28

「貴方にとてもよく似た人と踊る夢を見たの」

その言葉に彼は沈黙する。私はそんな彼の目を見上げながら、先程の素敵な時間を思い出していた。文字通り、夢のような時間だった。
けれど、何故かその夢が覚めたことを悲しむ気持ちは微塵もなかった。だってあの夢はとても素敵だったけれど、あの世界にはこの城の皆がいないのだ。
トウコさんも、Nさんも、家具や食器の皆も、そして、この人もいない。
あの本は確かに私を、此処ではない何処かへ連れて行ってくれた。だから私はあの本が大好きだった。
けれどこの不思議なお城は、あの世界に決して劣らない輝きを持っているのだ。

私はこの夢を見せてくれた、自らを魔法使いだと名乗るあの本を探したけれど、彼女はぴくりとも動かずに、他の本と同じような背表紙で本棚に収まっていた。
彼にあの本のことを尋ねようとしたけれど、その前に彼が、私を抱き起こしていた腕をさっと引いてしまったのだ。
当然のように私の背中は、冷たい床に軽く叩きつけられる。酷い、と抗議する前に、彼は久々に、物凄い剣幕で私にまくし立てた。

「紛らわしいことをするな!眠いならせめて椅子に座って、テーブルにでも突っ伏して寝ていろ!私がどれだけ、」

「ゲーチスさん、この部屋に喋る本はある?」

その言葉を遮り、尋ねてみる。彼はその質問に怪訝な表情をした後で、傾げた首を横に振り、否定の意を示した。
……彼は、あの本が動き、喋ることを知らないのだ。私はその事実に驚きながらも、あの本が今日になって私にやっと話し掛けてきた理由を、ようやく察することができた。
彼女はきっと、私がこの図書室で一人になる時を待っていたのだ。

「どうした、何かあったのか?」

「……いいえ、夢を見た他には、何も」

そうして、小さな嘘を吐く。彼女が私の前でだけ動き、私に夢を見せてくれたその理由を、私自身で突き止めたいと思ったからかもしれない。
あるいは、この不思議な出会いを、私と彼女だけの秘密にしておきたかったからかもしれない。
いずれにせよ、私はこの人に小さな隠し事をすることを選んだ。少しの罪悪感が胸をチクリと刺したけれど、あの本と秘密を共有したことへの喜びがその痛みを癒してくれた。

「ねえ、あの本を借りてもいいかしら?」

私は起き上がり、本棚に駆け寄ってその本を引き抜く。確かに宙に浮き、私と話をしていた筈のその本は、もうひとりでに動き出すことも、喋ることもしなかった。
彼はいつものように快く了承してくれたけれど、その本のタイトルが異国の言葉で書かれていることに気付き、眉をひそめた。

「読めない本を借りてどうする」

「でも、借りたいの」

「……おかしな奴だ」

彼は呆れたように溜め息を吐く。いつも見ている筈のその仕草が、何故か今日はとても懐かしく感じた。

今夜のために仕立ててもらった、淡い空色のドレス。今まで着ていたシンプルなものとは異なり、たっぷりの布があしらわれていて、上品だけれど、とても豪華だ。
ウエストを締めるコルセットには、もう慣れた。ここに来た当初は歩くこともままならなかった高いヒールも、今では問題なく履きこなせる。
いつもは無造作に一つに束ねて、背中に流してあるだけだった長い髪は、トウコさんによって纏められ、渦を描くように右側からお洒落に垂れ下がっている。
その髪を飾る、青い光沢のある大きなリボンは、私が首を動かす度にふわふわと揺れる。
若いからお化粧の必要もないかしら。そう呟きながら、トウコさんは淡いピンク色のリップだけを唇に引いてくれた。

「久々に、鏡台らしい仕事をしたような気がするわ」

「ふふ、そうね。トウコさんはお喋りしてばかりだったものね」

「だってあんた、お化粧も髪弄りもまるでしないんだもの、退屈で仕方なかったんだから」

不満気にそう告げる彼女に苦笑する。
この鏡台の鏡を見ながら、腰まである長い髪を美しく纏めたり、化粧をしたりしたことは今まで一度もなかったのだ。
何に使うのかもわからないような、綺麗な装飾の付いた化粧道具は、彼女の引き出しの中にずっと眠ったままだった。
唯一、髪をとくのに櫛だけは使っていたけれど、それでは鏡台の役目を果たしているとはとても言えないだろう。
今までそのことに対して、トウコさんが文句を伸べたことはなかったけれど、本当は少し寂しい思いをしていたのかもしれない。

私は枕元に置いてあった、一冊の本を一瞥した。
またあの本と話ができることを期待して借りてきたものの、結局、本がひとりでに浮き上がることも、あの綺麗なソプラノが私の鼓膜に届くこともなかったのだ。
読める筈のない異国の文字を指でなぞりながら、私は「彼女」が見せてくれたあの夢を何度も思い返していていた。
緑の髪に赤い目をした王子と、ワルツを踊る夢。私の身体がひとりでに刻んだステップを、私ははっきりと覚えていた。
「私」が踊ったことは、ただの一度もない。けれど、もしかしたら上手く踊れるのではないかという自信を、あの夢でのステップの記憶が授けてくれた。きっと、大丈夫だ。

「……ねえ、その鍵のついた引き出しの中には何が入っているの?」

私はトウコさんに視線を戻し、鏡台の一番下にある、大きな鍵付きの引き出しを指差して尋ねた。
彼女の鏡台に開けることのできない引き出しがあることは知っていたけれど、尋ねるのが躊躇われて今まで一度も話題に出したことはなかったのだ。
すると彼女は得意気に笑い、その引き出しを小さく揺らしてみせる。随分と沢山のものが入っているらしく、中でものがぶつかる音がした。

「此処には、この城の道具たち全員の、大事なものが一つずつ入っているの。しいて言うなら、宝箱ってところかしら」

「大切なもの……。それじゃあ、簡単に見せてもらう訳にはいかないね」

「そうね、もしあんたがずっとこの城に住んでくれるのなら、特別に見せてあげてもいいわよ」

その言葉に私は驚き、沈黙した。
「何?やっぱりまだその覚悟はない?」と、笑いながら尋ねる彼女に私は首を傾げる。
『永遠に此処で暮らすと誓え。』
あの時の彼の言葉が脳裏を掠める。

「いいえ、もうとっくにそのつもりだったのよ」

いつもは饒舌な彼女が、私の言葉にぴたりと固まって動かなくなってしまった。
私は困ったように笑いながら「本当よ」と後付けする。
彼の言葉に従う形で、シェリーの身代わりとして私はこの城に閉じ込められたけれど、この城で皆や彼と時間を共にするにつれて、私はその約束を忘れていった。
『私は貴方の命令がなくたって、此処から逃げ出したりしないってことを伝えたかったの。』
彼の命令などなくても、私はこの場所を選んだだろう。私は、私の檻となる筈だったこの場所を愛し始めていたのだ。

長い間、無言を貫いていた彼女が、やがて小さく溜め息を吐き、再びその口を開こうとした。
けれどその言葉を聞く前に、部屋の扉が小さくノックされた。それが二人きりのダンスパーティを告げる合図だった。
私の心臓は大きく揺れた。もう何度も経験していた筈のこの不思議な音を、しかし私は未だに持て余していた。この高鳴りは、私にはどうしても眩しすぎたのだ。

扉から顔を出したのは、いつもの外套掛けのダークさんではなく、ワゴンに乗ったバーベナさんだった。
その優しい視線が私を手招きしているような気がして、私は慌てて立ち上がる。
少しだけ不安になってトウコさんの方を振り向けば、彼女はいつものように気丈な笑みを見せてくれた。

「大丈夫よ、今のあんたは世界一可愛いわ。いつも可愛いけどね」

「ふふ、ありがとう」

そんな軽口にクスクスと笑う。重たく肩にのしかかっていた緊張の何割かは、今の彼女の言葉で溶けてしまったらしい。
高いヒールを一歩ずつ丁寧に踏みしめて私は歩いた。その度に纏めてくれた髪が大きく揺れて、青いリボンが僅かに耳を掠めた。
まだ、心臓の揺れは収まらなかったけれど、先程よりは苦しくなかった。
折角、城の皆が素敵な時間を計画してくれたのだ。彼等の厚意を、最高のもてなしを、思い切り楽しみたかった。それが彼等への誠意になるような気がしていた。

「お願いね、シア。もう時間がないの」

けれど、部屋を出た直後に聞こえてきたその言葉に、トウコさんらしくない陰りを感じた私ははっと振り向く。
時間がない、と聞こえた。どういうことなのだろう。彼女の言葉は何を意味しているのだろう。
私は焦ったけれど、バーベナさんによって扉は閉じられてしまった。
その隙間から見えたトウコさんはいつものように笑っていて、彼女の口が、もう何度目になるか解らない言葉をもう一度、私に告げる。

「あんたの焼いた、ロールパンが食べたいわ」


2015.5.20

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