまうかもしれないから、誰にも言わないけれど。

夜になり、隣のベッドでシェリーの寝息が聞こえ始めた頃に、私は月明かりを頼りに蝋燭の火を灯す。
そうして、ベッドの上でうつ伏せになりながら、あの本の中に飛び込むのだ。
大きな国の立派なお城、その広大な庭に迷い込んでしまった、魔法を使える一人の少女が、城の皆と出会い、親しくなる、素敵な物語。
この本の中に、私の心を捉えて離さない人物が住んでいる。その人物は、本の冒頭、初めの二行目から既に物語の中に現れているのだ。

『その国の王子は、鮮やかな緑の髪に、血のように鮮やかな赤い隻眼を持っていました。』

血のように鮮やかな赤い隻眼。たった一行の表現に、私の心は奪い取られていた。
私は生まれてこの方、赤い目を持つ人間に出会ったことはただの一度もなかった。それ故に「赤い目」という表現は相当な驚きをもって私の胸に突き刺さった。

この本の中には他にも、彼の目を表現するためのあらゆる言葉が散りばめられていて、そのどれもが、私の心を掴んで放さなかった。
『火に映えたように赤らんだ目』『椿の雨が降ったような赤』『目を刺すような紅の隻眼』『燃える夕日のような赤色』
目蓋の裏で想像するその『赤い隻眼』はとても鮮やかで美しく、強烈な鋭さで私を虜にした。
きっとその目は、誰よりも鮮やかな色をしている。それこそ、アクロマさんが褒めてくれた私の目などよりも、ずっと美しい輝きを持っているに違いない。

「会いたいな……」

そんな美しい隻眼を宿した「彼」と、出会ってみたい。
この本がおとぎ話であることは解っていた。だからこそ、焦がれたのだ。美しい髪と目を持ちながら、その臆病さ故に心を閉ざしてしまった一人の王子に。
そんな彼に自らの持つ魔法を使って、優しさを、労る心を、人を愛することを教えた、一人の強く優しい女性に。

……そう、この物語は、少女から愛を教わり、少女を愛することを選んだ王子と、そんな王子を愛した少女とが結ばれて幸せに暮らしたという風に締め括られている。
とてもではないが、私はこの女性のようにはなれない。私はこの女性のように美しくも優しくもない。寧ろ、シェリーの方が当て嵌まりそうだ。
そして、それ以前に私は、人を愛するということがどういうことか解っていない。愛を知らない私が、どうやって他人に愛することを教えられるというのだろう?

私はこの本の中の女性にはなれない。この本の中の「彼」にも会えない。この素敵な物語は、私の世界の外に在る。

だからこそ焦がれて止まないのだろう。それでいい気がした。
私は蝋燭の明かりに本を近付け、ぱらぱらと捲る。何度も読んだおかげで、序盤の数ページなら余裕で諳んじることができる。
それでも、私はこの本に飽きることはなかった。寧ろ繰り返し読めば読む程に、この世界への羨望は熱を持ち、大きく膨らみ続けていたのだ。
そうして私は今夜も本を読み続ける。さあ、蝋燭が溶けきってしまうのが先だろうか、それとも日が昇るのが先だろうか。

「……」

ぐらぐらと頭が揺れている。どうやらまたしても朝方まで本を読んでいたらしい。
徹夜を連続で繰り返すと、睡眠不足のせいか、眩暈を覚えることがあった。
今回もその類だろうと、目を閉じてやり過ごそうとしたのだが、眩暈は収まるどころか益々大きくなってくる。
そしてようやく私は、この揺れの正体が眩暈ではなく、私を揺り起こそうとしている誰かだと気付き、慌てて目を開ける。
こんな起こし方をされたのは初めてだ。いつものシェリーなら、「シア!」と高いソプラノで私の名前を呼んでくれるのだけれど。

微睡みからようやく覚醒した私は、すぐ傍で不安そうに佇む存在に気付く。
とくりと、心臓が跳ねた。

「……サーナイト、どうしたの?」

目の前に飛び込んできたシェリーのパートナーには、引っ掻き傷や切り傷が幾つも付いている。
とても痛そうな怪我を負っているにもかかわらず、彼女は私の腕を物凄い力で引っ張るのだ。
……何かが、おかしい。

私は小さな家の中を見渡した。
テーブルの上に並べられた準備途中の朝食。瓶が倒れて滴り落ちているオレンジジュース。まだ湯気の立っているスープ。
開け放たれたドアの傍には、シェリーの靴が片方脱ぎ捨てられていた。
明らかな異変に顔を青ざめさせた私は、傷だらけのサーナイトに詰め寄る。

シェリーは?シェリーは何処へ行ったの?」

彼女はその手で、窓の外を指差した。深い森に続くその小道は、濃い霧に覆われてよく見えなくなっていた。
シェリーに、何かあったのだ。この子はそれを知らせに来てくれたのだ。

私はベッドから飛び出し、服を脱ぎ捨て、いつものワンピースを頭から被り、長い髪を二つに束ねた。
青いローブを羽織り、クロバットの入ったモンスターボールだけを手にして、小雨の降りしきる外へと飛び出した。

自らもかなりの怪我を負っているにもかかわらず、サーナイトは私を誘導するように、シェリーが消えたという森の中へと駆けていく。
濃霧が視界を遮り、私の不安をあおった。先に行ってしまったサーナイトを見失わないようにと、私も濡れた地面を蹴って走った。

シェリー!何処にいるの!?」

怖がりなシェリーが、自ら進んでこの濃霧の中、深い森に入ったとは考えにくい。
誰かにさらわれてしまったのだろうか。それとも、野生のポケモンに連れ去られてしまったのだろうか。
今、考えても仕方のないことをあれこれと巡らせている。そうでもしないと、恐怖と不安で押し潰されてしまいそうだったからだ。
いつも一緒にいた親友が、忽然と姿を消してしまった。そのことにひどく狼狽し、足が震える。私はそうした、小さな人間だった。
だから私は、気付かなかった。

「物語」が、私を手招きしていたことに。


2015.5.13

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