驚いたようにこちらを見ている彼の隻眼を、私は真っ直ぐに見つめ返した。
「どうして私をこのお城に置いたの?」
私が発したその疑問は、この食卓で渦を巻く。彼は私から目を逸らさない。彼は私の質問に答えてはくれない。
……けれども私は諦めない。どうしても、聞きたかったのだ。解らないことが多すぎる中で、しかしこれだけははっきりさせておきたかったのだ。
彼の口から、私がこの城に閉じ込められたその理由を聞きたかった。そのためには一度、彼を嫌うことを止めなければならなかった。
「お願い、答えて」
それは懇願だった。私は真っ直ぐに彼の目を見据えた。
そうして長い沈黙が永遠に感じられた頃に、彼はその大きな身体に似合わない、ひどく小さな声でその言葉を零したのだ。
「お前にこの城の孤独が解るか?」
孤独。
その言葉は刃のような鋭さで私の心を抉った。この、平気で人を傷付けることのできる彼から、孤独という言葉が出てきたことに私は驚愕せざるを得なかったのだ。
彼は私から視線を逸らし、その目をテーブルに落として俯いた。私はそんな彼をただ茫然と見ていた。
「10年だ。我々は10年間、ずっとこの城で暮らしてきた。誰も訪れず、たまに迷い込んだ人間も、私の醜い姿に驚きおののいて逃げ出すのだ」
「……外の人間と、交流を持とうとは思わなかったの?」
「交流だと?この、獣のような姿で?」
頭を殴られたような衝撃が走った。彼の言っていることの意味を理解せざるを得なかったからだ。
人でもポケモンでもない、得体の知れないその姿が、人の言葉を操り目の前に現れたなら、多くの人は逃げ出すだろう。
あるいは危害を加えられることを恐れて、彼の方が攻撃されるかもしれない。
相手を傷付け、自分が傷付けられる可能性のある交流を、どうして安易に持つことができるだろう。
彼の葛藤を、私は痛い程に理解することができた。
『野獣が、このお城には野獣がいるの!』
シェリーのあの言葉が脳裏を掠めた。彼女はとりわけ怖がりで臆病だけれど、大半の人間は彼女のような反応をするのかもしれなかった。
けれど、それだけのことを推し量るだけの思慮を持ち合わせているにもかかわらず、自分に怯える人間を捕まえて牢屋に閉じ込めるような真似を彼は平気でしてみせるのだ。
そこに私は彼の歪な人格を見た気がした。彼はシェリーとは異なる意味で、ひどく臆病な人間なのかもしれなかった。
だからこそ、シェリーをあんな場所に閉じ込め、私の自由を奪おうとする彼の行動がどうしても許せなかった。
「……だからって、人を閉じ込めたり誰かの自由を奪ったりすることが許されるの?」
その言葉に彼は顔色を変えた。テーブルを強く叩き、勢いよく立ち上がる。
椅子がいつかのように音を立てて倒れた。外套掛けのダークさんが慌てて彼に駆け寄った。
「黙れ!お前に私の孤独が解るか!私の苦しみが解って堪るか!」
「解らないわ、貴方のことなんか何一つ解らない!解りたくもない!」
そうして直ぐに癇癪を起こし、粗暴な言葉を振りかざすのに、私が同じように投げた言葉には、まるで地獄に突き落とされた者のような絶望の表情を浮かべてしまうのだ。
彼の心はどこまでも歪な形をしていて、私はどこまでも彼を理解することができなかった。
けれど、私は彼のことを理解することはできなくとも、私のことは理解できる。
例えば、今、自分が吐いた嘘に心臓が軋む音がしていることだって、ちゃんと解っている。
だから私は小さく息を吐いて、次の言葉を紡いだ。
「……ごめんなさい、嘘よ。私は貴方のことが知りたい」
彼は息を飲む。倒れた椅子を起こした外套掛けのダークさんが、ぴたりとその動作を止めて硬直する。
「どうして私を此処へ閉じ込めたのか、どうして私に酷い言葉ばかり投げるのか、私をどう思っているのか、知りたいの。
だから貴方が嫌だと言っても、私は明日も此処に来るわ」
恐ろしい人だと思っていた。人の気持ちを推し量ることを知らない、傲慢で身勝手な人だと思っていた。けれどそれは、彼という人物のほんの一面でしかなかったのだ。
直ぐに癇癪を起こすけれど、私の何もかもを禁じる身勝手な人だけれど、それでも、私はこの人を見限ることができない。この人を拒むことができない。
寧ろ、踏み込みたいとまで思っているのだ。彼の他の面を知りたいと思い始めているのだ。
その恐ろしい姿の中に、私達、人間と同じような臆病さと繊細さを見てしまったから。彼の中に、人の心を見つけてしまったから。
「それと、貴方は自分のことを孤独だと言ったけれど、私はそうは思わないわ」
「……」
「ねえ、貴方は自分が倒した後ろの椅子を、自分で起こしたことがある?」
彼ははっとしたように後ろを振り返る。外套掛けのダークさんは、主である彼に恭しく頭を下げる。
彼等は何も言わない。けれど私は、彼等が主である彼に忠実に従い、彼を案じている様子をずっと見てきた。
どうか振り返ってほしい。貴方を支えている多くの存在に気付いてほしい。私は彼の赤い隻眼に懇願する。
「私は此処で何日か過ごしてきたけれど、一度も寂しいと感じたことはなかったわ」
シェリーと会えないことは悲しいけれど、とは口に出さなかった。悲しいけれど、寂しいとは思わなかった。
そう、寂しいと感じられた筈がないのだ。
私の部屋では一日中、トウコさんが饒舌に色んな話をしてくれるし、楽器のある部屋に遊びに行けば、Nさんや皆が賑やかに出迎えてくれる。
厨房の皆が作ってくれる料理はとても美味しいし、廊下で彼等とすれ違えば、笑顔で挨拶を交わしてくれる。
静まり返っていたと思っていたこのお城は、その実、とても賑やかで優しい場所だったのだ。
その城の主が、どうしてそんな孤独を抱えていなければならないのだろう。この城はこんなにも温かいのに、どうして彼はその全てを冷たい目で拒むのだろう。
何もかもが解らなかった。けれど今はそれでいいのだと思えた。
時間は飽きるほどにあって、私は明日も明後日も、この部屋で彼と夕食を共にするのだから。
私は席を立ち、昨日と同じように厨房の皆にお礼を言ってから扉へと歩みを進めた。
外套掛けのダークさんが扉を開けてくれたので、私は彼にもお礼を言ってから、最後にくるりと向きを変え、彼の赤い目を真っ直ぐに見据える。
「素敵な部屋をありがとう。私、あの部屋のバルコニーから見る空が好きなの」
私の声音は、もう冷たい温度を纏わなかった。
パタン、と扉の閉まる音がして、私は小さく溜め息を吐いた。
涙は出なかった。憤りに手が震えることもなかった。穏やかな気持ちでこの部屋を出たのは初めてのことで、そのことがおかしくて小さく微笑む。
廊下の窓から月明かりが差し込んでいて、私は思わずそのガラスに手を付けて空を見上げた。
今日は少し、雲がかかっているらしい。あのバルコニーから見るよりもずっと少ない星が、けれどとても美しく瞬いていた。
大丈夫だ、大丈夫。私は此処でやっていける。
そう言い聞かせて歩みを進めようとした私は、隣に音もなく立っていた外套掛けのダークさんに驚いて窓から飛び退く。
「……驚かせたか、すまない」
寡黙で表情を表に出さない外套掛けのダークさんが、そんな風に謝る姿は珍しく、思わずクスクスと笑いながら「大丈夫です」と返した。
彼が手にしている燭台は、動かないし、喋らない。燭台のダークさんはあの部屋に残っているらしい。
部屋まで送ることを申し出てくれた彼は、私の少し前をゆっくりと歩いた。
「これからは私がお前を部屋まで送り届ける。食事が終われば私に声を掛けてくれ」
「あ、ありがとうございます」
私の部屋からこの食卓まで、そんなに遠い距離ではない筈なのに、暗いからという理由だけでわざわざ送迎をしてくれる。そんな彼の厚意が素直に有難いと感じた。
城の皆はこんなにも親切で、優しい。彼だけが、この温かい空間の外にいるような気がして、私は強烈な違和感を覚えていた。
何故、彼はあそこまで頑なに孤独を貫くのだろう。
「あの窓には鍵が掛かっている筈だが、どうやってバルコニーへ出た?」
外套掛けのダークさんは足を止め、私にそう尋ねた。
……ああ、そうだ。あの窓は開けられないことになっているのだった。
余計なことを口走ってしまったかもしれない。私は後悔をし始めていたけれど、喋ってしまったものは仕方がないと開き直ることにした。
「ええ、鍵が掛かっていました。でも夜中なら窓が開いているんです」
「……そんな筈はない。鍵を開けられるのは、我々ダークだけなのだから」
「知っています。でも、開いていたんです」
彼は外套掛けの上の部分を僅かに傾け、首を捻るような動作をしてみせる。
怪訝な表情をしたダークさんに、私はクスクスと笑いながら戯言を並べる。
嬉しかったのかもしれない。泣き出すことも怒りに身を任せることもなく、言いたいことを伝えらえた。そのことに、私は少なからず浮かれていたのかもしれない。
だから、歌うようにそんな言葉を紡いでみたくなったのだろう。
「もしかしたら、私、魔法が使えるのかもしれませんね」
私のそんな冗談が、尾ひれを付けてあちこちに知れ渡ってしまうことに、この時の私は気付けていなかったのだけれど。
2015.5.16