26

その日から、お城の皆は二人だけのダンスパーティへの準備をするために、忙しなく動き回っていた。
特に盛り上がっているのが楽器たちで、久し振りに皆で仕事ができるという喜びに目を輝かせ、朝から夕方までずっと曲の練習をしていた。
厨房の皆も、普段の夕食よりも立派なものを作ろうと、試行錯誤しているようだった。
彼等は当日のメニューを決して私に知らせることはせず、寧ろ知られまいと必死に隠していた。
最近では、私の厨房への出入りまでもが禁止されてしまった。当日のサプライズ、ということなのだろう。
箒たちも、いつもより忙しく走り回って掃除を行っている。当日に着るドレスまで、ミシンたちが一から仕立ててくれているらしい。

彼等のその様子から、私がどれ程歓迎されているか、また彼が皆にどれ程慕われているかを知ることができた。
そして、以前なら恐れ多いことだと恐縮するばかりだった私が、彼等の厚意を素直に喜ぶことができるようになっていた。
自らの姿と仕事に誇りを持って生きている彼等が、あんなにも目を輝かせて仕事をしている。その姿を見ていると胸の奥が温かくなるような、快い気持ちになった。

けれど、サプライズを信条としている彼等が、数日をかけて準備をしているということは、その間、厨房や楽器のある部屋への出入りが禁じられるということを意味していた。
それ故に、私はゲーチスさんに頼んで、図書室を朝から夕方まで開けていてもらった。
一日に2冊から3冊の本を読みふけり、知らない世界を泳ぐその時間はとても楽しかったけれど、少しだけ寂しいと感じていた。
私はこの城の皆を好きになっていたのだろう。彼等と話をしない日々に、息の詰まるような悲しさを覚えてしまう程には。

私と同じように、彼も皆の準備の蚊帳の外にいた。
私が図書室への扉を開ければ、彼はいつも椅子に座って私を待っていた。
一緒に掃除を終えてから、気に入った背表紙を引き抜いて本を読み始める私の隣に、彼はいつも静かにやって来て覗き込む。

「……別の本を読まないの?」

「多すぎて、どれが面白いのかよく解らない。お前が選んだものを読んだ方が、外れが無くて確実だ」

面白くない本なんてある筈がないと私なんかは思うけれど、敢えて口には出さなかった。
私の選んだ本を「確実に面白い」としてくれる彼の言葉が嬉しかったからかもしれない。あるいは一冊の本を二人で読む時間が心地良かったからかもしれない。
私はテーブルの上に本を置き、彼と同じ活字を共有した。
彼は私が読んでいるものと同じ文字を追い、はっと息を飲んだり、呆れたように溜め息を吐いたり、その口元を僅かに緩めたりしていた。

私が本を読み慣れているため、文字を追うスピードは私の方が遥かに早い。
そのため、私はページを読み終えた後で彼の隻眼をそっと盗み見て、彼が最後の行に差し掛かった頃にページに手を掛けるようにしていた。
一人で、自分のペースで読めば、一日に2冊どころか4冊から5冊程は読めるだろう。そのことが分かっていながら、私は彼の読む速度に合わせてページを捲った。
未だ見ぬ本の中の素敵な世界よりも、今の時間を噛み締めておきたかったのだ。
不思議な時間だった。本は常に私を、此処ではない何処かへ連れて行ってくれたけれど、まさかその隣に誰かがいてくれるなんて、今まで想像もしたことがなかった。

未知の世界を飛び回る、この高揚と感動を、誰かと共有できる日が来るなんて思ってもみなかったのだ。

私は彼に気付かれないように、左手をそっと自分の胸に押し当ててみる。
心臓が不思議な音を立てて揺れていた。その揺れの正体に、私は気付き始めていた。


私が一生、知ることができないと思っていた感情は、いつの間にか私の手の中にあったのだ。


私はこの城で過ごす時間が好きだった。皆との時間を、彼とのこの時間を愛し始めていた。けれど、どうしてもそれを言葉に出すことができなかった。
潰れてしまいそうな程に煩く鳴る心臓がそれを妨げたし、何よりこんな私に、そんな言葉は相応しくないような気がした。
けれど、相応しくないと口を堅く結べば結ぶほど、その想いはまだ私には眩しすぎると突き返せば返すほど、心臓は大きく鳴り、私の心を揺らした。
解っている。解っているのだ。
『近付かないで!私は貴方が嫌いなの。』
あの時の言葉を思い出し、彼を傷付けた罪悪感に胸が軋む程には、大好きな本を1冊でも多く読むことよりも、彼と活字を供することを選んでしまう程には、私は、彼を。

「愚かな少年だ。幻想に浸り、現実から目を背けるなど」

彼の言葉で私ははっと我に返る。ページを捲るのを忘れていたのだ。
けれど彼は自らページに手を掛けることはせず、この章の余韻を噛み締めているようだった。

「だが、彼女の幻想に自分が相応しくないと思う心は、その姿が幻想だと解っていながら、それでも縋らざるを得なかった彼の孤独は、少し、解る気がする」

私は紙の上に書かれた少年の言葉をもう一度読み返し、小さく頷いた。
私も、解る気がする。
本の中に書かれた美しい想いの形に相応しくないと後退ってしまう私。本の中の世界は幻想だと知っていながら、それでも夢中になってしまう私。
徒花だからこそ、その美しさに焦がれるのだ。手に届かない場所に在る思いだからこそ、それは輝いているのだ。
この想いは、私が手にするにはあまりにも眩しすぎる。

「……この本の中の世界で暮らしているような錯覚に陥っていた」

「!」

「お前の言っていた「夢を見られる物語」とは、こういうことだったのか」

『……私、本の中でも特に物語が好きなの。物語を読んでいる間は、夢を見られるから。
私がどんな人間か、何処にいるのか、そんなことを本は忘れさせて、私を素敵な場所へ連れて行ってくれる。』
かつて告げたその言葉を、彼は覚えていてくれたのだ。
私が本に魅了されたまさにその理由を、他でもない彼が理解し共有してくれた。その事実が泣きたくなる程に嬉しかった。

「……悪くない」

いつものように尊大な口調でそう紡ぐ。私も得意気に笑ってみせる。
『黙れ!お前に私の孤独が解るか!私の苦しみが解って堪るか!』
かつての彼の言葉がふと、脳裏を掠める。私は、彼の孤独を埋められているのだろうか?

二人きりのダンスパーティを明日に控えたその日、私はいつものように図書室へと向かっていた。
涼しい風の吹く渡り廊下を通って、離れの塔に入り、階段を駆け下りる。重い扉を開けて、紙の匂いがする空間へと飛び込む。
鍵が開いているにもかかわらず、彼の姿は見当たらなかった。代わりに無数の本が私を出迎えてくれたので、私はつい魔が差して、本に挨拶をしてみたくなってしまった。

「おはよう。今日も素敵なお話を読ませてね」

「ふふ、任せて」

瞬間、聞こえてきた少女の声に、私は驚きのあまり持っていた本を取り落とし、その角を足にぶつけてしまった。
あまりの痛みに思わず屈み込むと、やはり先程の声は幻聴ではなかったようで、誰かがクスクスと微笑む声が私の鼓膜を震わせた。
シェリーにも似たその高いソプラノは、けれど少しだけ異国の訛りを含んでいるようで、私達が普段使っている言葉と、イントネーションが少しだけ違っていた。
辺りを見渡して声の主を探し出そうと努めたけれど、この部屋には大量の本の他には数えるほどしかものは存在しない。人が隠れられるような場所もない。
いよいよ恐ろしくなりかけていたその時、目の前の本棚の隅から、古びた本がひとりでに浮き上がった。

「はじめまして、シア。私の本を読んでくれてありがとう」

その本の背表紙には、異国のよく解らない言葉が綴られていて、何と書いてあるのかを読み取ることはできなかった。
私と同じくらいの、少女のようなソプラノが私の名前を呼ぶ。私は落とした本を拾い上げてから、ふわふわと重力を無視して漂う本に駆け寄った。
あまりの驚きに、私はその少女が先程紡いだ言葉を忘れてしまっていたのだ。

「は、はじめまして。喋る本がこの図書室にいたなんて、今まで知らなかったわ」

「ふふ、そうね、「はじめまして」だったね。でも私は、シアのことをずっと前から知っているのよ、ずっとね」

歌うように彼女はそう紡いでクスクスと笑ってみせた。
もうこの図書室に通い始めて随分経つのに、ずっと彼女の存在に気付かないまま過ごしていた自分が少しだけ恥ずかしい。
気付けなくてごめんなさい、と謝罪の言葉を告げれば、彼女はぱらぱらと本のページを捲りながらクスクスと微笑む。

シアは私のことを、この城で暮らす皆と同じような存在だと思っているのかもしれないけれど、実はそうじゃないの」

「え……?」

「私は、この城にかけられた魔法の外にいるのよ。このお城で起こる出来事を見届けたくて、こうして本になって紛れ込んでいたの」

本に「なって」紛れ込んでいた。
その言葉に心臓が跳ねた。驚きに目を見開いて沈黙する私に、彼女はクスクスと笑いながら更に信じられないことを紡いでみせる。

「私、魔法使いなのよ」


2015.5.18

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