27

『私、魔法使いなのよ。』
突然の告白に私は面食らった。にわかには信じがたいその単語を、しかし「在り得ない」と否定することはできなかった。
私自身、この城でひとりでに動く人ならざるものの姿を見てきたからだ。今更、本が動いたところで特に驚かない。
問題は、彼等とこの本の僅かな、しかし顕著な差異にある。この本には「顔」がないのだ。

燭台のトウコさん、グランドピアノのNさん、3人のダークさん、バーベナさんにヘレナさん。他の皆にも、必ずその家具や楽器のどこかに「顔」が見えていた。
人間の形をしたその顔が、しかしこの本には何処にも見当たらないのだ。彼女のソプラノは、その本の中に綴られた、異国の文字から聞こえてきているように思える。
この本は、彼女は一体、何者なのだろう。

「……何か、魔法が使えるの?」

いずれにせよ、魔法使いというからには、その実力を是非この目で見ておきたかった。
宙に浮いたその本は少しだけ考え込むように沈黙し、暫くして、その本をパラパラと捲りながらふわりと上に舞い上がった。

「貴方に、素敵な夢を見せることができるわ」

「夢……?」

「たとえば、……そうね、シアが一番好きな本の夢、なんてどうかしら」

一番、好きな本。その言葉は私にあの本を思い出させた。
今は村の私の家で眠っている、何度も繰り返し読んだあの本。
この図書室の中であれと同じ物語を見つけることはできなかったけれど、それでも私はその本の内容を覚えている。
城に迷い込んだ美しい少女が、城の皆と心を通わせ、閉ざされた王子の心を開いていき、最後には真実の愛を見つける、素敵な世界の素敵な物語。

あの本の、夢を見られる?私は期待と懐疑の入り混じった視線で、宙に浮く彼女を縋るように見上げた。
どうしてこの喋る本は、私の一番好きな本のことを知っているのだろう。
まるで私の心を読んでいるかのような彼女に、魔法使いという現実離れした単語は驚く程にすんなりと当て嵌まるような気さえした。

「見たい?」

その魔法使いは、ソプラノの高い音を震わせてそう尋ねた。
私は頭の中に出現した天秤の、右側に不安と懐疑を、左側に期待と好奇心とを乗せる。
ガシャンと大きな音を立てて左に傾いた脳内の天秤に大きく頷き、私は彼女へと向き直った。

「それじゃあどうぞ、貴方の一番見たい夢を」

その瞬間、本当に一瞬だった。一瞬で、私はあの図書室ではなく、見たこともないような美しいダンスホールに立っていたのだ。
可愛らしいソプラノで喋っていたあの本も見当たらない。動く家具や楽器も、ゲーチスさんもいない。
代わりにそのダンスホールでは、美しく着飾った人々が思い思いに踊っている。
大きな窓の傍では3拍子の緩やかな曲が、バイオリンやビオラ、フルートなどによって演奏されている。
これが、彼女の言っていた「私の一番見たい夢」なのだろうか。私が焦がれた、あの本の中の世界なのだろうか。

「!」

そして私は、その人を見つける。
黒いダンスローブには、お洒落な金色の刺繍が入っている。カツカツと近付いてくるその靴音は、少しだけ速い。
若葉のような淡い緑の髪は、肩より少し上でふわりと波打っている。火に映えるように赤い隻眼が真っ直ぐに私を見ている。右目は髪に隠れていて、見ることはできない。
私が夢にまで見た「彼」の姿がそこにあった。彼は肩を竦めて、私を見据えたまま小さく笑う。

「どうした、踊らないのか?」

その言葉は、あの本に書かれていた台詞と同じだった。
確か、城の社交パーティに招かれた少女が、王子と一緒にワルツを踊り始める時の言葉だ。
あの本に書かれていた内容が、瞬時に頭の中を駆け巡る。……そうだ、あの本の中にいた、緑の髪に赤い隻眼の王子も、こんな風に微笑んであの少女の方へと歩み寄ったのだ。

そうして初めて、私はこのダンスホールの風景も、曲を演奏している人々も様子も、天井で太陽のように輝くシャンデリアも、全てあの本の描写の通りであったのだと、気付く。
気付いて、心臓の震えが加速する。
ああ、私は本当にあの本の中にいるのだと、そんな素晴らしい夢を見ているのだと認めた瞬間、両手すらも感動で打ち震えそうになる。
そしてあろうことか、私はその本の中に出てくる、あの少女になっているのだ。「彼」は自らの心を開いた、彼が愛した一人の少女に、こうして手を差し伸べているのだ。

「……できないわ。だって私、ワルツを踊ったことなんてただの一度もないの」

だから私は、予め用意していたかのように、あの本の中の少女が紡いだのと同じ台詞を、一言一句、違わずに紡いでみせる。
何度も読み返した本だ。私は彼等がその中で紡いだ言葉を覚えている。忘れていない。忘れられる筈がない。

そしてあの少女は不安そうに、その目をそっと伏せてみせるのだ。
私も同じように目を伏せて、ああ、この美しいレモン色のドレスも本にあった通りだ、と気付き、またしても心臓が大きく揺れる。
それから彼はこの後、少女の両手をその冷たい手で取り、得意気に微笑むのだ。彼が次に紡ぐ言葉だって、私はちゃんと、覚えている。

「大丈夫、僕がリードしてやる。君はただ僕に合わせて付いてくればいいんだ」

その尊大な物言いに、私は思わずクスクスと笑った。それはあの本にない行動だったけれど、どうしても微笑まずにはいられなかった。
『私がお前のミスをカバーできない程の中途半端な心得しかないとでも?』
「彼」の口調が、仕草が、立ち振る舞いが、あまりにもあの人のそれに似ていたからだ。ああ、もしあの人が人間だったなら、この人のような姿をしていたのかしら。

そんな私の投影など露知らず、「彼」は私の手を強く引き、キラキラと輝くダンスホールの上で軽いステップを踏む。
私の身体は驚くべきことに、何かに操られているかのように勝手に動いた。彼に合わせるように上品なステップを踏み、時折、彼の赤い目を見上げて微笑む。
ああ、そうか。今の私はあの少女だから、彼女と同じ行動をすることができるのだ。

『……できないわ。だって私、ワルツを踊ったことなんてただの一度もないの。』
あの本に書かれていた彼女の台詞を思い出して、私は微笑む。踊ったことがないなんて、謙遜もいいところだ。
もし本当にダンスの経験が皆無な私がこの場で踊れば、それこそダンスと呼ぶのも躊躇われるような、彼のステップに合わせて歩くだけのお粗末なものにしかならないだろう。
けれど本の中にいる少女は、彼と遜色ないステップを刻んでみせる。

ああ、やはり私はあの本の中の少女にはなれない。彼女と私とでは何もかもが違い過ぎる。
私は彼女のように魔法を使えない。こんな風に器用なステップを踏むことなんてできない。誰かの悩みを解決することも、誰かを愛することもできない。
それでも、こんな私でも、夢を見るのだ。もし私が彼女だったら、と。
彼女のように軽快なステップでダンスを踊ったり、素敵な魔法で皆を幸せにしたり、ただ一人を心から愛することができたりしたなら、と。

もし私が、彼を愛することができたなら。

「上手いじゃないか」

彼はくつくつと喉を鳴らすようにして笑う。私はその皮肉気な笑い方にあの人を重ねる。
……変なの。あれ程までに焦がれ続けた本の世界にいて、夢にまで見た「彼」とダンスを踊っているのに、私はこの世界の外に住むあの人のことばかり考えている。

バタン、と扉が開く大きな音が遠くで聞こえた。私はその音の方に振り返ろうとしたけれど、できなかった。
代わりに彼の手がすっと放され、一瞬のうちにその姿ごと消えてしまった。
美しい3拍子の曲を奏でていた人々も、周りで踊っていた、煌びやかなドレスやスーツを身に纏った紳士や淑女も、眩しく輝くシャンデリアも、全て白い空間に飲まれていく。

シア!」

その聞き慣れたバリトンが私の名前を呼んだその瞬間、私は図書館の冷たい床で、彼に上体を抱き起こされていた。
……もう、「彼」はいなかった。あの空間は消えてしまった。あれは私が見ていた、あの本が見せてくれた夢だったのだ。

「大丈夫か!」

「……」

私は抱き起されたまま、彼の赤い隻眼を見上げる。
ああ、どうして出会った頃は、この人の目を恐ろしいなんて思ったのだろう。
彼の目はこんなにも真摯に私を見つめているのに。そこには確かな人の温度と、あの本の中にいた「彼」の目に劣らない輝きがあったのに。

「大丈夫。夢を見ていただけだから」


2015.5.19

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